誰に頭を下げているのか

 それにしても、ドジャースの一平危機対応は実にユダヤ的な、鮮やかなものだった。それに比べて日本企業の危機対応は記者会見を開いて頭を下げることの繰り返しで傷口を広げるのみだ。

 アカウンタビリティ(日本では説明責任と訳しているが誤訳であり、英語の意味は「責任をとり身を切る謝罪をするべき立場」という意味に近い)の欠如と茶番化とユダヤ・キリスト教社会に見る効果的危機対応術(本稿ではヘブライ聖書(旧約聖書)の影響の大きい社会を以下、単に「ユダヤ・キリスト教社会」と言う。ユダヤ・アングロサクソン社会と言ってもいい)を比較する。
 現代日本では日本企業の行なう謝罪が、その場逃れの儀式化してしまっており、日本の株式会社/組織社会がアカウンタビリティをないがしろにする日本の典型的現象だ、それに比べユダヤ・アングロサクソン社会の危機対応は即決果断の鮮やかさだと、というのが私の考えだ。

 以下、具体的に説明する。

 ジャニーズの謝罪会見を見ると常に弁護士が同席している。
 弁護士をなぜ謝罪会見に同席させるのか。ユダヤ・キリスト教社会から見ると、これがまず失敗の第1番目。

 このジャニーズの謝罪会見のように弁護士を同席させるというのが日本独特で、ユダヤ・キリスト教社会では見られない。ジャニーズ会見場の登壇者の半数が弁護士だという異常現象だ。印象的には一体これが謝罪会見になるのか。弁護士というのは悪者を弁護する立場で、これは後ろめたいところがあるから、弁護士を同席させているとユダヤ・キリスト教社会ではみられてしまう。

 あるいは答えられない、しどろもどろになるから弁護士に代りに同席させて発言させるのか、そうみられてしまう。弁護士を同席させるという日本企業の謝罪会見というのは、そもそもユダヤ・キリスト教社会から見ると謝罪ではないとみられてしまう。

 イギリスのポストオフィスのスキャンダルで富士通の責任者が謝罪する場面がBBCで報道されていたが、富士通ヨーロッパの現地人社長がたった一人で会見していた。当然だが頭を上げる場合もなかった。

 大谷翔平も1人で一平問題の記者会見をさせられていた。ユダヤ・キリスト教社会では常に一人で記者会見する。弁護士同席はない。
 宝塚の謝罪会見では深々と全員が頭を下げているが、これはユダヤ・キリスト教社会から見ると誰に頭を下げているんだとなる。
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エサウとヤコブの物語から「謝罪」をやり方を学ぶ(フランチェスコ・アイエツ画)

ユダヤ・キリスト教社会の教える謝罪の仕方

 ユダヤ教からみると神に頭を下げているのか、ということしか理解がない。つまり、ユダヤ・キリスト教社会(西洋社会)では世間という概念がないので、日本のように世間を騒がせて世間様に頭を下げるという概念がないので、これは米国やイギリスの記者から見ると、非常に奇妙奇天烈な、誰に頭を下げているんだということになる。

 人間がユダヤ・キリスト教社会で頭を下げるのは、神かあるいは被害を受けた被害者に頭を下げるほかはない。被害者に頭を下げるなら何も記者会見なんかいらないので、被害者宅に行けばいいわけだ。

 ユダヤ・キリスト教社会の教える謝罪の仕方ですが、西洋社会ではもう聖書になっているやり方がある。米国やイギリスやヨーロッパや、あるいはユダヤ社会で何か謝罪をするという時のお手本。ユダヤ教の聖書とは要するにキリスト教の聖書である旧約聖書であり、その中で非常に有名な謝罪の場面というのが出てくる。人類最初の謝罪の場面、これが西洋では模範の謝罪の方法だと言われている。

 ヤコブがエサウに謝罪をしている場面だ。

 槍と刀を持った護衛を引き連れて鎧を着ているのがエサウで、鎧も何も脱ぎ捨て防御意図を完全にぬぎ去りひざまづいて、額づいて謝罪をして許しを乞うているのがヤコブなのだ。女たちも肌をあらわにして横になっている。2人ともユダヤの子孫、アブラハムの子どもイサクの息子だ。

 兄弟だが、なんでヤコブがエサウに謝罪をしているのかと。このヤコブはどちらかというと青白い勉強型の人間であり、エサウがどちらかというと武闘派の人間で、2人は兄弟だが、ヤコブがエサウを騙して家長権、つまり父イサクの家父長権利を盗む。それを怒ったエサウが軍を整え、ヤコブに襲い掛かる。その時に身を投げうって謝罪している。それがユダヤ・西洋社会の謝罪方法の手本となっている。被害者に額(ぬか)づく。そして鎧兜(弁護士も鎧兜の一つ)を投げ捨てて、ラクダやら羊やら、つまり、これが当時のヤコブの財産だが、全財産を投げうってエサウに差し上げると言って額づいている。

 これが西洋式、ユダヤ式の謝罪方法の模範とされている。日本企業のトップは記者会見を開き、儀礼的に深々と頭を下げれば現代日本式と思っているけれども、もしBBCやCNNなど西側のメディアが見ていたら奇妙奇天烈な話になる。

 しかし歴史を振り返ると、日本でも、戦国時代の謝罪は今の日本企業社会の儀礼方式と違いユダヤ・キリスト教社会に近いものだった。戦国時代では謝罪は城を明けわたし、領地を差し出し、妻子を人質に差し入れていたのだ。

トップが頭を下げる社会

 ところで、ユダヤ・キリスト教社会では、翔平の一平問題会見を見ても明らかだが、謝罪や弁明というのは一発勝負だ。何度も謝罪/弁明はしない代わりに1回限りで十分な謝罪・弁明をする。

 ジャニーズや宝塚のようにちょっと謝って相手の満足を得られそうもない時に、またちょっと謝るということを繰り返すのはユダヤ式(西欧式)謝罪法ではない。特に宝塚は、いわゆる、ちょい出し会見を繰り返し深みにはまり、傷口を広げた。

 ユダヤ教の聖書(旧約聖書)の創世記、創世記の中でイサク、すなわちアブラハムの子どものイサク、ユダヤ名イツハク。その妻、レベッカ。だからアブラハムからすれば孫になる。つまりイサクの子どもがヤコブ。そしてヤコブの異母兄弟がエサウ。このヤコブの謝罪の方法がユダヤ式(西欧型)謝罪術と言われている。

 エドムの土地に差し掛かったところで、エサウの軍団にヤコブが追い付かれる。
 その時にヤコブがエサウに謝罪を誠意を尽くしてする。どういうふうにしたかというと、誠意を尽くして謝罪の言葉を並べるだけではなく、ヤコブの持っていた莫大な資産。これは当時のイスラエルでは一番の財産家だが、その財産の半分をエサウに差し出す。謝罪の証として。その財産の半分とは、今の貨幣価値に換算すると恐らく数千億円の規模になんなんとするぐらいの金銀財宝家畜をヤコブはエサウに差し出して真摯に謝罪を乞う。

 ここで歴史上有名なヤコブとエサウの和解が成立する。2人は抱き合ってその和解を喜び合った。これが世に有名なヤコブとエサウの和解だ。

 このようにユダヤ・キリスト教社会での謝罪とは、腰を折って頭を下げるという動作や言葉だけの謝罪では全く相手の共感を呼ばない。頭を下げるだけでも相手の共感は呼ばない。謝罪をしても言葉だけでは誰も人の心に響かない。回数が多くても心に響かない。

 ヤコブはその持っている財産の半分を差し出して謝罪した。それでこの劇的なエサウとヤコブの和解が成立したのだ。
 つまり、財産の半分を差し出すぐらいの行為によって謝罪の誠意を差し出さなければ、それは到底ユダヤ(西欧)式謝罪とは言えない。

 この有名なエサウとヤコブの物語から、ユダヤ式(西欧式)謝罪とは、持っている財産の半分を謝罪の証拠として差し出し、本当に相手に渡すことにあるとされている。
 謝罪とは被害者に面と向かって責任者たるトップが直々に会いに行き、財産を差し出すのが真の謝罪であり、それこそが西洋式、ユダヤ式謝罪なのだ。

「辞任」=「逃亡」と同じ

 かたや日本式謝罪というのは、被害者に会わず、財産を差し出さず、とにかく記者会見で「世間に」頭を下げることが繰り返されている。

 宝塚問題では、記者会見をして世間(記者やテレビカメラの群れ)というわけの分からないものに深々と頭を下げるという映像を流させるのではなく、ユダヤ・キリスト教社会からみると「宝塚のトップが被害者宅に謝りに行け」となる。

 しかもタイミングがものすごく重要で、早く行くということが重要。
 エサウの軍隊がひたひたと迫って来る時に間髪を入れずに鎧兜を脱いでヤコブは謝りに行っている。日本企業の謝罪は、社長を辞任するとか、宝塚の理事長を辞任するとかと言うが、ユダヤ・キリスト教社会(西欧社会)からすると、「辞任」=「逃亡」と同じなので意味がない。トップが被害者の面前に行って、辞任という逃亡をしないで、賠償金を差し出す。額づくということだ。辞任とはユダヤ・キリスト教社会の謝罪ではない。

 ユダヤ・キリスト教社会の西欧型は記者会見で「世間」に頭を下げるのではない。被害者にトップが会いに行って金を出す。だから記者会見で「世間」に頭を下げるなんて場面を設定する必要はない。トップが被害者のお宅に行って、額づいて頭を下げてお金を出す。ヤコブとエサウの時代だったら、お金というよりも全財産の牛やら馬やら、金銀財宝を差し出したのだ。だけれども21世紀の社会はお金しかないので、お金を差し出す。

 差し出すということは現実に被害者にお金を持っていって渡す。ポイントは幾らかということだが、想像を絶するぐらいのお金を差し出しても、評判を落とすことで会社が被る収入の減少よりも安く済む。そこらへんの計算が日本企業のトップはできないのだ。

 宝塚の開演中止による収入減よりも、被害者宅に行って差し出したお金の方がはるかに安く済むが、それをメンツ(つまり世間体)にこだわってやらないから公演中止による収入減となる。
 ジャニーズに至っては、ジャニーズのタレントをもう使わないという企業が続出した。その収入減よりもはるかに少ない金額で、これらの問題を収拾させることができたのにもかかわらずだ。(後編に続く)
石角 完爾(いしずみ かんじ)
1947年、京都府出身。通商産業省(現・経済産業省)を経て、ハーバード・ロースクール、ペンシルベニア大学ロースクールを卒業。米国証券取引委員会 General Counsel's Office Trainee、ニューヨークの法律事務所シャーマン・アンド・スターリングを経て、1981年に千代田国際経営法律事務所を開設。現在はイギリスおよびアメリカを中心に教育コンサルタントとして、世界中のボーディングスクールの調査・研究を行っている。著書に『ファイナル・クラッシュ 世界経済は大破局に向かっている!』(朝日新聞出版)、『ファイナル・カウントダウン 円安で日本経済はクラッシュする』(角川書店)等著書多数。

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