【橋本琴絵】米国「法の支配」は大統領選を許容するのか(連載第8回)

1月20日に行われたバイデン氏の大統領就任式で、混乱を極めた大統領選挙も一応の決着を見たとも思われる。しかし、果たして米国が重視する「法の支配」「経験則」に照らして、今回の選挙は公正に執行されたと胸を張って言えるのか―。国家に「法」や「経験則」が必要とされるそもそもの理由から今回の大統領選挙を考察する。

【橋本琴絵】米国「法の支配」は大統領選を許容するのか

「法の支配」とは何か

 今般のアメリカ大統領選挙は、私たち日本人が歴史上最も強い関心を持った大統領選挙だった。その理由は、もはや自国の防衛能力だけでは国を守ることができない現実を目の当たりにする一方、トランプ大統領の掲げた反共精神が何よりも頼もしく、我が国の安全保障にとって重要だと考えられたからに他ならない。

 しかし、大統領選を巡る報道や意見を俯瞰してみると、個人や報道機関を問わず現実の制度とは相容れない主張が目立った。それは、アメリカ建国の理念である「法の支配」に対する理解が不十分のまま議論を進めていることに起因しているように思料される。

 そこで、本論は世界を二分する「秩序についての考え方」である法治主義と法の支配の峻別を簡潔に解説することで、アメリカの基本理念と今後の展望について理解の一助に資することを願い、論考を進めたく思う。

 さて、一口に「法の支配」といっても、何を以て「法」とするのか考えるにあたり、多くの人が「議会で可決された法のみ」を想像することと思う。しかし、法の支配が意味する「法」とは、議会などの立法機関が制定した法を必ずしも意味しない。では何が法なのか。それは常識と慣習から発見されたルールを法源とし、歴史的事件や紛争解決時の判決として成文化されたものをいう。

 これを「個人」に例えてみると「育ち」である。法の支配は国権を規制するが、個人の場合は育ちが行動を規制する。育ちとはテーブルマナー云々の話ではなく、個人の行動を抑制する規範意識のことである。

 例えば、性欲を持て余し金銭にゆとりがあったとする。ここで「出会いカフェ」などに行き女性を求めるのは育ちが悪い(=規範意識が薄い)。育ちの良い人は、そうしたことを「違法」と考え、性的衝動を抑制する。この「違法」は成文化されたものではない。規範意識としてすでに完成されているものだ。

 実際、その人の生育環境が具体的にどのような状況であったかはわからない。しかし、「育ち」は可視化される。飲食店従業員やタクシー運転手に対する態度、宴席で酩酊したときの言動である(特にアルコール摂取時は前頭葉機能が低下する一方、大脳辺縁系に蓄積された経験則が顕在化する(酔っても家に帰れるのは、家への帰路は反復した経験則があるためだ)。

 育ちがよければ、悪い付き合いは無く、異常なふるまいをすることもなく、困っている人が居たら最低限助け、当然犯罪も抑制される。

 この個人にとっての育ちこそ、国家にとって「法の支配」における法である。国王であっても大統領であっても等しく「国家の育ち」という経験則の下に服しており、また経験は付け足すことはできても変えることはできない。過去は決して変えられないからだ。

 つまり、育ちがよい国であれば、経験則がまったく異なる外国の人々を国内に入れたりせず、異常なふるまいをせず、また拉致された人がいたら助け、もちろん臓器摘出などの犯罪を見過ごさない。経験則違背は許されないからだ。では反対に、育ちの悪い人が生活していくためには、どのようにする必要があるのか。

「法治主義」と「経験則」

【橋本琴絵】米国「法の支配」は大統領選を許容するのか

規範意識が薄い場合、厳しいルールが求められる
 そこで「厳しいルール」すなわち法治主義が必要になる。法治主義とは、多種多様な異常な経験則を引き締めあげ、秩序をつくる。

 例えば、高級ホテルのロビーのトイレに「トイレットペーパーを持ち帰らないでください」といった注意書きは無いが、高速パーキングエリアのトイレを利用すると、そのような注意書きを目にする。

 学校や会社などでルールが厳しい状態とは、育ちが悪い(=規範意識が薄いもしくは未熟な)人々が集合する中に秩序をつくろうとする試みがあるためである。この中で、ルールの制定者にはルールは適用されないこともある。それが「法治主義」である。

 一般的に軍隊で規律が厳しいのは、ナポレオン戦争以降、さまざまな社会階級の人々を集合させて組織したため、厳しく法治主義で兵士を律する必要があったためと考えられる。

 しかし、言い換えれば「経験則を共有できる」育ちの良い(=規範意識が強い)人々で形成される軍隊は、軍律が緩い。

 例えば、エドワード・ドナルド・スロヴィク二等兵は、南北戦争以後、脱走罪で唯一銃殺刑となったアメリカ軍人だ。同時代の枢軸では軍法会議で次々に銃殺刑が執行された中、銃殺刑に処せられたアメリカはこの二等兵ただ一人だった。

 ここにきて「自由と法の支配」がきわめて密接な関係にあることを説明できる。

 自由の前提には、「育ちの良さ」がある。
 
 もし、個々人の育ちが異なる状態で自由を認めてしまえば、秩序は崩壊する。従い、育ちを共有できない前提に対しては、徹底した法治主義で自由を否定しなければならない。300以上の王国や領邦の集合体である神聖ローマ帝国や、歴史も文化も言語も異なる56の民族で構成される中華人民共和国が法治
主義を採用せざるを得なかった理由がここにある。

 しかし、育ちの良い人々に対して人為的に考えたルールは不要である。育ちの良さゆえに個人は規範意識を持ち、法の支配における法を犯さないため、自由主義が成立する。

「法の支配」から考える―大統領選は正しかったのか

【橋本琴絵】米国「法の支配」は大統領選を許容するのか

過去の「愛国者」達は今回の選挙を見たらどう思うのか―
 一般的に、自国の歴史や規範を大事にする人々が「保守」、すなわち「育ちの良い人々」である。

 そこで、「保守」という「育ちの良い人々」の目からみて、今般のアメリカ大統領選で生じた混乱はどのように映ったであろうか。選挙執行日より後に集計された郵便投票は、建国当初から許されていた慣習だろうか。数々の不正目撃証言に対して公平な審問権は保障されていただろうか。総じて、大統領選挙は「常識と慣習」に従い執り行われていたと認識されただろうか。

 アメリカにおける選挙執行における公正の担保とは、我が国でいう国体護持にあたる。国体護持の常識と慣習に対して、保守主義者は「女系」などの変更を認めるだろうか。「皇位継承者が一名しかいないから」などといった現在の事情を理由にした変更を認めるだろうか。否、あり得ない。同じ気持ちをアメリカの保守主義者は抱いている。

 かつて、アメリカではパトリオット(愛国者)とロイヤリスト(親英派)が戦い、パトリオットが勝利して法の支配に反する課税から国が独立した。

 かつてアメリカでは、黒人奴隷に市民権を与えることはできないと判断を下した最高裁判所の判決(Dred Scott v. John F. A. Sandford)に納得できない人々が銃をとり、パトリオットとレベルス(反乱軍)が戦い、パトリオットが勝利して法の支配に反する奴隷制度が廃止された。

 今回、パトリオットは大統領選挙執行の在り方について法の支配が定める法に違反していないと認識しただろうか。

 上記までの視点をアメリカ人が銃で武装している理由を引用した上で考えてみたい。

 アメリカ連邦最高裁は2008年6月にDistrict of Columbia v. Heller 554 US 570(2008)で銃を所持する理由を次のように判決で説明している。

 『憲法修正第二条は、民兵への従軍と関係しない銃を所有し、郷土内の防衛など伝統的に合法である目的に於いて個人が銃を使用する権利を保護する』

 アメリカにおける法の支配の「法」は、自由な国家の安全にとって必要であるから武器を保有して携帯する権利を侵してはならないと明確に定めている。それでは、今般の大統領選挙の在り方は、「自由な国家の安全」であると果たしてパトリオットから見なされたのであろうか。大統領就任式を経てもなお、今後もアメリカ大統領選の真実について注視すべき理由はそこにある。

橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。日本会議会員。