第1次世界大戦が終わったとき、日本人の気持ちは明るかった。しかし、日本陸海軍の気持ちは暗かった。今の日本が暗いのと同じで、暗さと明るさが日本全体の空をおおっていた。その頃のことは誰も書かないが、今と共通することがあると思うので書いてみよう。

 明るかった方の理由は、なんと言っても日本が〝世界列強〟の一つに加わることができたことである。世界3大海軍国、5大陸軍国などである。さらに、国際連盟の常任理事国にも加わり事務局に次長の席を持った。そして何よりも大きかったのは、ヨーロッパ全体が虚脱状態で「これからの世界は〇〇を共通の理想としよう」と言いだす元気がなかった。しかし、思想界と政界には日本の声を聞こうという流れが生まれた。その点も今と同じだが、それを言うほどの度胸や見識がヨーロッパには不足していた。むしろそれに代わってニヒリズムとジャパニズムの流行があった。それから病人・半病人の健康回復によいという宗教的医療的な温泉めぐりがあった。傷病兵があふれるヨーロッパだったのである。が、そんなことはさておき、日本人にわかりやすいのは円高だった。

 暗かった方の原因としては、ルーズベルト大統領の介入によって日露戦争には勝っても賠償金が入らなかったことが大きい。あくまでも賠償金をとるという意欲がないので、そのためのアイデアも出なかった。しかし円高があったので、貿易は黒字でたくさんの日本人が欧州留学や買い物に出かけた。経済界も好況に沸いたが、それ以外の日本は暗かった。対米輸出の好調は貧富の差の拡大をともなっていたから、それは社会主義の伸長でもあった。住友財閥の御曹司が大阪に煙突がたくさん立ちならんで黒煙をはくのを歌によんで「富はいよいよ偏りゆくらし」と言ったから、番頭達が眉をひそめたのも当然だった。

 それから20年後、中島飛行機を創設した中島知久平氏は自分がつくった会社がどんどん〝軍が管理する工場〟になってゆくのをみて新入社員達に、「諸君は就職人気が第1位の中島に入って喜んでいると思うが、もしもこの戦争に勝てば、年産1万機の会社は不要になる。負ければもちろん不要で、どちらにせよ中島飛行機は不要になるから次のことを考えておけ」と言ったので、新入社員達はその意味がよくわからなかった。が、それから1年経ってようやくわかるようになったとき、もう日本は敗戦に向かって急坂を転げ落ちていた。たくさんの人が中島・三菱・川崎などの工場へ動員されて年産1万機を実現するために働いていたが、それはすべて1千馬力級のエンジンで、2千馬力級は「誉」と「火星」だけだった。上級生に「こんなことでいいのですか」と聞くと、「さあね」と頼りない返事だった。アメリカは2千500馬力級とジェットエンジンで、「誉」の先がない日本からの開戦はそもそも無理だったとさとるべきだった。

 東條英機首相は「開戦後、思いがけない勝利に酔って1年間何もしなかったことが悔やまれる」と言ったらしいが、何とも無責任な首相である。陸軍の組織である憲兵を一般国民相手にまで使用して単に自分の権力を拡大することに夢中だったとは……である。開戦にあたって陸軍にはどういう自信があったのかと考えてみると、単にドイツが対英戦に勝つことしか見ていなかったという気がする。もっと世界を見る目が必要なときにこんな人に首相を任せたのでは、勝利は望むべくもなかった。

 昭和16年の秋に首相になった東條は「大御心は平和であるぞ」と言って陸軍参謀本部と陸軍省の中をかけまわったらしいが、時すでに遅しだった。東京裁判は連合軍がする前に日本人がするべきだった。陸軍刑法には戦に負けた司令官は軍法会議にかけるという一文があるから、東條がそれを知らぬはずはない。が、それは誰も言えないことだった。

 天皇は有難い存在だという人がいるが、それは敗戦時には軍人の代表に立っていただくつもりだったのかもしれない。しかし天皇は、小学生だった皇太子を陸軍の軍人にしなかった。天皇と軍は一体ではないと考えていたのは偉かった。今は主権在民だから、国民全部に責任がある。開戦責任も敗戦責任も終戦責任も、国会と首相1人に集まっているらしい。
日下 公人(くさか きみんど)
1930年生まれ。東京大学経済学部卒。日本長期信用銀行取締役、ソフト化経済センター理事長、東京財団会長を歴任。現在、日本ラッド、三谷産業監査役。著書に『ついに日本繁栄の時代がやって来た』(ワック刊)。

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