「出雲と大和」展

  出雲での2000年の眠りから覚めたおびただしい数の銅剣、かつての出雲大社空中神殿を支えた巨大柱の根元──1月15日から42日間、上野の東京国立博物館・平成館で〈日本書紀成立1300年  特別展「出雲と大和」〉が開催され、訪れた人々を圧倒した。新型コロナウイルスの影響を受け会期途中で中止となったが、10万人以上が入場した。

 15階建てのビルに相当する、高さ48メートルの高さを誇った出雲大社の10分の1模型をみた女性は、「実際にこの社に上ったら怖かったかも知れない」と感想を語っていた。太和4年(369年)に作られ、百済(くだら)王が倭王に贈ったものであると考えられる日本史の一級史料・七支刀(しちしとう)も展示され、たくさんの人たちが食い入るようにみていた。
 
 この展覧会では、日本の古代史が形成されるにあたり、出雲と大和が果たした重要な役割を、国宝や重要文化財を含む約170件の名品を通して紹介した。島根県が奈良県に提案し、国立博物館も受け入れて、6年がかりで準備した。日本を代表するこの博物館が、地方の歴史をテーマとした展示をするのは非常に珍しいという。
 
 この展示では、日本書紀冒頭の「国譲り神話」により、出雲大社のオオクニヌシが「幽(ゆう)」つまり神々や祭祀(さいし)の世界、大和の天皇が「顕(けん)」つまり現実の政治の世界を司った、とする古代史観を基盤とした。また、会場で販売された『出雲と大和 図録』で、佐藤信・東大教授は〈この「国譲り神話」では、出雲のオオクニヌシが皇祖神に対して国譲りするのと引替えに、巨大神殿の造営や奉祭を得る展開である〉と解説している。
 
 したがって、出雲と大和をつなぐキーワードは「国譲り」だ。しかし、出雲が「幽」を司り大和が「顕」を司ったのが史実だとしても、展示はやや説明不足だった。発掘された巨大柱は中世のものであり、国譲りがあったとみられる時期よりざっと1000年ものちだ。国譲りは定説のようになってはいるが、実は邪馬台国論争などを上回る古代史最大の謎であり論点でもある。国譲りを直接示す発掘品があるわけではなく、展示で明確に示すことは難しかったのだろう。

「神話」にとどまらず

 令和初の新年を迎える年末年始の旅行先として島根県が上位に挙げられ、テレビでも出雲大社を特集する番組が多く流れている──東京の知人から、島根県出雲市にUターンして7年目の私のもとに、そんな情報がもたらされていた。確かに出雲では近年、県外からの観光客が目立って増えており、ブームが続いている。そして、その出雲ブームは今年、この展示会などをきっかけとして一段と加速しそうな気配がある。
 
 折しも、古事記研究の第一人者とされる三浦佑之(ゆうすけ)・千葉大学名誉教授の『出雲神話論』(講談社)が刊行された。長年の研究の集大成であり、しかも従来の学説と一線を画す古代出雲像を提示しており、日本古代史学界はもとより古代史ファンの間でも大きな話題を呼んでいる。
 
 出雲はなぜ人々を魅了するのだろうか。それは考古学上の衝撃的な発見が相次いだことが素地となっている。
 
 1984~85年に、現出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡で、銅剣358本、銅鐸(どうたく)6個、銅矛(どうほこ)16本が出土した。弥生時代後期の紀元前2~前1世紀のものとされる。特に銅剣は、それまで全国で発掘された銅剣の総数を上回り、出雲大社の東隣にある島根県立古代出雲歴史博物館に常設展示されている。壁面にびっしり並べられた様は壮観で、「古代出雲に王朝と呼べるものがあったのは確かだろう」と思わせる。今回、その一部が東京で展示された。ちなみに宗像大社沖津宮が建つ九州・玄界灘の孤島・沖ノ島で発掘された国宝は8万点にものぼるが、その年代は紀元4~9世紀とされ、荒神谷の銅剣群などがいかに古く貴重なものかがわかる。

 続いて1996年、荒神谷から直線で約3キロメートルにある弥生時代の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡で、1カ所からの出土例としては日本最多となる39個の銅鐸が見つかり、考古学者をうならせた。
 
 こうした発見により、古代出雲は単に「神話の国」というイメージから一変し、全国的な注目を集めることになった。そして、先述の出雲大社での13世紀の巨大柱発見となる。少なくとも10世紀の神殿は奈良の東大寺大仏殿、京都・平安京の大極殿より高く日本一だったことを示す文献もあり、「出雲」の存在感が大きくクローズアップされた。

 2013年には、出雲大社で約60年に一度の大遷宮が行われた。伊勢神宮の20年に一度の遷宮と重なり、折からのパワースポット・ブームが沸騰した。出雲大社には異性や仕事などとの縁結びを願う人々、特に婚活のために参拝する若い女性などが詰めかけるようになり、いまに続いている。令和2年の正月三が日には、出雲大社へ島根県の人口を上回る75万人もが初詣に訪れ、昨年より9万5000人(14.5%)多かった。県外ナンバーの車、外国人の姿も目立った。

血塗られた征服戦争

 三浦氏の『出雲神話論』最大の特徴は、これまで「国譲り」と呼ばれてきたものを「制圧」と呼び換えている点にある。古事記の本格的な研究は本居宣長(もとおりのりなが)『古事記伝』(1798年)以降だが、「国譲り」というのは三浦氏によれば1920年ごろからの呼び方だ。日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されてきたとする皇国史観を背景としているという。

 三浦氏は〝平和的な国譲り〟を真っ向から否定する。「つまるところ、オオクニヌシは、タケミカヅチによって武力制圧されたのであり、アマテラスの唐突な宣言からはじまる神話で語られるのは、地上侵略戦争と名付けてもよい」「その内容は、穏やかな譲渡とは言いにくい血塗られた征服戦争」だったと三浦氏は断じる。

 アマテラスらは、出雲に国を譲るよう使者の神を遣わしたが、二度にわたって使者は出雲側に恭順してしまった。それだけ出雲は素晴らしい国であり、オオクニヌシに神徳、神威があったからとも推測できる。そこで三度目に派遣されたタケミカヅチは、剣を携え強硬な態度で統治権の委譲を迫った。だが、古事記でも日本書紀でも大規模な戦闘の事実などは記されておらず、従来、平和的な外交による「国譲り」だったと解釈されてきた。

 三浦氏によると、戦前は「出雲には一定の勢力があり、それがヤマトに統一されていった」との見方が根強く存在した。しかし、戦後は「大和から見て出雲が西の果てにあって日の没する方位を代表していたことが、出雲をして神話的に重からしめるゆえんであった」とする西郷信綱(のぶつな)『古事記の世界』(1969年)が、古代文学研究、古代史研究に圧倒的な影響力をもたらした。三浦氏も、「西郷信綱の呪縛を受けて、出雲という世界を長く読み間違えてきたのではなかったかと、最近になって考える」と告白している。

 見方が180度変わったきっかけは、過去30数年にわたって続いた考古学上の大発見だった。新たな出雲観は、専門家にとどまらず一般国民のあいだにもじわじわ浸透してきた。
 
 日本書紀は律令国家の正統性を示すための正史であり、出雲神話は一つの異伝を除き存在しない。
 一方、古事記神話全体の43%は出雲が舞台で、三浦氏は「この部分の正当な読解こそが古事記の理解には欠かせないし、古代の日本列島がいかなる世界であったかということを知る上で、考古学の成果に比肩し得るほどの大きな鍵を握っている」とする。「出雲の神がみが、高天の原から降りてきた天皇家の祖先神に取って替わられるいきさつを、出雲の神がみを中心に据えて語っている」のが古事記の出雲神話だと説明するのだ。

オオクニヌシの住まい

  出雲大社とは何か――。
 従来、この壮大な社は、いわゆる国譲りの際にオオクニヌシがタケミカヅチに語った言葉とされる古事記の記述から、「ヤマト王権が国を譲り受ける代わりに建てた」と解釈されてきた。だが三浦氏は、古事記の文言の厳密な分析から、出雲勢力が建てたものとする。出雲国風土記などによると、この社はもともと国を統べるオオクニヌシの住まいだった。むろん、ずっとのちの中世にそびえていた巨大空中神殿は、中央政権の支援で建てたか中央政権が建てたかもしれないと私は考えるが。

 三浦氏は考古学の知見に基づき、「日本海沿岸地域には、巨大な柱を建てる文化が、縄文時代晩期あるいは弥生時代の早い段階から存在し、能登半島(富山湾)を中心として、そこから同心円状に東西そして南に広がっていた」事実を背景として指摘する。
 
 出雲神話によれば、三浦氏の言う制圧の際、オオクニヌシの子タケミナカタは高天の原から遣わされたタケミカヅチに破れ、長野県の諏訪に逃れたという。その地で諏訪大社の祭神として祀られる。諏訪地方では、数え七年に一度、勇壮な御柱(おんばしら)祭が行われる。私は仮説として、杉の巨大な柱を建てる行為は、遠く出雲大社の高層神殿を建てた記憶からのものではないかと考える。御柱神事の来歴について、私は2001年、諏訪の現地で博物館や地元歴史家に取材したことがあるが、仮説を裏づけるような史料も伝承も知らないとのことだった。出雲と諏訪を結びつけて考えた人が諏訪側にはおらず、積極的な研究は行われていなかったようだ。
 
 出雲大社東神苑では2013年、大遷宮の記念事業として「巨木の柱立て」イベントが行われた。これは、かつて高層神殿が存在したとされることを受けて企画された。杉の巨木を市民らが「里曳(さとび)き」し、端の片方を100人が綱で引っ張り上げて垂直に立てた。

日本人のルーツを探る

 出雲が人々を引きつける一因は、この地が「大和中心の律令国家より前の日本とは何か、日本人とは何か」というルーツ探求につながるからだろう。大冊『出雲神話論』はそれに古代文学研究の立場から応える労作だ。しかし、ポイントとなる出雲制圧の時期について、三浦氏は「2、3世紀」あるいは「3世紀から4世紀前半頃」と記述が揺れている。それを特定し、より実証的な古代出雲像を浮き彫りにするため、遺伝学などを加えた学際的なアプローチが必要となる。

 自然科学の知見をもとに古代史を探る長浜弘明氏は、『日本の誕生 皇室と日本のルーツ』(ワック、2019年)などで、古事記にある記述を地形学にもとづき緻密に考証した。そして、初代の神武天皇が即位したのは紀元前70年であり、神武は27歳だったと特定している。出雲勢力の大版図が平定されたうえで神武が即位したと考えれば、出雲制圧はそれより以前となる。荒神谷に多数の銅剣や銅矛などが埋納されたのは紀元前2~前1世紀とされ、制圧の時期と合うのではないか。統治権を失う勢力が、武器や祭祀の道具を地中に埋めることは十分あり得るだろう。
 
 出雲大社や荒神谷遺跡などから近距離に住む私は、古代出雲についてある大胆な仮説を持っている。出雲神話の何割かは史実を背景としているとみて、それをノンフィクションおよびフィクションとして書くことがライフワークの一つだ。

木佐 芳男 (きさ よしお)
1953年、出雲市生まれ。1978年、読売新聞入社。外報部(現国際部)、ニューデリー特派員、世論調査部(日米、日米欧、日ソの国際世論調査を担当)、読売・憲法問題研究会メンバー、ボン特派員、ベルリン特派員などを経て、99年からフリーランス。著書は『〈戦争責任〉とは何か 清算されなかったドイツの過去』(中公新書)、『「反日」という病 GHQ・メディアによる日本人洗脳(マインド・コントロール)を解く』(幻冬舎)など。
〇ウェブサイト(ブログ・メール) 【RAB☆K】http://rab-k.jp

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