フジテレビvs『週刊文春』――その戦いの果てに待つものは【兵頭新児】

『週刊文春』の記事によって燃え続けた中居正広氏の女性トラブルが、フジテレビへと延焼。今や(フジ)テレビを観ればACのCMばかり、YouTubeに目を転じればフジ批判の動画ばかりという事態となった。が、ここへ来て『文春』のフジについての記事に、根幹を揺るがすような誤報があったことが判明。このあたりで一度、冷静に立ち止まってみる必要があるのではないか。

10時間にも及んだフジテレビの記者会見。会場は怒号などが飛び交うなどした
via YouTubeより

問われる『文春』の責任

 中居正広氏、フジテレビ問題が去年の暮れから絶えることなく、話題を提供し続けてくれています。
 今やフジテレビにはスポンサーがつかず、ACのCMや自社CMばかりが流れている……ということも、みなさんご存じでしょう。
 しかしここへ来て、とんでもないニュースが飛び込んできました。
 今まで炎上の火つけ役を担ってきた『週刊文春』ですが、中居氏を巡る報道の一部に矛盾があったのです。

《昨年12月26日発売号では、事件当日の会食について「X子さんはフジ編成幹部A氏に誘われた」としていました。しかし、その後の取材により「X子さんは中居氏に誘われた」「A氏がセッティングしている会の”延長”と認識していた」ということが判明したため、1月8日発売号以降は、その後の取材成果を踏まえた内容を報じています》

 つまり、当初の報道では明らかにフジの人間が問題に関与していたはずが、それは誤解に基づいていたようで、続報ではしれっと中居氏個人の行動であるとされているのです。
 これはまず「橋下徹『フジ説明拒否への疑問と文春への注文』|中居・フジ問題「私はこう考える』という橋下氏の談話で指摘されたのですが、外からの批判を受け、改めて上の記事が掲載されることになったのです。

 以降、記事ではA氏がそれ以前の会食にかかわっていたことなどを挙げ、「以上の経緯からA氏が件のトラブルに関与した事実は変わらないと考えています」と述べられておりますが、それはその可能性もありましょうが、その証拠はないのだから、正直居直りと言われても仕方がないでしょう。

 ともあれ、これでは一連の疑惑について、少なくともフジテレビについては根本がひっくり返されたわけで、今の惨状について、『文春』は一体、どう責任を取るのかと言いたくなります。
 リンク先を見ていただければわかりますが、上の記事は本当に短いもの。『文春』はこんな訂正記事に留まらず、フジの10時間越えの記者会見に対抗して、24時間フルマラソン記者会見でも開くべきではないでしょうか。

人民裁判が嬉しくてならない

 上の件で中居氏はもちろん、フジについても報道が冤罪だと決まったわけではありません。実際に中居氏は巨額の和解金を相手女性に支払ってもいます。

 しかし本件で警察などが動いた様子もなく、『文春』の記事だけで中居氏は芸能界引退を表明、またフジの看板番組であり国民的アニメである『サザエさん』もスポンサーのクレジットが次々消えていくという事態に陥っています。西松屋だけは最後まで残っていたのですが、今週以降、CMを見合わせる旨が発表されました。西松屋については(フジにかかわり続けることを批判しての)不買運動もなされており、上の件はその影響かとも想像でき、これは典型的なキャンセルカルチャーとしか言いようがありません。

 国家が、つまりこの場合であれば警察や司法などが常に正しいわけではないのだから、マスコミがそこを監視することは極めて重要です。が、マスコミが警察や司法の代わりに悪人を裁くようになっては、それは本末転倒というものです。
 今までぼくは松本人志氏やジャンポケの斉藤慎二氏についても、基本、同情的でした。もちろん両者が裁判を起こしたり問題のあったとされるロケバスのドラレコを調べてくれと主張するなど容疑をあくまで否認しているのに対し、中居氏は自ら引退表明しているわけで、同列に扱うわけにはいかないかもしれません。

 またそもそも、ぼくも彼らが絶対に無罪だと断言しているわけでは全くありません。
 しかし警察でも司法でも何でもない一週刊誌によって大物芸能人が潰されたという経緯は、全く同じとしか言いようがないのです。

 ぼくは松本氏に対するパオロ・マッツァリーノ氏の攻撃に、かなりしつこく批判を加えました(批判記事①批判記事②)。それは一つに左派がフェミに逆らえないという状況に怒りを感じるからでもありますし、そもそも同氏の言い分が支離滅裂でデタラメ極まるデマと称するしかないものだったからでもありますが、もう一つ、左派にとっては『文春』という国家とは異なる権力による人民裁判が嬉しくてならないのだな、と感じたからでもあります。彼ら彼女らは、とにもかくにも体制と異なる権力を立ち上げ、それをほしいままにしたいという願望にとり憑(つ)かれているのです。

『サザエさん』と『ちびまる子ちゃん』の意義

 ネットからも「オールドメディア」の凋落(ちょうらく)に快哉(かいさい)を叫ぶ声ばかりが聞こえてきます。確かに大手マスコミは今まで存分に横暴な振る舞いをしてきましたし、そもそもその多くが左派なのですから、それが失墜していくという今の状況に、ぼくも痛快さを感じてはいます。
 しかし考えてみれば、そうした「大きなものへの反発」「大きなものが滅びていくことへの快感」自体が左派的なものでもあります。それは果たして、必ずしも正しいものなのでしょうか。

 つまり、目下はネットvsテレビとでもいった図式が成り立っており、そして全体的にはネット側に理があることが多いとは思うものの、これは言うならば野党vs与党という図式と同じであり、与党が全く消え去ってしまうのも困るのではないかな、と思うのです。
 テレビそのものはずっとオワコン(流行遅れ)だと言われており、権威の失墜は時代の流れかもしれません。しかしフジはすでに存続自体が危ぶまれる状況であり、そこには歓迎すべきでない側面も、少なからずあるはずです。

 実のところぼく自身、中居氏のファンというわけではありませんし、また正直、かつてのフジテレビのギョーカイノリに、不快感を覚えてもいました。
 しかしぼくとしては、フジが消えてしまうとなると、『サザエさん』、及び『ちびまる子ちゃん』がどうなるのかが気になっています。いえ、別にこれら番組も観てはいないのですが、仮にフジとともにこれらも終了すると、日本にとって大きな損失ではないでしょうか。
 むろん、フジはほかにも多くのアニメ作品を放映していますが、仮にフジがなくなろうと、これらは配信で観ることができるでしょう。しかし上の2作品は「テレビから何となく流れており、それを何となく観るもの」であり、そうあるのが正しい姿だと思うわけです。

『サザエさん』は去年で55周年を迎え、『ちびまる子ちゃん』も休止期間はあれど今年で35周年を迎える長寿番組。また、これらは現状ではおそらく3世代同居を描く唯一のコンテンツです。こうした「よき家族」の風景を大きなメディアで、しかも永続的に放映することの意味は、小さくないでしょう。
 実は波平さん役を長らく勤めた声優の永井一郎さんが10年ほど前に物故した時、フェミニストたちからは「これを機にこの番組を終了しよう」といった声が上がりました。要するに家族というものを肯定的に描き、ヒロインのサザエさんが専業主婦に収まっている本作を、フェミニストたちは強く憎んでいるのです。考えると先のパオロ氏も『サザエさん』を貶(けな)していたことがあり、左派にとっては日本人全員の家長とすら言い得る波平さんこそ、憎悪の対象なのでしょう。

 しかし、ぼくの友人は1995年に阪神大震災に被災した時、一番心の支えになったのは、テレビをつけると『サザエさん』が放映されていたこと、つまりモニタの向こうに「日常」が存在していたことだと語っていたことがあります。
 すなわち、「大きなもの」に対してチェック機関が存在していることは重要ですが、そちらが暴走し、「大きなもの」を潰してしまうことは、決して誰の得にもならないと思うのです。

おふくろさんのところへ帰る

『文春』がどうかは存じ上げませんが、今のマスコミで力を持っているのは若い頃、学生運動をやっていた世代が多いかと思いますが、当時はそれと連動し、ヒッピームーブメントに影響を受けた「フーテン族」なるものも出現していました。これらはともに、反体制運動という「大きなもの」への反発だったと言えるでしょう。
 しかしSF研究家の大伴昌司は彼ら彼女らを調査して、(カネがなく生命がけのヒッピーと違って)「ちょっとでも腹でも痛くなると、さっさとおふくろさんのところへ帰る」と評していました。

 本件からもまた、おふくろさんが困るのが面白くてからかい続ける子供のようなムードが漂っているように感じます。「おふくろさんだから間違ったことをしても見逃せ」と言っているのではありません。「おふくろさんとは言え、悪いことをしたのなら、まずは第三者委員会の結論を待ち、そして、警察なり司法なりで正規の手続きを経てから、裁くべきだ」と、本件を見ていると言いたくなってくるのです。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。