渡邊渚さんの記事から覚える違和感の正体【兵頭新児】

刺激的な写真集を出すなどしてお騒がせの元フジテレビアナウンサー、渡邊渚さん。ところが彼女は目下、フェミ的主張でも世を騒がせている。日本では性犯罪に対する認識が低い、男性に対して甘い、というのがその論旨だが、果たしてそれにはどこまでの根拠があるのだろうか……?

渡邊渚さんの記事を読むと……

 元フジテレビアナウンサー、渡邊渚さんの記事が話題になっています。
〈「世界から『日本は男性の性欲に甘い国』と言われている」渡邊渚さんが「日本で多発する性的搾取」について思うこと〉というもので、当初NEWSポストセブンに掲載されたものですが、Yahoo JAPANニュースに転載されるなど広がりを見せています。

 彼女自身、ある出来事をきっかけにPTSDを発症し、そのため休職、入院を余儀なくされたという壮絶な経験もなさっています。その経緯から「中居正広氏の事件と関係あるのでは……」とも噂されていますが、確定的な情報ではないので、それは措きましょう(念を押しておきますとPTSDの原因も、性加害が原因なのかは公表されていません)。
 記事はまず、11月に発覚したタイ国籍の12歳の少女が都内のマッサージ店で性的サービスをさせられていた事件について述べられており、もちろんその事件に対する怒りはぼくも共有するところですが、読み進めるうち、首を捻(ひね)らざるを得なくなってくるのです。
 例えば彼女は、以下のように述べます。

《「女児や女性の性的搾取」について、これまでの日本社会では問題意識が低かったが、私はもっと真剣に解決させるべき重大な問題だと思う。売春させる人間を罰するだけでなく、買う側が刑罰を受ける法律にするべきだし、顔も名前も晒(さら)されて社会的に抹殺されてほしい》
《他者の人権を踏み躙(にじ)り、人生を壊した加害者には、二度と社会生活を送れないくらいの辱(はずかし)めを受けさせるべきだ》


 しかし、ぼくがこれまで幾度も指摘してきたように、日本社会はすでに警察も司法も全く関与しないままに一週刊誌の、女性側の訴えだけで大物芸能人を幾人も抹殺してしまえるほどに「問題意識が高い」のです。
 それに加え(性犯罪者と全く同一視して買春したものを)「顔も名前も晒されて社会的に抹殺されてほしい」というのは、さすがに非現実的でしょう。ましてや「辱めを受けさせるべき」は彼女の過剰な男性への憎悪、他罰的な加害性が見て取れ、とても賛同できません。

 以下、彼女の筆は日本のジェンダーギャップ指数が低いこと、女はお茶汲み係と言ってくる人がいるなど、性犯罪とは何ら関係ないことへの批判へと続いていきます。

何でもかんでもをごっちゃに

 ――いえ、ここでいつもぼくの記事を読んでくださっている方は、思わずツッコミを入れたかもしれません。ジェンダーギャップ指数も、職場での女性のお茶くみも、フェミニストにかかっては性犯罪とメチャクチャ関係があるという「設定」にされてしまう、と。

 そう、渡邊さんが書くものを見ていくと、彼女はすでに、フェミニズムに深く染まった人物であることがわかります。同じくNEWSポストセブンでジュディス・ハーマンの名を挙げていたこともあります(「渡邊渚さんが憤る“性暴力”問題「加害者は呼吸をするように嘘をつき、都合のいい解釈を繰り広げる」 性暴力と恋愛の区別すらできない加害者や擁護者への失望【独占手記】」)。

 前々回の草津町事件の時にもお話ししましたが、ハーマンは米国の精神科医です。80~90年代の欧米ではフェミニストたちが精神疾患を患う女性の病因を幼児期の(多くは父親からの)性的虐待にあると(いい加減な根拠で)断定し、女性が父を加害者として訴訟を起こす、「記憶戦争」の嵐が吹き荒れました。ところが、人間の記憶は不確かで、ちょっとした誘導でありもしない記憶を呼び覚ますという「偽記憶症候群」が知られるようになり、ハーマンの主張は退けられるようになったのです(ところが近年、新著を出すなど復活し、フェミニスト界隈ではまた持ち上げられ始めている……ということは、上の記事でも述べました)。

 残念なことに渡邊さんもまた、そうした何万という家庭を破壊した事件の立役者であるハーマンを無批判に信じている一人なのです(ただし、記事中でこの「記憶戦争」についての言及があるわけではありません)。
 同記事には以下のような記述もあります。

《そもそも、恋愛関係でもない仕事相手や両親と同年代の異性から好意を向けられたり、セクハラをされたりするだけでも不快だ》

 そりゃあ、「不快」と感じるのは仕方がありませんが、「好意を向けられ」ることと「セクハラ」されることをいっしょに語るのはどうなんでしょう。先にも性犯罪を買春と同列に論じたり、ジェンダーギャップ指数やお茶くみをそれらと関連があるように語ったり、そもそも12歳の少女の性被害が話のマクラであったり(それを成人間の売買春と同列に語るのは違うでしょう)と、渡邊さんは何でもかんでもをごっちゃに語っています。
 そしてフェミニズムそのものが、やはり彼女のように性的な事柄の全てを「性被害」へと単線的につなげてしまう思想であることも、ぼくの記事を読んでくださっている方にはおわかりかと思います。

 そもそも彼女はフォトエッセー、写真集などで水着、下着とかなり「攻めた」ショットを発表しています。これについては「性を売ってるくせにフェミニストぶるな」との批判も受けたようで、ご当人は「商品に付されたり紹介記事に書かれたりする扇情的なキャッチフレーズは自分がつけたものではない(大意)」と言っているのですが、「好意を向けられ」ること自体が不快とする人物の振る舞いとしてはどうなんだ、としか言いようがありません。

 しかしそれも、フェミニズム的には正当化されてしまうのです。「女性自身が自律的に性を楽しむのは好ましいが、男性が女性の性をいいいように扱うことはまかりならぬ」という、もっともらしいけれども現実的ではない主張こそが、フェミニズムなのですから(女性を性的に感じることがまかりならぬと言われては、男性はもう、一生家に引きこもり、女性とは間接的にも接することのない生活を送るしかないわけです)。

 というわけで、ご年配の方、ブサメンの方は、彼女に「存在そのものが不快」と判断されてしまう可能性があります。
 渡邊さんのお気持ちを尊重し、どうぞ彼女の写真集の購入はお控えくださいますよう、お願い申し上げます。

本当に性犯罪は増えている?

 ――さて、しかし、そもそも、渡邊さんやフェミニストたちがここまで言わねばならぬほど、性犯罪は多発しているのでしょうか。
 SNSを見れば毎日毎日性犯罪を恐れ、もはや日本で生活することがためらわれるとの女性たちの恐怖の声の大合唱です。もっともその声をよく聞くと、5歳の男児からの性被害に怯(おび)えたり、あるいはアニメの美少女がうどんを啜るCMを観てまるでフェラチオだ、性加害だと訴えたりするものなのですが……。

 ちょっと、90年代から現代に至るまでの性犯罪についてグラフを見てみましょう。

90年代から現代に至るまでの性犯罪についてグラフ(著者作成)
 グラフの青線が『犯罪白書』における強姦(不同意性向等)、強制わいせつ(不同意わいせつ)の認知件数を示したものです。2000年の半ばを頂点として、件数は下り坂に向かっています。
 もう少し長いスパンで見れば、昭和30年から40年あたりは強姦罪が年間6000~7000件発生しているのに対し、平成の時代は2000件あたりを横ばいといった具合で(グラフでは強姦と強制わいせつをいっしょにしているため、件数も上がっていますが)、ともあれずっと減少していることは疑い得ない。

 2000年半ばの認知件数の激増は警察が性犯罪被害の申告受理を積極化したからだと言われ、これは男女共同参画政策が推進されたことが遠因になっていると思われます。また23年にも強制性交等罪が不同意性交等罪に改正されており、ここで「相手の意に反する性交」の解釈が拡大されたがため、この時期の認知件数が跳ね上がってしまったと考えられるわけです。
 つまり、むしろ性犯罪の基準を厳格化することで、数字は一時的に上がるものの、基本的には下降線を描いているという歴史が見て取れるのです(フェミニストは「暗数があるから」と反論しますが、日本にだけ異常に「暗数」が多いのだとの主張の根拠は、聞いたことがありません)。

 一方、赤い線とオレンジの線は、それぞれ『読売新聞』、『朝日新聞』が性犯罪について語ってきた頻度を表しています。性加害についてのワードを記事から拾い、年代ごとにカウントしたものです。表記揺れを考慮し、データベースを「強姦」「強制性交」「強制性交等」「不同意性交」「不同意性交等」「強制わいせつ」「不同意わいせつ」「性暴力」「性的暴力」「レイプ」で検索しました。
 犯罪の認知件数の方がマスコミに登場する言葉より多いのは当たり前ですから、そこは補正を加えていますが、ともあれ性犯罪に関する報道が、ここ数十年で急増していることが見て取れますね。2000年代初期には上に書いたように性犯罪が急増して、むしろ報道と負の相関を描いていますが、一方、犯罪の認知件数の減った2010年代前後にはむしろ報道は増えており、これまた負の相関を描くようになり、これ以降も近い状況が続きます。
 つまり、この数十年で性犯罪関連の報道が急増し、それはむしろ性犯罪が減ると増えるという傾向すらあるわけです。

 2000年代初期は性犯罪の急増(というよりは警察の方針の転換)に報道が「乗り損ねた」という印象がありますが、それ以降、そうした記事が好まれるとの手応えを感じ、マスコミも積極的に報道を始めた……といった経緯も想像できます。#MeToo運動が盛んになったのや、SNSでいわゆる「ツイフェミ」が萌えキャラのキャンセルを始めたのも、この頃ですね。
 性犯罪の一貫した減少とは裏腹に、(SNSにおける女性たちの声がそうであるように)マスコミは性犯罪の恐怖を叫ぶことで、読者たち、視聴者たちを「煽って」いる。
 
 新聞も雑誌も商売ですから耳目を惹く記事を書くこと自体はある意味では当然ですし、注意喚起のため、危機を煽るのもある程度までは仕方ないとも言えます。さらに言えば、売れなきゃ書かないわけで、こうした記事に女性の食いつきがいいのは自然な話ではありましょう。
 ただ……それにしても、とも思うのです。

レイプした責をとれ?

“women-in-jeopardy“という言葉をご存じでしょうか。直訳すれば「危険にさらされている女性たち」で、アメリカで盛んな(1990年代頃に盛んだった)女性が元彼、元夫などに危害を加えられるテレビドラマなどを指す言葉です。言うならあまり直接的なセックス描写のない、レディースコミックのようなものでしょうか。

 そうしたドラマのエンディングクレジットの後には女性用シェルター(夫のDVなどから逃れるために用意される保護施設)、女性支援団体へのフリーダイヤルがほぼ毎回映されるのだそうで、これは『美味しんぼ』の後でその回扱われた料理のCMを流すようなもので、上手いやり方です。
 日本ではこのような(つまり恐怖を煽っての)広告がそもそも許されていないようですが、何だか本件と相通ずるものを感じさせる話です。

 性犯罪は減少傾向にあるにもかかわらず、マスコミはむしろその危機を煽る。女性側も当然、その種の話題には興味があるのでつい見てしまう。そうした記事やニュースが話題になればマスコミも手応えを感じ、いよいよ報じるようになり、女性の不安はいよいよ煽られる。
 その果てに、フェミニズム的な言説が説得力を持つようになり、フェミニストのメディア露出、またフェミニストとなる女性も増える。しかし、彼女らの主張する「性被害」が実態をどこまで反映しているかは、いささか心許ない……。

 さらに、もう少し意地悪な推察をしてみるならば、性犯罪の記事と“women-in-jeopardy“は「男性が女性の魅力に負け、不埒な行為に出たものの、最終的には罰せられる」という共通の構造を持っています。それは女性たちにとっては恐怖であるとともに、自らに性的魅力が備わっているがために男性が道を踏み外し、さらに破滅したという、ある種の欲求を充足させるものでもあります(レディースコミックがレイプ描写に溢れていることは、みなさんご存じでしょう)。

 つまり、近年のこうした過剰報道のその果てに出てきた今回の渡邊さんの記事が、「(女性の描いた)レディースコミックのレイプ描写を読んだ女性が、実際の男性に対して、その行為の責を取れといっている」かのような、そんな奇妙な風景に、ぼくには見えてしまうのです。
「いや、レディースコミックはフィクションでも報道は事実だぞ」と言いたい方もいらっしゃるかもしれませんが、事実ではあっても、どうした事件を取り上げるかという取捨選択で偏りが生じるものだし、渡邊さんがハーマンをとりあげたように、不適切な論調によって読者を誘導することもあり得る、というのがぼくの今回の主張です。
 ぼくたちもそうした傾向に対し、リテラシーを持たねばならないのです。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
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