何百年か昔、海外から病気が入ってくるときは港からきた。アジアからの船と乗組員が病原菌をもってきた。
 そこで、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国それぞれと結んだ安政条約による開港地では、明治になってから検疫所がつくられたのだった。
 その近くの医科大か専門学校の学生がアルバイトに動員されたが、一体どんな病気が入ってくるのかわからなかったから、時には命がけのアルバイトだったと言える。

 私は何にも知らないポッと出の田舎者で、東京での下宿はたまたま慈恵医科大の学生のたまり場だったので、たちまち麻雀の輪にひっぱりこまれた。
「しっかり手を洗え。パイは汚いからな」
 と言われて、
「そんな汚い手は使わないよ」
 と笑いながら輪に入ったが、やがて真剣にそう言ってくれていることがわかった。
 彼らは実によく手を洗い、口をゆすぐ。
 この習慣を日本中に広めたのは慈恵大なのだという。それは熱帯病をもって入港してくるのは東京港が一番で、そのときわれわれは断れない。

 むしろ喜んでゆく。その結果、病気になってしまうこともあるが、病気の経過を記録して第1発見者になる喜びもある。
 事実、第1発見者の論文は、慈恵大が書いている場合が多い。手を洗うのはそのために我が身を守る用心で、その結果の名誉である──というので、心から感心した。
 それに似た話は明治・大正時代にはたくさんあって、私の母もそうだったからアーッと思い出した。
 第1次世界大戦で日本が戦勝国のひとつになったとき、大蔵省の神戸税関長は「これからは外国船が神戸にも入ってくる」と考えた。

「カバンをあけて見せろ」というのが仕事だが、そのときは女性の公務員がついていた方がよいと考えたのはさすが神戸で、たくさんの女性が大蔵省を志願したが合格した2人に母が入っていた。
 しかし、たちまち熱帯病に感染して生死の境をさまよった……と聞いたことがある。
 まだ結婚前だから私はこの世にいないときの話で、1週間高熱にうなされてようやく人心地がつくまでの看病は、和式洋式混合の対症療法だけだったろうと想像する。
 原因は不明なままの1週間だが、そんな話を聞いていたので何となく、流行病はいずれ治るとか、若ければ治るとか、手を洗えとか、そんな思い出がわが家に残った。

 日本陸軍は、日清・日露の両戦役を戦った経験から、1番の敵は不衛生だから帰還兵を2週間は収容して、発病するかどうかを見ようときめた。
 これにはもちろん猛烈な反対があったが、それは収容所の用地取得と忠勇な帰還兵をバイキン扱いするのか、という名誉の問題だった。
 森鷗外は陸軍の軍医総監になる一歩手前だったが、格別の熱意と責任感で解決にあたった。
 そこで、単にドイツ語がよくできたから出世した、という不評が消えた。

 ともあれ、朝鮮・満洲へ出兵すると傷病兵がたくさん出るというので防疫部隊がつくられたが、その教訓は今は行方不明らしい。
 中国のコロナウイルスの蔓延からはじまる、世界的規模の不衛生問題と中国的強権政治の恐ろしさが思い出されるが、これらは対岸の火事ではない。もはや日本の問題である。
 と、ここまで考えると幕末の志士が日本国と日本国民をたたえるとき、〝神州清潔の民〟と表現したことが思い出される。

 清潔とは、単に衛生用語ではなく、心のもち方や日頃の生活態度や行為にまで広げて用いられるのが日本である。
 テストや試合でインチキをすると〝キタナイゾ〟といわれ、くりかえすと〝バイキン〟といわれて〝ノケモノ〟になる。
 日本外交は相手国を「A級ノケモノ」とか、「B級バイキン」とかに指定して広く世界に同調を求めるべきである。すぐやろう。
 衛生には巨額の費用がかかる、ということもわかるだろう。

日下 公人 (くさか きみんど)
1930年生まれ。東京大学経済学部卒。日本長期信用銀行取締役、ソフト化経済センター理事長、東京財団会長を歴任。現在、日本ラッド、三谷産業監査役。著書に『ついに日本繁栄の時代がやって来た』(ワック刊)。

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