日米のような先進自由主義国と中国共産党政権(以下、中共)のような「先進ファシズム」体制の間では、同じ単語を発し、同じ表現を用いても、常に「認知のズレ」(Cognitive dissonance)があることを意識しておかねばならない。
 それを、実際の交渉から活写した一節がアメリカのウィリアム・バーンズ元国務副長官の回顧録にある(『裏交渉』のタイトルで昨年末出版。未邦訳)。

 オバマ政権の末期、米側代表として米中「戦略安保対話」に臨んだバーンズは、人民解放軍を含む中共の組織的な「サイバー産業スパイ」活動を取り上げ、「具体的な証拠」を示しつつ、即座にやめるよう求めた。結果は、約7時間に及ぶ押し問答となったという。
 中共側は頑として証拠の認知を拒んだが、バーンズはその背後に「より広い意味の認知のズレ」を強く感じたという。
 米側は、「国家安全保障のためのスパイ行為と経済的優位を得るためのスパイ行為」を峻別し、前者はプロの情報機関同士の「日常業務」であり「やられた方が悪い」と言うべき世界だが、後者は「堅気に手を出す」行為であって許されないとの立場を強調した。
 ところが中共側の口ぶりには、「政治的であろうが経済的であろうが、政府とはあらゆる手段を用いて優位を築いていくもの」との姿勢がありありと窺えた。

 独裁政権の感覚では、「政府」と「民間」の区別などないし、政府や党は法律外の存在、すなわちアウトローであって、その行動を縛る道徳やルールなどないのである。
 したがって中共から見れば、外国の組織や個人は政府、民間を問わず、すべてスパイ行為の対象となる。また中国の組織や個人は、政府、民間を問わず、すべて国家情報活動の先兵として動かねばならない。
 サイバー分野以外でも、たとえば尖閣諸島を日本から奪取する作戦において、中国海軍と「漁船」は密接に連携してきた。両者の間に明確な線はなく、「海上民兵」が乗る「漁船」は軍の別動隊以外の何者でもない。

 中共幹部とやり取りする中でバーンズは、相手が異形の存在であることを鋭く感じ取ったわけである。ところが彼の話はここから妙な方向に進んでいく。
「具体的証拠を示しての長い説得が何の効果も生まず、またオバマ大統領の懸念表明がはねつけられ、無視されるのを見て、我々は中国の情報機関員数人の起訴に踏み切った。中国政府が彼らをアメリカの司法システムに差し出す可能性はゼロだったが、我々の意図するところは伝わった。米中両国は最終的に一般合意に達し、中国側はサイバーを通じた産業窃盗行為を顕著に減らした」
「一般合意」とは、訪米中の習近平とオバマが共同記者会見の場で発表したサイバー攻撃取り締まり合意を指す(2015年9月25日)。しかしそれ以後も中国側は知的財産の窃盗行為を続けてきたというのが、トランプ政権のみならず、米議会、米メディアのほぼ一致した見方である。

 バーンズの現実から遊離(ゆうり)した総括には、単なる紙の上の合意を「実質的な成果」「一歩前進」と評価したがる外交当局の宿痾がほの見える。形だけの起訴が中共指導部に衝撃を与え、姿勢を改めさせたという見立ても明らかに甘いだろう。
 バーンズは国務省内で異例の出世を果たした超エリート官僚だった。回顧録の中で、国務省には交渉相手国の立場に「理解」を示し過ぎ、いつしかその代弁人のごとくなってしまう職業病(国務省内でも自虐的に「クライエント病」と呼ぶ)があり、自分はそうした一派と闘ってきたと強調してもいる。その人にしてこうした状態に陥るわけである。国務省と米国社会一般における「認知のズレ」も相当なものと言えよう。
 バーンズは、「アメリカ外交を破壊した」とトランプ大統領を強く非難している。しかし、「相手の立場を理解する」ことに基本的に関心がなく、端的に結果を求めるトランプだからこそ、実質的な痛みを伴う制裁を発動し、中共を相当程度追い込むことができた。

 仮に来年以降、民主党バイデン政権となれば、再び国務省主導路線に回帰する可能性が高い。バイデンは、政治的ポーズにまず意識が行くタイプで、確たる理念や戦略がなく、また元々薄かった集中力が77歳となって益々怪しくなってきた。
 善意を裏切られたと感じると(本人の誤解の場合も含め)露骨に怒りを表明するが、中共はたぶらかしの術に長けている。トランプより遥かに御し易いと見ていよう。
 救いは、対中強硬派が勢いを増す米議会だ。日本の有志議員にはぜひ連携を深めてほしい。

島田 洋一
1957年、大阪府生まれ。福井県立大学教授(国際政治学)。国家基本問題研究所企画委員、拉致被害者を「救う会」全国協議会副会長。

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