大学入試に民間の英会話検定を導入する方針について、萩生田光一文科相が土壇場で実施見送りを決めた。
 その直前の「裕福な家庭の子が回数を受けてウォーミングアップできるみたいなことがあるかもしれないが、自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえれば」云々の発言には、裕福でない大半の家庭は違和感を覚えただろう。その意味で失言だが、政治家にとって重要なのは、すぐさま本格的論議につながる正論や行動を繰り出し、区々たる失言を押し流してしまう突破力である。
 先任者らの不興を買い出世に響くことを恐れて軌道修正できない例が多い中、萩生田氏の決断は大いに評価できる。

 ところで英会話試験に関しては、そもそも「中学高校6年間の英語教育で英語をしゃべれないのは、大学入試に会話力の評価がないからだ」 という「改革」推進者らの基本認識に問題がある。
 一つの語学を習得するのは、一つの楽器をマスターするに等しい。難易度から言えば、語順が同じで漢語由来の共通名詞も多い韓国語の場合は、サックス、フルート等の単音楽器に近いだろう。アメリカ、韓国に長く駐在し英韓両語に堪能なある外交官は「英語に比べれば韓国語は10倍楽」と言っていた。
 文法も単語も日本語と全く異なる西洋言語はコード楽器に相当する。ドイツ語、スペイン語などがギターとすれば、西洋数言語が混淆し発音に例外が多い英語は、音域がより広く同時に出せる音数も多いピアノに近いと言えよう。複雑な内容をハイテンポでこなす会話力となれば、臨機にアドリブを繰り出すジャズ・ピアニスト並みのテクニックが要求される。そんな力が週に数時間程度の「中学高校の英語教育」で付くはずもない。会話力は、楽器同様、日々鍛錬を重ね、一生掛けて磨いていくものだ。一旦あるレベルに達しても、使わなければ錆びてしまう。

 筆者の周りには、新聞社やテレビ局の元ワシントン支局長や元在米大使館公使といった英語の達人が多数いるが、みな現地でバリバリやっていた頃に比べれば会話に関する限り瞬発力が随分落ちたと言う。
 産経新聞の11月2日付社説は「英語は使う環境や目的がなければ身につかないと多くの専門家が指摘する。中学、高校時代は基本的な英文法などの土台を固める必要がある。コミュニケーションの基礎は、言語を問わず相手の言葉をよく聞き、理解する読解力だ。これは確かな国語力に支えられる」という。その通りだ。答はここに尽きている。

 ところが同紙11月14日付のコラムで外務省OBの宮家邦彦氏がこの社説に異議を唱えていた。
「民間試験導入延期といった対応は間違っている。……まず今の英語をしゃべれない英語教師を総入れ替えすべきなのだ。……しゃべれる立派な英語教師から学べば、英語は必ずしゃべれるようになる」

 本当か。氏は最近一緒に国際会議に参加した「国際問題の専門家で留学経験まである逸材」たちがしっかりした英語を話せないのを見て改めてそう感じたという。
 しかし、それはその「逸材」らが日頃の鍛錬を怠っているせいだろう。中高の英語教師の責任ではない。文科官僚や政治家のほとんども英語が話せないはずだが、大学入試に英会話が含まれていれば今頃流暢に話せたとでも言うのだろうか。日頃の仕事で特に必要を感じないから修練を怠ってきただけだろう。自らの会話力不足を中高教育や大学入試の責任に帰して、現役の生徒や保護者にしわ寄せしてはならない。

 私は、入試の英語は文法力や読解力を見る昔ながらの筆記試験だけでよいと思っている。簡明かつ公平で、保護者に過度の経済的負担を掛けることもない。
 ついでに言えば、私は法学部出身だが、大学入試用に数学を勉強させられたことは、いまだに大変な時間のロスだったと思っている。それ以後全く仕事で使う局面がないからだ。小学校の算数、せいぜい中学程度の数学で必要充分だった。大部の数学問題集を解いている間に古今東西の名著を読んでいれば、どれだけ成長にプラスになったかと思う。法学部や文学部の受験生に数学は必要ない。たまたま好きな学生は選択で取ればよい。

 論理的思考力を身につけるのに数学が有効という理屈は信じ難い。そのためなら福田恆存(ふくだつねあり)ような論理展開とレトリックに優れた批評家の文章を繰り返し読む方が遥かによい。最も重要な国語力の涵養にもつながる。「有識者」の思い付きや英語のできない政治家の責任転嫁的議論に惑わされず、受験生が国語を中心とした、いわば体幹を鍛える勉強に集中できるよう、余計な負担を取り除くことを改革の柱にすべきだろう。

島田 洋一
1957年、大阪府生まれ。福井県立大学教授(国際政治学)。国家基本問題研究所企画委員、拉致被害者を「救う会」全国協議会副会長。

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