松本人志裁判取り下げをどう見る?【兵頭新児】

自ら行った飲み会で、女性への強制わいせつがなされたとの疑惑で、本年を通して渦中の人物であった松本人志。だが11月8日、松本が自ら訴えを起こしていた裁判を取り下げたことが報じられた。これでは敵前逃亡、松本自身が強制わいせつがあったことを認めたも同然、との意見も声高に上がったが、果たして……?

松本人志裁判終結で、侃侃諤諤の議論が巻き起こっているが……
via 中西正男氏の記事より

ダメすぎる謝罪文?

 松本人志氏が、裁判を取り下げたことが話題となっています。
 確かに、自らわざわざ裁判を起こしておいてやっぱり止めますでは、いささか肩透かしという感じもないではありません。

 果たして本件をどう見るのが正しいのか――以前も『ダイヤモンド・オンライン』の「松本人志さんの“罪”を考察したブログに反響広がる「ぐうの音も出ない」「完璧すぎる論破」」という記事で松本氏のミソジニー(女性嫌悪)をコテンパンにやっつけたパオロ・マッツァリーノ様が、新たなブログ記事を書いておいででした(「松本さんの件に関する現在の私の考えをお話しします」)。

《あれほど人をバカにした声明文も珍しい。しぶしぶ謝罪する体を装ってるだけで、本心では反省も後悔もしてないことが透けて見える、ダメすぎる謝罪文です。こんなのダメだ書き直せ、と松本さんを諫(いさ)めることができる人が周囲に誰もいないってのが、やはり問題なんで》

 なるほど、パオロ様も松本氏についてはいたくお怒りのようですね。
 しかし、これだけではいささか抽象的です。
 さらに読み進めると、パオロ様は今回の訴訟取り下げについて、コナン君よろしく以下のような名推理を披露します。

《というのは7月に、被害を訴えていた女性の身辺を探偵に探らせて弱みを握り、裁判での証言をやめさせようと画策してたことが発覚したからです》

 この裏工作によって、裁判官の心証を損ねたのではないか……というのです。なるほど、松本氏の卑劣(ひれつ)さには、呆れてものも言えません。
 さすがは正義の味方、パオロ・マッツァリーノ様!!
 ぼくも松本氏への怒りを胸に、いくつか記事を眺めてみたのですが――。
  ……ん?
 どうも松本氏側の弁護士の言い分を見る限り、これは松本氏に強制わいせつを受けたとされるA子さんに連絡を取ろうとしただけのようですね。

 もちろん、弁護士さんの言い分が正しいという保証はありませんし、どうかと思う振る舞いもないではないですが、別に違法なことを行ったわけではないし、『スポニチ』7月11日の記事では弁護士さんの談話として、「文春のA子さんを特定したいと思ったし、特定できたらそれがどういう人物なのか知りたいわけだから、そういう意味でやっていたということですよね」との言葉が報じられていました。

 以前もぼくは、松本氏側はA子さんが誰なのかについて、わからないのではないかと推定し、今年から始まった、性犯罪において被告に被害者名を秘匿する制度とそっくりだとも指摘しましたが(松本氏の場合はこの措置が執られたわけではありませんが)、それが当たっていたようです(「松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち2」)。問題の人物すらわからないのでは手も足も出ませんから、それを特定しようとするのは、当たり前と言えば当たり前ではないでしょうか。

事実上の敗北宣言?

 い……いえ、こんなことでパオロ様の松本氏への怒りは揺らぎません。
 さらに読み進めましょう。

《先日の声明では、まだ懲りずに物的証拠の有無にこだわって自分を正当化してるところにも呆れました。そもそも性行為に同意してたかどうかなんてのは内面、心理的なことなのだから、物的証拠を出せと要求すること自体にムリがあります》

 まさにその通りです。
 強制わいせつとは究極的には心の問題であり、証明は困難なものなのです。
 ですから、法廷においては「疑わしきは罰せず」との原則が……あ、あれ……?
 パオロ様のお言葉を聞いていると、「証拠がないけど罰せ」と言っているみたいなのですが、そうなのでしょうか。

 実はこれ、前にも書かせていただいたことです(「松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち」)。そこでもパオロ様が上にも挙げた記事においてA子さんの証言には「矛盾」がないのだから正しいのだ、との珍説を展開なさっていることにツッコミを入れました。例えば、「ぼくは昨日ステーキを食べました」と言った時、その言葉に矛盾はないけれども、それが本当にステーキを食べたことを保証はしない。小学生にでもわかるリクツです。
 ところが、パオロ様は今回の記事においても、ただひたすらA子さんの証言に矛盾がないから本当なのだと繰り返すばかり。どうも、いまだ「疑わしきは罰せず」の原則もご存じないようです。

 さて、では、本件をどう見るのが正しいのでしょうか。
 中西正男さんによる「松本人志さんの裁判終結。取材をしてきて感じたこと。そして始まった新たな戦い」では松本氏が芸能人としての活動を休止してまで裁判に注力していたことと、復活を望むファンの声とを天秤にかけ、後者を選んだ、つまり、これ以上、タレント活動を休むことに嫌気が差したのではないかと語られています。

 確かに、裁判に時間を割くことは多大なエネルギーと経済力と時間とを浪費することでもあり、無理もない話でしょう。ただぼくも、正直に言えば一度やり出したことなのだから『文春』に勝つまで続けてほしかったし、これではどこぞの正義の味方を勢いづかせるだけではないかとも思えます。
 しかしでは、今回の裁判終結は、松本氏の「事実上の敗北宣言(と、パオロ様はおおせです)」だったのでしょうか。

物的証拠がなくともクロ?

 弁護士の嵩原安三郎さんが、裁判終結に当たって出された、『文春』と松本氏側のコメントについて、興味深いポストをしていました

《簡単に言うと「強気な松本氏のコメント」に対して「弱気な文春側のコメント」という対照的なコメントとなっていることです》

 はて、どういうことでしょうか。
 ぜひ、当該ポストをお読みいただきたいのですが、ごく簡単にまとめてしまうと、以下のような具合です。

 まず、裁判の終結の際、原告が「止めます」と言っただけではダメで、被告の同意が必要。そして被告も裁判に勝てる見込みが高ければ、簡単には「止めます」に同意しない。また裁判を起こされる可能性もあるのですから。つまり『文春』は裁判を有利だとは考えていなかった可能性が高いわけです。

 そして松本氏側のコメントには、「強制性の有無を直接的に示す物的証拠はないこと等を含めて確認いたしました」とあり、これはかなり「強気」である。
 こうしたコメントは通常、互いに(『文春』側と松本氏側で)チェックがあるはずで、松本氏側が『文春』同席の場で「証拠ないじゃん」と言ったも等しく、嵩原氏はこれを「一方的な松本氏側の勝利宣言」とまで評しています。

 また、『文春』側のコメントには(これまでことあるごとに繰り返されていた)「取材には絶対の自信があります」という一文がなく、それが極めて不自然、大変に「弱気」だとの指摘もなされています。
 さらに、松本氏の謝罪は「不快な思いや心を痛めた方がいるのであれば(大意)」というものであり、「強制性のある行為」に対しての謝罪ではない。パオロ様はこれについて「不誠実だ」と怒り狂っておいででしたが、むしろ「強制性はなかったよね」という(繰り返しますが、『文春』同席の場での)宣言にも等しい、というわけです。いえ、『文春』のコメントによるとA子さんらとの協議もあったとあり、となるとその場には彼女も同席していたのだ……と言えそうです。

 本当に『文春』が松本氏の「強制わいせつ」を信じ、女性は被害者だと確信していたとして、こうした結末を受け容れるでしょうか……?

 しかし、そうなるとパオロ様はどうしてここまで無理筋の松本叩きを続けるのでしょうか(いささかパオロ様にこだわりすぎだと思われるかもしれませんが、先のパオロ様の記事が繰り返し掲載された反響の大きかったものであること、また、パオロ様の言動そのものが目下の左派のスタンスを端的に表したものだと思えるので、あくまでその典型例として採り挙げていることを、ご了解ください)。
 パオロ様は以下のように吠えておいででした。

《それは、権力者は何をしても許される、あるいは、何をしても権力者になれば許されるというメッセージです。それを容認したら、権力者は何をしても許されるのだから、逆らってもムダだ。権力者には黙って服従せよという脅しを正当化することになります》

 当該記事は本当に、読み進めるたびに「権力、権力」と繰り返されており、いささか辟易(へきえき)とさせられるのですが、おそらく、これはパオロ様のホンネだと思います。
 彼にしてみれば松本氏が絶対権力者であり、女性はいついかなる場合も清廉潔白(せいれんけっぱく)な被害者であり、その女性に寄り添う自分は正義の味方――という世界観をお持ちなのでしょう。しかし、(本当に、今さら、根本的なことを申し上げますが)本件はあくまで松本氏と『文春』のバトルであり、A子さんは本件を警察に届けてすらいない。
 つまり、法の全く及ばない「私刑」に対して、やむなく松本氏が訴えを起こした、というのが根本の図式なのです。女性は(こと性犯罪関係については)ほとんど事実関係をジャッジされることなく男性を社会的に抹殺してしまえる権力者なのです。

 その証拠にパオロ様ご自身が「物的証拠がなくともクロなのだ」とわけのわからないことをおっしゃっておいででしたし、また、同じ『ダイヤモンド・オンライン』において元週刊文春の編集長が松本氏の「女性の同意を得ずに、性行為を強制したことは一度もない」との主張に対し、以下のように書いていました。

《現在の不同意性交の法的定義では、立場が上の権力を持つ側が同意があったと主張しても、権力のない側が不同意だったと証言すれば、不同意とみなされる潮流となっているので、これは罪を認めたに等しい》

 つまり、性犯罪においては女性の言った者勝ちになっているのが現状だということです。この元編集長、あくまで松本氏批判の文脈で書いているのですが、これでは誰しもが松本氏の潔白をむしろ、信じるのではないでしょうか。
 それを絶対権力者なのだと断ずるパオロ様のお考えは、奇妙というほかはありません。

「男性は絶対権力者だ!」

 パオロ様の御著作に『会社苦いかしょっぱいか』(20年、『サラリーマン生態100年史』として新書化)という名著があります。
 ここでパオロ様は大正時代の会社の重役が22歳の女性秘書をレイプし、愛人同然に扱っていたという事件を面白おかしく紹介され、女性に対して割り切った関係を続けていただけだろうと笑い飛ばしているのです!!

 まあ、大正時代ともなるとさすがにもう歴史上の人物とも言え、生々しい怒りや悲しみも感じにくいですが、それにしても女性に対して非道いことを書いておいて、ホンの数年で、変われば変わるものです。
 実のところパオロ様の御著作は、かつては(毒舌、ユーモアを売りにしていたこともあり)今なら女性嫌悪、フェミニズム批判ととれるような箇所が多くあるのです。

 これは、かなり以前にご紹介したサブカル的な人たち(町山智弘氏)などともそっくりです。レイプなど反社会的表現こそが「体制への反逆」と信じていた人たちが、見事に「アップデート」し、今やフェミニストの傀儡のように振る舞っていると(「むしろ女性に横暴?「男性フェミ」のダブスタを検証する」)。
 要するに、賢明な彼らは世をポリコレが覆いつつあることを感じ取って変節し、フェミニスト側について、思考を停止し、「男性は絶対権力者だ!」と絶叫することを選択した。
 そういうことなのでしょう。

■備考
ご紹介したパオロ・マッツァリーノ様の記事は本当にデマ、デタラメとしか言いようのない非道いものです。かつての記事でもそれについてご説明しているのですが、更にはぼくのnote記事もご覧いただければ幸いです。
「反社会学者の奇妙な変節」
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。