続々:Vチューバ―"戸定梨香"騒動に想う=「フェミ」は所詮「フェミ」【兵頭新児】

3回にわたってお伝えしてきた、Vチューバ―"戸定梨香"騒動。わかったのは批判する側も反論する側も結局は「同じ穴のムジナ」であることと、「フェミニスト」には"本物"も"ニセモノ"もなく、結局「フェミ」は所詮「フェミ」ということである。数十年前より自分勝手の意見を通そうとし続けてきた彼らの歴史に迫る。

兵頭新児:Vチューバ―"戸定梨香"騒動に想う=「フェミ」は所詮「フェミ」

批判する方も反論する方も身内?所詮兄弟げんかか。
 千葉県のご当地VTuber、戸定梨香の騒動について、二度にわたって書かせていただきました。
 
 少しおさらいをさせていただくと…

 〇萌えキャラが広告に使われる度に、いわゆる「ツイフェミ」と呼ばれるツイッター上のフェミニストたちが女性蔑視、性的搾取であるとクレームをつけるということがすっかりお馴染みの光景と化した
 ↓
 〇その度に、カウンターとしてオタクの代表者をもって任ずる「表現の自由を守る」と称する人たち(本稿では「表現の自由クラスタ」と呼んでいます)が現れた
 ↓
 〇しかし、その「表現の自由クラスタ」の方々も極めて強い左派的イデオロギーの影響下にあるため、結局はフェミニズムを根本的に批判できずに「本来のフェミニストは性表現を否定したりしない」などと、頓珍漢で無理筋の擁護ばかりしている…

 という問題意識を提起させていただいております。


 ちなみに、前回は書かなかった点を述べると、梨香ちゃんに文句をつけたのは「全国フェミニスト議員連盟」という議員による組織です。この点を考えても、表現のクラスタの言う「本来のフェミニスト」論は崩れ、「やはりフェミニストはみんなおかしいのでは」という考えが真っ当…ということになるのではないでしょうか。

兵頭新児:

問題となったVチューバ―の戸定梨香
via twitter

フェミは昔から表現を規制

 もっとも、それでも表現の自由クラスタの中でも、コアな人は「いや、それでも真のフェミは」「本来のフェミは彼女らとは違う」と言い続けているようです。

 彼らの常套句に、「10年前までは表現規制をするのは保守派であった、しかしどういうわけか近年、リベラルがそれを率先してやるようになった」というものがあります。これは想像するに近年のキャンセルカルチャーなども念頭に置いての発言でしょう。

 これはもちろん、事実に即していません。今に始まったことではなく、昔からフェミニストは(そして進歩派を自称するリベラルは)表現を規制してきたのです。

 80年代の末期から90年代初期にかけて、バブル期の日本はまた、「フェミバブル」でもありました。男女雇用機会均等法の施行に伴い、セクシャルハラスメントといった概念が海外から持ち込まれ、フェミニストたちはミスコンテスト、女性が水着で登場する広告、美少女系(今で言う萌え系)のアダルトコミックなどをやり玉に挙げていたのです。

 彼女らはミスコンを次々と廃止に追い込み、広告から女性の水着姿も消えました。

 『創』(創出版)という雑誌が当時、よくこの問題を扱っていました。1990年1月号「女たちが告発するマスメディア」特集を開いてみましょう。深澤純子「送られ続けるメッセージ――広告における「性」」を読むと、以下のようにあります。

 ≪問題は、一女性が鑑賞物として、常に「もの」に結びつけられ、そのイメージが他者の視線にさらされ、「見られる側」に無防備におかれているということ。そのような女性に対するイメージ操作が日常化し、アイドルのオナペット雑誌を始めとして、男性が望む固定した性役割、そして「男」の性からみたときの都合のよい性的な存在として、繰り返し描かれ登場し、社会的な男性と女性の関係に影響を与え、予断と偏見を再生産し続けていくことになるのである。(47p)≫

 何とも物々しい物言いですが、要するに広告などの女性像は「見られる対象」であり「性的な存在」である。それ自体が女性差別であると同時に消費者たちの性意識にも影響を及ぼし、差別的価値観を刷り込んでいくのである、というのが彼女らの言い分なのです。

 これは「ジェンダーフリー」などの前提となる構築主義、簡単に言えば「男性が女性の肉体に惹かれるのは社会からの刷りこみによるものであり、本質的なものではないのだ」といった考えで、だからこそ性的な広告をなくせば性犯罪はなくなるはず、というのが彼女らの考えなのです。

 そんなわけあるかい、としか思えないのですが、逆に言えば彼女らが非常識な主張をし続けるのは、そうした途方もない現実離れした世界観を前提しているからこそであり、同様にジェンダーフリーなども「何とはなしにいいことのような気がする」といった軽い気持ちで支持するべきものではないのです。

兵頭新児:

ミスコンを目の敵にしていた「フェミバブル」時代
 ともあれ、確かにこの時期以前は街頭ポスターなどにも女性の水着姿などを頻繁に見かけたものです。

 ところが、この記事には彼女の称する「女性差別的」なポスターの例が11件掲載されているのですが(何しろ粗悪な紙に印刷されているので、判断しづらいものも多く、厳密な判断はできないのですが……)、水着姿のものは1、2枚。脚が強調されているのが3枚ほど(女性の身体のパーツを強調することに、彼女らはことさらにご立腹です)、顔のアップ、着衣のバストアップなどどう考えても性的要素のないものが3枚ほどという内訳(ポーズが媚びていてけしからんのだそうな)。確かに昭和の時代はビキニ女性の広告など多かった気がするのですが、そうしたものは皆無です。

 深澤氏はこうした「けしからぬ」ポスターに「これは女性差別です」というステッカーを貼る運動をなさっていたそうです。普通に器物破損だと思われます。

 ともあれ、フェミニストたちは以前よりずっと変わらぬ「キャンセル」「表現規制」運動を続けていたのです。

ツイフェミの前身?「行動する女たちの会」

 さて、この当時の話題を語るには、「行動する女たちの会」を避けて通ることはできません。

 彼女らは1975年、ハウスシャンメンのCMにおける「私作る人、ぼく食べる人」という会話(当然、女性がラーメンを作って男性が食べるわけです)を「性役割固定を促す」として放映を中止に追い込んだことで有名です。

 「フェミバブル」の時期にも、同会は台風の目となって活動していました。90年に発行された彼女らの著作『ポルノウォッチング』を開いてみると、第1章の冒頭からこんな具合。

 ≪「三楽のポスター、撤去が決まったわよ! テレビコマーシャルも中止、今入ったばかりのニュースよ!」
 受話器の向こうからの声がはずむ。通信社に勤める仲間からの緊急連絡だ。
 「ほんとう! やったあ!」
 「すごい、すごいことよ! おめでとう!」
(10p)≫

 何ごとかと思われたかもしれませんが、ウィスキーの広告を駅構内から全面撤去させることに成功した、という話題です。もっともこの広告ポスター、泥まみれの女性が横たわり、虚ろな目でこちらを見ているという、ちょっと刺激的というか万人向けの広告としてはどうかという感じのものですが、本書はこの広告を「犯(や)られた女」「レイプ姿」と繰り返します。いえ、そう取れなくはないけれども、そこまで勘繰り出したら、何だって言えてしまうんじゃないでしょうか。

 ともあれ万事がこの調子で、彼女らはキャンセル運動を続けてきました。「アンチポルノステッカー」を製作、販売している旨も得意げに述べられており、或いは深澤氏も同一のものを使っていたのかもしれません。
 『ポルノウォッチング』についての参考記事

 こうして見ると「萌えキャラ」が叩かれるようになったのは、単に不景気で広告というものが目立たない存在になってしまったため、次に槍玉に挙がっただけ、と思えます。

兵頭新児:

日本ではあまり水着広告は目にできなくなった⁉
 ――さて、同会が今の時代に存在していたら(96年に解散したのですが)、間違いなく「ツイフェミ」と呼ばれていたはず。活動的という意味では彼女ら以上です。

 ですが、しかし、それにもかかわらず、一体全体どういうわけか、表現の自由クラスタは同会に肯定的なのです。

 『マンガはなぜ規制されるのか』の著者である長岡義幸氏や長く表現規制反対運動をやっている高村武義氏は同会を規制反対派だと称し、オタクの味方であるかのように称揚しています。

 はて、どうなっているのでしょう?

 先にも書いたようにこの時期、アダルトコミックの規制問題があり、91年には『「有害」コミック問題を考える』というムック本が(これも創出版から)出版されました。そこに「行動する女たちの会」の座談会が収められているのですが、そこではメンバーの林浩二氏が「私たちの基本的なスタンスは、規制には反対」「私たちは法的な規制を求めないでやっていこうという運動ですが」と明言しています。いや、じゃあ先の『ポルノウォッチング』にあったことは何だ、と思うのですが……。

国家の規制はNGだが、自分たちの規制はOKのダブスタ

 実のところ話は単純で、同会の立場は自分たち(民間)の規制運動は何ら問題がないが、国家が公的に規制することはまかりならん、というものなのです。まあ、左派なのだからそんなものかなあ、という感想しか沸いてきませんが、しかしこうなると表現の自由クラスタこそ、言行不一致だとの印象を持ちます。

 「国家による規制でさえなければよい」のであれば、以前の碧志摩メグ騒動、宇崎ちゃん騒動はあくまで「ツイフェミ」、即ち市井の人々が引き起こしたことなのだから、文句をつけるべきではありません。いえ、今回の梨香ちゃん問題だって警察が「自主的に撤回」したのであって、別に議員が「法規制」したのではない。ならば文句を言う資格はないとしか、ぼくには思えません。

 メンバーの1人、坂本ななえ氏は

 ≪スカートめくりにせよ、レイプにせよ、それをマンガに描かれると、性犯罪を性犯罪と感じさせなくする作用がある。(204p)

 ≪だから、猥褻(引用者註・当時の漫画規制における、猥褻だから禁止すべしとのロジック)と私たちのアンチ・ポルノとは、全く方向が逆なんです。(207p)

 と言っており、これは同会のスタンスを象徴しています。

 即ち、まず一貫して性表現を性犯罪を誘発させるもの、この世からなくすべきものという考えがあり、また国のなす規制はあくまで「これ以上は猥褻だから……」といった一種の切り分けだけれども、同会のそれは性表現の全てを殲滅することが目的なのです。いえ、「女性が主体となる性表現であればよいのだ」といった発言をするフェミニストもいますが、彼女らも世に溢れているレディースコミックをよしとしないのが常で、結局、一般的な意味でのポルノ、性的表現は、フェミニストには一切、認められないということなのです。

 こうなると、表現の自由クラスタには本当に表現の自由を守る意思があるのかと言いたくなってきますが、ともかく彼らにしてみれば「フェミニストの了解を取りつける」ことが至上命題だったのではないでしょうか。彼らの世界ではフェミニストだけが女性なのですから。

 表現の自由クラスタが同会を称揚するのも、「(いずれにせよポルノは絶対に認められないものの)国家の規制は好ましくない」との言質を取ったことが、たまらなく誇らしかったから、なのではないでしょうか。

 それはまるで初恋の女の子に告白して、デートの約束を取りつけたかのように。

上野千鶴子教授が「味方」?

兵頭新児:

上野千鶴子教授が味方⁉
via youtube
 実は少し前にも近い事例がありました。2012年、「うぐいすリボン」という表現の自由クラスタの団体が上野千鶴子教授を迎えて講演会を開いたことがあります。そこで教授は性表現の規制に反対していたのです。

 同主旨のことが、教授の著書、『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』にも書かれています。

 ≪日本でもポルノ規制をめぐって、一部のフェミニストとコミックライターや作家とのあいだに「表現の自由」論争が起きたが、わたし自身は、フェミニストのなかでも「表現の自由」を擁護する少数派に属する。(80p) ≫

 ところが、同書を20ページほど遡ると、以下のように書かれているのです。

 ≪売買春とはこの接近の過程(引用者註・男女のおつきあい)を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。(57p)

 言うまでもないことですが、ポルノとは(それこそ漫画やアニメなどを除き)売買春の記録です。筆者の記憶では、「やはり、風俗は完全になくすべきだという結論以外にない。」と明言しているネット記事もありました(今調べたら残念ながらリンク切れでしたが……)。

 一体全体、どうなっているんだという感じなのですが、恐らく行動する女たちの会と同じなのでしょう。つまり「国家の規制には反対だが、ポルノの存在もまた、認められない」という。
 
 しかし表現の自由クラスタは長年、上野教授はオタクの味方だ、味方だと強弁し続けていました。

 もし本当に表現の自由を守ろうと思うのであれば、表現の自由クラスタのみなさんは、フェミニストなどよりも萌えキャラとの「デート」をもうちょっとだけ優先してはいただけないかと、ぼくは思っています。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
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