【兵頭新児】市場原理無視の"LGBT迎合"はコンテンツの自殺行為だ

DCコミックスの漫画『スーパーマン:サン・オブ・カルエル』において、二代目スーパーマンを襲名したクラーク・ケントの息子がバイセクシャルという設定が話題を呼んでいます。しかし、商業コンテンツとは本来制作者の表現の発露と、市場の需要のバランスで成り立つはずのもの。果たして無理なLGBT迎合が市場原理にかなっているのか―。需要を無視したLGBT迎合がコンテンツの未来を滅ぼすことを憂う――

兵頭新児:市場原理無視の"LGBT迎合"はコンテンツの自殺行為だ

子供向けコンテンツにもLGBT

 過日、DCコミックスの漫画『スーパーマン:サン・オブ・カルエル』において、二代目スーパーマンを襲名したクラーク・ケントの息子、ジョン・ケントにジェイ・ナカムラという男性の恋人ができるというエピソードが描かれました。

 米国ではLGBTのキャラクターが他にも続々と誕生しています。日本の戦隊シリーズ(『秘密戦隊ゴレンジャー』に端を発する集団ヒーロー)は米国では『パワーレンジャー』として子供の圧倒的支持を受けているのですが、近年、女性メンバーが同性愛者であるという描写がなされました。勘ぐることを許されるならば、男性原理の体現者である「スーパーヒーロー」こそ、フェミニズムに深い影響を受けたLGBTにとって、「打ち倒すべき敵」として捉えられているのかも知れません。

 前回もご紹介したBlah氏のnote記事、「「トランスする子供達」?LGBTと子供のジェンダー」によれば、2歳から4歳児が対象の幼児教育番組『Blue's Clues』にドラァグ・クイーン(女装した男性で、特に派手な衣装や化粧などの扮装をした人)が出演したといいます。

 前回は自分のまだ幼い子供を「トランス」として育てる海外のセレブ様たちについてもお伝えしましたが、近年のコンテンツにおけるこうした潮流もそれに近いのではないでしょうか。これらの現象は、クリエイターが「キャラクター」という「子供」をポリコレの生贄とした、と表現できるように思うのです。

本当にLGBTキャラが求められているのか?

 もっとも、この現象については次のような反論があるかもしれません。

――フィクションのキャラクターがLGBTでどこが悪い、「悪い」と思うことはまさにお前自身の差別意識の発露だ。

 或いは、今までのぼくの記事、例えば戸定梨香騒動について述べたものを読んでくださった方は、さらにおっしゃるかもしれません。

 ――「表現の自由」の重要さはどうした、お前はずっとフェミニストに対してそれを説いていたではないか。

 確かに、『スーパーマン』を規制せよとはぼくも思いませんし、いずれにせよクリエイターなり出版社なりが自分のキャラクターをどのように描こうと自由は自由です。

 しかし、本件を耳にして、多くの方は何ともいえない気持ち悪さを感じたのではないでしょうか。それはネットニュースなどで本件が好ましいこととして報じられる一方で、コメント欄ではそうした(気持ち悪いといった)声が並んでいる……といった状況を鑑みても、おそらく間違いがありません。

 そしてこの「気持ち悪い」という感情の何割かは同性愛に対するそれかも知れませんが、しかし多くは、「何でもかんでもポリコレに適う表現が求められる現在の状況」にこそ向けられているのではないでしょうか。

 というのも、単純に「バイセクシャルのスーパーマン」というキャラクターをどれだけの人が望んでいたか、疑問だからです。

兵頭新児:市場原理無視の"LGBT迎合"はコンテンツの自殺行為だ

市場で本当に「バイセクシャルのヒーロー」が求められているのだろうか?
 フェミニストの中には「キオスクで同性愛者向けのポルノが売られないのはLGBT差別だ」などと主張する人もいますが、言うまでもなくそれは単純な市場原理に基づいたものです。

 逆に本件が市場原理に忠実であったなら、つまり米国でバイセクシャルの数が急激に増加し、純粋に商売上の理由で米国で一番有名なスーパーヒーローをLGBTにしたのであれば仕方がないというか、文句を言っても始まらない、と考えるしかありません。しかし実態はやはり、そうではないでしょう。件のコミックは空前の売れ行きを示したと伝えられますが、日本ですらニュースで伝えられるほどに≪宣伝≫されたのだから、当たり前のことです。

 つまり、本件は市場のニーズに則ったものとはとても思えず、ポリコレに配慮しましたという送り手側のポーズを感じないわけにはいかないのです。

LGBTコンテンツは"日本発祥"とする人たち

 或いはですが、またここで反論の声が聞こえてくるかもしれません。

 ――お前はオタクを自称しているくせに、オタクコンテンツがいかにジェンダーフリーなものか知らないのか?

 そう、本件にまつわり、そうした意見が多く聞かれました。いつも言う通りオタクコンテンツ、オタクのマジョリティーにイデオロギー的な偏りはないと思われるのですが、オタク業界人、オタク文化人などは左派寄りの人たちが多く、ロジックのレベルではこうした論調が好まれる傾向にあります。

 togetterでは「「新スーパーマンは同性愛者!これはキスシーン!」にはCCさくらを出しながら「おうやっと日本に追いついたな」って言うのがジャパニーズカルチャーだってすごいんじゃよ論としての正解だと思う」といったまとめが作られました。

 このタイトルでは何が何だかわからないと思いますが、「翻訳」するならば以下のような感じでしょうか。

 ――「新スーパーマンは同性愛者!」「キスシーンが描かれる!」と喧しいが、そんなことは日本のオタクカルチャーでは「普通」。例えば1998年、NHKでアニメ化された『カードキャプターさくら』は子供番組ながら同性愛者が大勢登場した。本件など「おう、やっと日本に追いついたな」と言ってやりたいくらいに、日本の方が進んでいるのだ。

 ……まあ、こんな感じでしょうか。

兵頭新児:市場原理無視の"LGBT迎合"はコンテンツの自殺行為だ

確かに「セーラームーン」にも同性愛カップルは登場したが…
 同まとめにも言及がありますが『美少女戦士セーラームーン』(1992)でも敵、味方陣営共に同性愛カップルが登場しましたし、同性愛をテーマにしたギャグ漫画『パタリロ!』(1982)のアニメ化はさらに昔の話です。

 しかし、ちょっと詳しい方ならばここでピンと来たのではないでしょうか。

 『パタリロ!』はまさに少女漫画で「少年愛」が描かれることが流行していた時期の作品。その潮流はコミックマーケットなどで描かれるやおい同人誌(漫画やアニメの少年同士の友情を同性愛として描いたもの)となり、今のBL(ボーイズラブ。やおいとほぼ同じですが、パロディー以上に独自の商業作品が盛んになりました)へと発展していきました。

 先の『セーラームーン』などにおける少女同士の同性愛はまさに「思春期の少女の擬似的な同性愛」に沿った形で描かれており、BL含め、こうした文化はかつての「エス」(女子校などにおける少女同士の擬似的同性愛)と同種のものであると考えられるのです。

 つまり、これらコンテンツはあくまで女性が自らの快感原則を忠実に表現したものであり、実在の同性愛者とは限りなく無関係のものなのです。『パタリロ』の作者は男性ですが、先にも書いたようにあくまで女性作家の少年愛表現が先行していたと言えるでしょう。

 『セーラームーン』のヒロインたちの友愛には濃厚に「同性愛」的ムードが漂っていますが、直接の描写なく、成人のレズビアンというよりは「エス」や「百合」といった、思春期の仮性のものにこそ近いでしょう。

 そもそも、そうした「百合」よりも「BL」の方が圧倒的に支持されている事実は、単純にオタク女子がヘテロセクシャルであること、普通に男の子が好きなことを示しています。

 男性がレズビアンもののポルノを好んでいるからといって、それを「LGBTに対する理解が深いのだ」とは誰も言わないでしょう。ただ、「あぁ、女の子が二人出てきてお得なんだな」と思う場合がおおいのではないでしょうか(これはこれで少々乱暴な言い方ですが、ひとまずそれは置きます)。

 しかし一体全体どうしたわけか、フェミニストたちはこれらBL、百合的表現に対し、「ゲイへの理解」、「既存のセクシュアリティへの挑戦」などという、どう考えても当を得ているとは思われない「批評」をすることが大変に多いのです。男性向けのレズもののエロ漫画などは、何故だか常に「レズビアンへの蔑視である」と全否定しているにもかかわらず、です。しかし双方、LGBTとは関係のないところで描かれた、あくまでヘテロセクシャルのための架空の表現という意味では、同じなので
す。

"オタク"=親LGBTは無理がある

 実のところ腐女子(BLを好むオタク女子)も上の世代の人々にはフェミニストが多く、とにもかくにもこうしたコンテンツを「ポリコレに適うものだ」と誇ることが大好きです。

 これは善意に解釈するならば、自分たちの愛する文化が(ポリコレ的に)好ましいものなのだと思いたいという邪気のない行為なのかもしれませんが、厳しい見方をするならば、オタクコンテンツを自分たちの政治的な思惑のダシにしようという意図があるのでは、と思えるのです。

 事実、フェミニズムに親和的な社会学者、北田暁大氏は『社会にとって趣味とは何か』において腐女子をフェミニストだと強弁し、心理学者、山岡重行氏に『腐女子の心理学2』においてデータの見方が恣意的に過ぎると、痛烈に批判されることになりました。

 今でも幾度か、オタクの上の世代の人々が左派思想の影響下にあるため、若いオタクを自分たちの政治的意図に利用しようとしている、ないしそれを拒まれて逆ギレ的にオタクをバッシングしている、といった光景をお伝えしてきましたが、オタク女子に対しても全く同じことが起こっているのです。

 ともあれ腐女子はただ娯楽としてBLを求めているだけで、そこに何らのイデオロギーはないはず。そこを政治的な意図で曲解し、持ち上げることに対して、ぼくは大変な憤りを感じます。

 それは実のところ萌えキャラのキャンセルと、やっていることは変わりがないと考えるからです。

 だってもしコンテンツを「LGBTフレンドリーだから素晴らしい」と誉めてもらいたくてLGBTにおもねるのであれば、同時に彼ら彼女らから表現をポリコレに反すると否定された時、それを受け容れざるを得ないのではでしょうか。

 事実、フェミニストやLGBTの中にはBLを「ホンモノのLGBTではないからけしからぬ、ホンモノのLGBTへの搾取だ」として批判する人も大勢いますが、それに対する回答は「こちらがシュミで勝手にやっていることなので、放っておいてください」というもの以外、あり得ないはずです。

兵頭新児:市場原理無視の"LGBT迎合"はコンテンツの自殺行為だ

コンテンツの好み・趣味と「LGBTフレンドリー」は必ずしも直結しないであろう―
 以前、戸定梨香騒動の時にも、ぼくはオタクの代表者を持って任ずる人々が「梨香ちゃんは性的ではない」との奇妙なロジックで「規制逃れ」をしようとしている点について批判しました。

 これもまた善意で解釈すれば単なる「うかつな立論」ですが、悪意を持って見れば「女性の肉体を強調した表現は性的搾取という名の悪である」とのフェミニスト様の言い分に平伏し、なんとかお目こぼしをしてもらおうとしている態度に思われるのです。

 つまり、それでは「オタクコンテンツはLGBTフレンドリーだ」という詭弁と同様、ポリコレを振りかざして噛みついてくるフェミニストやLGBTに対し、全面降伏をしているだけにしか、ぼくには思われないのです。

 いえ、それが極端だとしても、上のような対応の仕方では、フェミニズムに対して何ら反論ができていない、何ら理論武装ができていないということは明らかに言えましょう。

 本当にコンテンツを守りたいと考える人々はこれらポリコレに、どこまでの根拠があるのかについて、じっくりと掘り下げてみる必要があるのではないでしょうか。

 ――さて、LGBTとコンテンツの間に起こっている奇妙な状況についてご報告しました。

 またいささか、「オタク」を主語にしすぎてしまいましたが、ことはオタク内だけの問題ではないのです。『ハリー・ポッター』の原作者がトランス差別をしたとの言いがかりをつけられた挙げ句、殺害予告や個人情報の暴露を受けているという現実を見れば、これは全世界規模で、誰もが直面しつつある問題の一端であることが、おわかりいただけるのではないでしょうか。

 前回記事においては、LGBTに影響され、一過性の「性別違和」にも関わらずトランジション(性転換)してしまい、後悔している少女の痛ましいエピソードについてご紹介しました。

 実は本件と前回の件、密接につながっていると言えるのです。次回はもう少しその辺りについて、ご説明したいと思っています。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。