“日本の心”に目覚めてから実施したコンサートの一場面

“日本の心”に目覚めてから実施したコンサートの一場面

人生の後悔

「日本なんて国はなくなってしまえばいいのよ」

 これは17歳の頃の私の言葉。今となっては人生で最も発すべきでないかもしれないその言葉を、大切な人生の先輩に投げつけてしまったそんな後悔が今も胸の中に澱(おり)のように沈んでいる。

 私が生まれたのは昭和57年(1982年)。前々年のオイルショックによる経済停滞から日本はようやく回復基調へ戻り、鈴木善幸首相退任を受けて総裁選で中曽根康弘行政管理庁長官が圧勝、第1次中曽根内閣発足、日米の連携が深まるとともにバブル絶頂への階段を登っていくまさにその時期である。
 私が育った横浜市港南区は、ありふれた、でも心を温かくする里山だったが、高度経済成長の恩恵にあずかり、1970年ごろから山を切り崩し新築マンションや、企業の社宅団地などが立ち並ぶ巨大な新興住宅地へと変わっていった。

 3代住んで初めて認められる江戸っ子とは違い、3日暮らせば浜っ子という港町らしいウェルカムな気風もあってか、当時は地方出身の若い夫婦で溢れていたようである。
 父は川崎の造船工場勤め、母は生命保険の外交員というどこにでもありそうな一般的な、そしてご多分に漏れず大金には縁がない、そんな家庭で育った私だが、当時はそうしたサラリーマンであっても真面目であれば若くしてマイホームを購入することができた時代。そんな共働きの夫婦の子供は大抵当時よく語られた「鍵っ子」で、公立小学校の帰り道には親のいない家にはまっすぐに帰らず、公園や空き地で遊ぶ子供たちや、塾や習いごとへ向かう子供たちで溢れていた。

 私はその中でも「学童」と呼ばれる共働き家庭の子供たちの一時預かり所のようなところで放課後を過ごしていた。大人になって知ったが、「学童保育所」とは厚労省管轄の親の就労支援と子供の教育を目的とした福祉事業なんだそうだ。

うわべだけの美辞麗句

 私はこの場所で少々トラウマめいた思い出がある。学童の先生は基本的にみな優しく素晴らしい先生ばかりだったが、本の読み聞かせの時間には必ず『ヒロシマのピカ』『ガラスのうさぎ』『はだしのゲン』『ちいちゃんのかげおくり』など、反戦がテーマの作品ばかりを取り上げていた。
 また日本兵の写真を見せながら満洲で、どんなひどいことをしたかという解説を聞かせたり、地獄の絵が克明に描かれた絵本を見せられたりしながら、戦争をするとこうなる、など、今思えばある一定の方向からの教育がなされていたと思う。

 学童の先生には必須ではないが教員免許を持っている人が多かったし、もともと教師で、産後の復職として学童保育を選ぶ人も多かった。
 それに加えて小学校6年生の時の音楽の先生。当時から音楽が大好きでマーチングバンドに所属していた私は音楽の授業をいつも楽しみにしていた。

 そんなある日の授業中、先生は突然黒板に君が代の歌詞を書き記し、
「ほらごらんなさい。あなたたちにはわかりますか、この歌詞の異常さが。“君が代”とは天皇陛下のために国民が死ぬ時代が“千代に八千代に”続くようにという意味です。だからこんな歌は断固として歌ってはいけない。」
 と熱弁をふるっていた。

 その後、中学高校ともに公立校だった私は同じような教育を受け続けることになる。
 中学の社会科の先生は「治安維持法、人類史上最悪の法律を制定した日本政府は万死に値する。」と授業中に激昂(げきこう)、高校の同じく社会科の先生は「憲法前文、これを丸暗記して空で唱えられるようにならない限り高校は卒業させない」と断言。
 とかく感化されやすいたちの私は、すぐさま先の大戦での日本悪玉説と反戦平和に目覚め、今思えばうわべだけの美辞麗句で平和を祈念した作文を書き、神奈川県の高校生作文大賞で優秀賞を受賞することになった。
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平和を祈念した作文を書き、神奈川県の高校生作文大賞で優秀賞を受賞することに(画像はイメージ)

永遠にも感じられる長い沈黙

 当時は作文の受賞をとても誇らしく感じていたので、いの一番に伝えたい、と思ったのが冒頭でお話しした人生の先輩だった。
 ここでは「とっとちゃん」と呼ばせてもらう。

 とっとちゃんは近所に住む優しいおじさん(おじいちゃん)で、共働きで留守がちの両親の代わりに小さい頃から面倒を見てくれていた。私が高校に入ってからは勉強を見てもらったり、年賀状の宛名書きのアルバイトをさせてもらったり、色々な相談にのってもらったりと留守がちだった父以上に、父親のように慕っていた存在でもあった。

 とっとちゃんは当時60代後半、なぜとっとちゃんなんてふざけた呼び方をしていたかといえば、当時すっかりそうした公立学校の教育に感化されていた私は年齢なんてただの記号で、年上であっても特段敬う必要はない、したがって対等な対場であり友達のようにあだ名で呼ぶのが最も進歩的な関係だ、と心の底から信じていたからだ(今振り返ると東京湾にダイブしたくなるくらい恥ずかしい)。

 さて、そんなとっとちゃんに自慢げに作文を見せた。
 とっとちゃんは読み終えた後、「君は本心でこれを書いたのか」と厳しい顔で私に尋ねた。褒めてもらえると思っていた私は「そうだよ。だって日本が悪いことをしたんだから仕方ないじゃない」と息巻いた。
「じゃあ君はこの先、日本人がいなくなって日本がなくなっても良いと思ってるのか」
 とっとちゃんの語気が強くなる。
「そうだよ、日本なんて国はなくなってしまえば良いのよ!」
 売り言葉に買い言葉の面もあった。
 しかし私は褒めてもらいたかったのに肩透かしを食らって耐えられなかった。 

 その時のとっとちゃんの顔を私は生涯忘れないだろう。
 いつも優しく温かく見守ってくれていた瞳はひどく充血し、潤(うる)んでいた。怒りと悲しみが交互にやってきているのだろうか、赤くなった顔はやがて蒼白へと、そして目の前の私が見えていないみたいに遠くを見つめ深くため息をついた。あんな表情は一度も見たことがなかった。
 私は言ってはならないことを言ってしまったことにようやく気がつき、すぐさま消音モードになったが、永遠にも感じられる長い沈黙が続いた。

2番までしか教えなくなった「蛍の光」

 そんなことがあってからしばらく時がすぎたある日、私はとっとちゃんが海軍兵学校の78期生だったことを知った。昭和20年(1945年)、海兵最後の78期生として海軍兵学校に入校し、敗戦までの4カ月半を長崎で過ごしたそうだ。
 
 当時は敗戦をすでに見越して、敗戦後に日本を背負う人材を育成しようという目的に変わっていたらしい。先輩たちのように自分も特攻であとへ続けなかったことに対する後悔と、先輩たちが守りたかった日本をなんとしても取り戻さなくてはならないという想いは、その後の人生で薄れることは一度もなかったと、とっとちゃんは語ってくれた。

 短大卒業後、地元横浜でJAZZボーカルとして活動を始めてからも大好きな洋楽に没頭する心の傍らで、とっとちゃんのあの日の顔と、兵学校時代の話が何度も蘇(よみがえ)った。
 学校では決して習わなかったその時代を生きた先輩の本当の想い。たくさんの若者がその尊い命を投げ出してまで守りたかったのは、いったいどんな日本だったのだろう。

 そんな疑問を胸に抱きながら音楽活動を続けていたある日、その答えの一端は突然に、私の心にやってくることになる。2010年の夏、尖閣諸島沖で起こった中国漁船との衝突事件。それを受け弱腰の対応を続けた民主党政権に対し、日比谷公園で尖閣を守ろうという国民集会が開かれた。
 その集会の冒頭に「蛍の光」を歌ってほしいという依頼を受け、私は初めて蛍の光に3番と4番の知られざる歌詞が存在していたことを知る。

3.筑紫の極み、陸の奥(つくしのきわみ、みちのおく)
 海山遠く、隔つとも(うみやまとほく、へだつとも)
 その眞心は、隔て無く(そのまごころは、へだてなく)
 一つに尽くせ、國の為(ひとつにつくせ、くにのため)


4.千島の奥も、沖繩も(ちしまのおくも、おきなはも)
 八洲の内の、護りなり(やしまのうちの、まもりなり)
 至らん國に、勲しく(いたらんくにに、いさをしく)
 努めよ我が背、恙無く(つとめよわがせ、つゝがなく)


 近年はだいぶ知られるようにはなってきたが、1881年に発表されたオリジナルの「蛍の光」には、実は3番と4番の歌詞があったのだった。もともとはスコットランド民謡の「オールドサングライン」という曲に 稲垣千穎(ちかい)という国学者が日本語の歌詞を書いたのが始まり。
 しかし、第2次大戦後は千島列島や沖縄を我が領土とする内容が、あまりに国家主義的だとGHQの検閲に引っかかり、また戦後の日教組による平和教育には全くそぐわないという理由で小学校などでも2番までしか教えなくなってしまったという経緯がある。
日比野野音で「蛍の光」を歌った

日比野野音で「蛍の光」を歌った

言葉では言い表せない一体感

 さて2010年当時、中国による日本の主権侵害に怒りの声をあげた人は多く、日比谷野音は5000人の超満員だった。私は震えながらマイクを持ち歌い始める。
 徐々にざわつきが消え、みんなの動きが止まる。水を打ったような静けさが訪れる。

 そしてお馴染みの1、2番の後のピアノの間奏が終わり3番を歌い始めた時、不思議なことが起きた。
 私の耳から自分の声は消え失せ、目の前にいる5000人の聴衆の心の声が聴こえてきたのだ。その声は幾重にも重なり、響きあい、風になって私の心を揺さぶった。1人ひとりのシルエットはその風に揺れる金色の稲穂のようだった。

 ああ、これが日本だ。とっとちゃんが守りたかったのはこれだ!

 言葉では言い表せない一体感の中で、はっきりと、そして深く心が頷いた。
 2700年、過酷でもあり豊かでもあるこの日本の自然の中で、雨の日も風の日も、先の大戦で砲弾が飛び交う中でも共に生きてきたんだ、私たちは。
 作詞者の稲垣千穎さんの穎(かい)という漢字は稲穂の先を意味するそうだ。千穎とは幾千もの穂先を表す大変豊かなお名前なのだと後に知ったのだが、「蛍の光」を歌うことで私が感じた一体感は決して幻ではなく、千頴さんが残した美しい歌詞が持つバイブレーションが時を超えて野音に集まる人々に伝わったからなのだと確信している。

 2015年、とっとちゃんは85歳の人生に幕を閉じた。
 ピンピンコロリを絵に描いたような最後で、大家族に看取られたとっとちゃんの最後の顔は穏やかで愛嬌たっぷりだった。

 私は大切な人にもう二度とあんな残念な顔をさせない、そして先の大戦で日本を守ってくれたたくさんの先輩に「命をかけて守って良かった」と思ってもらえるように精一杯生きていきたい。
 そして歌い手の1人として、いつまでも美しい日本の歌を先輩たちに捧げ続けたい。だってその人たちがいなければ、今を生きる私たちもいないのだから。
“日本の心”に目覚めてから実施したコンサートの一場面

“日本の心”に目覚めてから実施したコンサートの一場面

saya(さや)
シンガーソングキャスター。神奈川県出身。青山学院大学短大英文科を卒業後、ライブ活動を開始。六本木スイートベイジル139や渋谷JZ Bratなどでソロライブを数多く行うかたわら、SkyPerfecTV、FMラジオレギュラーパーソナリティをつとめるなど精力的に活動している。ユーチューブチャンネル「チャンネルsaya」は登録者数5万人超え。

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