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朝日の「逆」で間違いない

 私は長年、朝日新聞を読んできた。昭和、平成、令和という各時代を通算すると、もう50年ほどになる。
 
 その間、自分が新聞記者だという職業的な理由も大きかったが、朝日新聞を読むこと自体が好きだったともいえる。読むことが好きだという意味で、朝日新聞の愛読者だったともいえよう。だが、朝日新聞を愛したという意味ではない。

 ここ30年ほどは朝日新聞を自分にとっての反面教師だとみて、その価値を実感してきた。朝日の報道や論評の間違いを教訓にしたのだ。自分は決してそんなミスは犯さないように、と自戒する教材だともいえる。皮肉を込めていうならば、朝日新聞は日本にとっての貴重な宝だとも思う。反面教師としての価値がそれほど高いからである。

 日本が重大な難関に直面し、どの方向に進めばよいのかわからなくなった場合、朝日新聞が主張する方向とは反対を進めばよいのである。だから指針として貴重なのだ。戦後日本の歴史が、その真実を証明してきた。

 第1に、1951年の日本の独立だ。

 この年9月のサンフランシスコでの対日講和条約の調印が連合軍占領を終わらせ、主権を回復させる歴史の転換点となった。この条約について、日本国内では「単独講和」論と「全面講和」論とが対立した。

「単独講和」とは、条約を結ぶ相手をアメリカなど自由民主主義陣営に属する国に限るという方法である。実際にはその相手国は48カ国にも達していたから、「単独」ではなく「多数講和」だった。

「全面講和」とは、ソ連や中国という共産主義陣営の諸国もすべて含めての条約調印だった。ソ連などはアメリカ主導の対日講和に色々と文句をつけて、そのままでは応じなかったのだ。

 朝日新聞は「全面講和」を強く推し、「単独講和」に猛反対した。だが日本は「単独講和(実際には多数講和)」という道を進み、独立と平和と繁栄を得た。もし「全面講和」を待つ道を選べば、日本は独立を遅らせ、ソ連側に傾き、アメリカとの距離を置き、まったく異なる不幸な運命をたどっただろう。

 日本は、朝日新聞の主張と反対の選択肢を選ぶことで大成功したのだ。

「国家」「国民」アレルギー

 第2に、1960年に構築された日米同盟だ。

 この年1月に、現行の日米安全保障条約が結ばれた。それ以前にも両国間の安全保障の条約は存在したが、占領時代の偏りが多い不完全な内容だった。
 
 1960年の安保条約は日本が米軍の駐留を受け入れる代わりに、日本が第三国から軍事的な攻撃や威嚇を受けたときは、アメリカが日本と共同で日本領土を防衛することを誓約していた。米軍の強大な抑止力が日本の防衛に取り込まれるというわけだ。
 
 この条約を基盤に築かれた日米同盟は、東西冷戦中にはソ連の脅威への抑止となった。日本にとって防衛の最大の支柱となった。憲法9条により自国防衛に手かせ足かせを自ら課した日本にとって、外部からの軍事脅威をはね返す強力な安全保障となった。戦後の日本の賢明な選択だったといえよう。

 日本国民の日米同盟支持は、いまや圧倒的多数といっていい。主要各政党も、共産党以外はすべて日米同盟とその基盤の日米安保条約を支持している。もし、この日米同盟がなかった場合、ソ連は日本の共産化を軍事手段を使ってでも実現しようとしただろう。
 
 だが朝日新聞は1960年当時、この日米安保条約に反対した。日本の安全保障は憲法9条があれば大丈夫、という趣旨のキャンペーンをソ連との融和とともに大きく打ち上げた。正面からの社説でこそ、猛反対・大反対をやや抑えていたが、その他の紙面をすべて動員して、「安保反対論」を煽りたてた。
 
 わが日本国が朝日新聞のこの日米安保反対の主張に従っていたら、ソ連の支配圏内に入っていただろう。日本は朝日新聞の主張とは正反対の政策を選んだからこそ、今日の繁栄や安定があるのである。国家の独立と防衛という最重要な課題に関して朝日新聞は日本にとって破滅をも意味する錯誤の選択を主張していたのである。だからこそ朝日新聞の日本国にとって反面教師の価値があるということなのだ。
 
 その後も朝日新聞は、共産主義独裁、軍国主義のソ連を「平和勢力」のように描く偏向報道を続けた。中国についても残酷な文化大革命を礼賛するまでの誤認報道を展開した。
 
 とにかく共産主義、社会主義を擁護する傾向を一貫させ、カンボジアの原始共産主義の自国民大虐殺のポル・ポト政権までも「優しさにあふれる」と礼賛し、虐殺を否定した論評は広く知られるに至った。
 
 朝日新聞は、日本という「国家」、そして日本人という「国民」の概念が嫌いである。だから、日本人は日本国民であるよりも「地球市民」なのだと強調する。日本国自体を貶(おとし)めた「慰安婦問題」での大誤報もすでに周知の通りである。

一貫性の欠如

 令和の新時代、朝日新聞ははどうなったか。2019年5月1日の令和の始まり前後から現在までの朝日新聞の特徴を、具体例によって指摘することが本稿の主目的である。
 
 朝日新聞の最近の傾向で目立つのは、紙面の極端な劣悪化である。
 
 年来の朝日は偏向や誤認は多々あってもマスメディアたる新聞としての一定の品質があった。それがいまやガタガタに崩れ、支離滅裂な紙面構成や信じられない大誤報を露呈してきたのである。
 
 ごく最近の紙面でのアメリカとイランの衝突の報道を、まず実例にあげよう。
 
 2020年1月はじめ、米軍がイランの革命防衛隊の対外特殊工作部門のソレイマニ司令官を殺害した。
 
 トランプ政権がその攻撃の決定を下した直接の理由は、同司令官率いる特殊工作部隊が長年、中東での米軍将兵やアメリカ関連施設の攻撃にかかわり、多数の死傷者を出してきたことにある。加えて昨年末には、同部隊の支配下にある武装組織がイラク国内の米軍施設を攻撃し、米軍軍属を1人殺した。
 
 トランプ政権にとって、軍事行動を取るための境界線「レッドライン」はアメリカ国民の生命が奪われることである。ソレイマニ司令官殺害もそのアメリカ国民の殺害が理由だったことは、朝日新聞のワシントン発の1月5日朝刊の記事で客観的に報じていた。

《国務省高官も「数百人もの米国民の生命を救うための措置だった」と述べ、殺害はイランへの宣戦布告ではないと強調した。
 トランプ政権がこうした姿勢を取る背景には、米国民の多くが戦争に反対し、トランプ氏自身も望んでいないという事情がある。米国では泥沼化したイラク、アフガニスタン戦争の影響で厭戦気分が根強くあり、トランプ氏も前回の大統領選から「バカげた終わりなき戦争を終わらせる時だ」と、米兵の帰還を公約に掲げてきた》

《再選を目指す11月の大統領選を控え、その(終戦への)姿勢は強まっている(中略)。だが昨年12月27日に米国民がイラク国内のロケット弾攻撃で殺害されると、トランプ政権は対応を一転させ、空爆を開始》

 以上を要約すれば、「トランプ大統領は本来、イラク、イランなどへの軍事介入は大統領選への影響も考えて望んではいないが、今回はイラン側によるアメリカ国民殺害にやむをえず反撃した」という解釈になる。
 
 ところが朝日新聞は、他の記事ではまったく異なる解釈を繰り返し伝えた。1月4日夕刊のコラム「素粒子」の記述が典型だった。

《またか、権力が選挙を前に対外危機を仕掛け、国民の目を疑惑からそらす。トランプ氏に限らず、よくある手口》

「トランプ大統領は再選のためにイラクを攻撃した」あるいは「弾劾騒動から国民の目をそらすためだ」という断定である。もし再選のためならば、イラン攻撃がアメリカ国民の多くの支持を得ることが前提だろう。
 だが、前掲の朝日自身のアメリカ発の記事は、トランプ大統領自身は攻撃を望んでいないことを詳しく説明している。同じ朝日新聞の一方の記事が今回のイラク攻撃は「選挙のため」と書き、他の記事が「選挙のためではない」という趣旨を書いているのである。一貫性の欠落、つまりは支離滅裂だといえる。

世紀の大誤報

 朝日新聞の紙面の劣悪化について、さらにわかりやすい例がある。
 私は朝日新聞にはその基本的な政治スタンスへの反対を別とすれば、伝統あるニュースメディアとしての一定レベルの敬意も抱いてきた。ところが、この記事はそんな認識をすべて覆してしまう大誤報、無責任報道だったのだ。
 
 朝日新聞のその一面トップ記事の内容は以下のようだった。まずは大見出しである。

《ハンセン病家族訴訟控訴へ 政府、経済支援は検討》
 
 本文の冒頭は以下だった。

《元ハンセン病患者の家族への賠償を国に命じた熊本地裁判決について、政府は控訴して高裁で争う方針を固めた》
 
 主題はハンセン病患者に対する国による隔離政策で差別を受けて、家族離散の被害などにあった元患者家族561人が国に損害賠償と謝罪を求めて起こした訴訟だった。訴えを審理した熊本地裁は6月28日、国の責任を認め、家族たちに3億7000万円以上の賠償金を支払うことを求める判決を下した。

 これを受け、国、つまり日本政府がどう対応するのか、控訴をして高等裁判所で争うのかどうかが注目されていた。
 
 朝日新聞はこの状況下で、国側はこの判決を不当だとして控訴することを決めたのだ、と報道したのだった。しかもきわめて強い語調で、なんの疑問の余地もないような明快な断定だった。
 
 だが、一夜明けた7月10日付の朝日の朝刊一面には、前日とは正反対の内容の記事がこれまた大々的に掲載されたのだった。

 見出しは以下だった。

《ハンセン病家族訴訟控訴せず 首相、人権侵害を考慮》

 本文の冒頭は以下だった。

《元ハンセン病患者の家族への賠償を国に命じた熊本地裁判決について、政府は9日、控訴しない方針を決めた》

 以上、「控訴して高裁で争う方針を固めた」が一夜にして「控訴しない方針を決めた」に一転したのである。完全な誤報だった。

ミスに表れた劣悪化

 朝日新聞は当然、7月10日付朝刊に「誤った記事 おわびします」という見出しの訂正記事を同じ1面に載せていた。その訂正は「政府が控訴して高裁で争う方針を固めたと報じたのは誤りでした」と記していた。

 その誤報の取材の説明なる記事が2面に掲載されていた。

《朝日新聞は政治部、科学医療部、社会部、文化くらし報道部を中心に、政府がどう対応するのかの取材を始めました》
《(そして政府は控訴するという見通しがあるとみて)首相の意向を知りうる政権幹部に取材した結果、政府が控訴する方針は変わらないと判断しました》

 以上の説明にはさらに驚いた。朝日のこの大ミスは単に1人や2人の記者の勘違い、判断違いでもなく、事故的なミスでもなく、編集局全体をあげての集団的な取材をしたのに、なお根本から間違ってしまったと、開き直るように述べているからだ。

 この主張は外部からみれば、この大誤報は朝日新聞自体の間違い、つまり朝日新聞の構造的、体質的な特殊性の産物だという自認のように響く。朝日新聞社全体を挙げての取材方法や判断そのものが誤りだったことを認めているに等しいからだ。

 さらに、そのうえのショックがあった。

 同じ7月10日朝刊の第34面に載っていた別の訂正記事だった。この訂正は前日の7月9日朝刊に掲載された2つの記事のなかの記述のミスのおわびだった。
 
 その内容は以下だった。

《「行政が適正かつ公立的に運営される」とあるのは「行政が適正かつ効率的に運営される」の誤りでした》
《国際社会と緊密に「強調し」とあるのは「協調し」の誤りでした》

 以上は些細なミスといえるだろう。だがあまりに初歩的、基礎的な誤りである。いずれも小学生レベルのミスである。
 
 どの新聞社でもニュース記事は短くても、長くても、記者が書き、デスクが目を通す。同じ記事を整理と呼ばれる編集者がさらに点検して見出しをつけ、できあがった見出しつきの記事はさらに校閲がチェックをする。これはいかにインターネットやハイテクが導入されてもなお新聞作成の基礎だろう。

 そんな厳重なプロセスを経ても、「効率」が「公立」と誤記され、「協調」が「強調」になるミスが起きて、紙面に載るまで朝日新聞側の誰も気がつかない。しかも1面トップの記事が大誤報に終わったという同じ日に、そんなミスが同時に起きる。

 いくら人間にはミスがあるといっても、私の長い新聞記者体験からは考えられない現象だと実感した。朝日新聞はついにこんな水準にまで劣悪化してしまったのかと、啞然としたのだった。

誰が「バカな野郎」か

  第2の朝日新聞の最近の特徴はヘイトスピーチ化傾向である。

 この傾向は前述の紙面の劣悪化と一体でもある。朝日新聞が最近、一定の対象を攻撃する言葉には、明らかに「憎悪表現」として朝日自身が非難するヘイトスピーチと思える極端な表現が含まれるようになった。

 実例は2019年9月18日付朝刊オピニオン面の「多事奏論」というコラム記事だった。筆者は編集委員の高橋純子記者である。

 高橋記者といえば「安倍政権憎し」。安倍政権を倒すには公衆便所を詰まらせよ、とも書いた筆者でもある。朝日新聞はこの記者に紙面上の目立つスペースを与え、異様な内容の記事を定期的に書かせているのだ。

 この記事で頻発されたのは「バカな野郎」という罵(ののし)り、憎しみの言葉だった。

 安倍政権は「バカな野郎」なのだという。安倍政権を支持する日本国民も「バカな野郎」ということだろう。その「バカな野郎」は日本を戦争に引きこんだ「戦犯の東条英樹元首相」らでもあるのだ。同じ「バカな野郎」の安倍政権は戦争をも引き起こす──こんな趣旨の記事だった。
 
 書き出しは以下だった。

《どうして日本は戦争に負けたんですかね。もし勝っていれば今ごろ、青い目の人が丸まげ結って三味線弾いて……と冗談めかして語る軍隊時代の部下に、主演の笠智衆は穏やかな笑みを浮かべて言う。
「けど、負けてよかったじゃないか」
 真顔になった部下が応じる。
「そうですかね。うん、そうかもしれねえな。バカな野郎が威張らなくなっただけでもね」
 小津安二郎監督の映画「秋刀魚の味」(1962年)を見て、このセリフをかみしめながら、9月11日、内閣改造が行われた日の夜をやり過ごした。74年前、東条英機元首相が戦犯として逮捕される直前に自殺を図り、未遂に終わった日でもある》

 安倍政権の内閣改造の日が、東条元首相の自殺未遂の日と同じだというのだ。74年を隔てたこの2つの無関係な出来事を結びつける奇怪な連想が病みを感じさせる。

 そして高橋記者は、この57年前の映画のなかのひとつのセリフ「バカな野郎」を取り出して、現在の安倍政権に以下のように当てはめるのである。

《バカな野郎が威張り出すと戦争になるのか、戦争になるとバカな野郎が威張り出すのか。どちらにしても、バカな野郎と戦争が切っても切れない仲なのは間違いない》
 
 ここで「バカな野郎」は東条元首相から内閣改造をした安倍政権へと移っているのだ。

ただの政治ビラ

 高橋記者は次に「バカな野郎」として「竹島は戦争で取り戻すしかない」と発言した国会議員に話を移す。その議員が言い訳したことを取り上げ、「戦争発言の『上塗り』」をしたと決めつける。そしてそこからまた安倍政権への攻撃に戻る。

《おっと、愚臭につられてつい寄り道してしまった。上塗りの本丸はもちろん現政権である》
 
 安倍政権とその支持者に浴びせる「バカな野郎」というのはどうみてもヘイトスピーチである。「特定の集団や個人をおとしめ、憎悪や怒りを生ませる言葉」というヘイトスピーチの定義にぴたりと合致するのだ。「戦犯」を安倍首相や安倍政権と重ねて、その共通点は「バカな野郎」だとするのである。
 
 高橋記者はさらに、安倍政権の内閣改造で萩生田光一氏が文部科学相になったことを理屈にもならない屁理屈で攻撃して次のように書いていた。

《浜の真砂は尽きるとも世にバカな野郎の種は尽きまじ》
 
 日本国民が民主的な選挙で選んだ安倍政権も、この記者によると「バカな野郎」となる。

「バカ」の意味は明白だろう。愚か、無知、阿呆、役立たず。そして「野郎」はもちろん男性に対する罵りの言葉である。この言葉は朝日新聞が他者の言葉狩りでよく使うレッテルの「ヘイトスピーチ」に相当する。
 
 朝日新聞社刊の百科事典ふう「知恵蔵」によると、ヘイトスピーチ(憎悪表現)とは「主に人種、国籍、思想、性別、障害、職業、外見など、個人や集団が抱える欠点と思われるものを誹謗・中傷、貶す、差別する言葉」を指すという。安倍政権の支持者を「バカな野郎」とけなすのは「思想」が理由だろう。
 
 安倍政権側が朝日新聞記者や野党の支持者たちを「バカな野郎」と呼んだらどうだろうか。朝日新聞が即座に「ヘイトスピーチ」だとして糾弾するだろう。だが朝日新聞は自分たちが気に入らない相手にはそんな乱暴で汚い誹謗の言葉を平気でぶつけるのである。
 
 朝日新聞もここまで堕ちると、自暴自棄、支離滅裂のデマゴーグの政治ビラのようにみえてくる。
 
 さてこんなひどい「バカな野郎」という罵りの記事が出た後の数日、東京で接触した人たちから感想を聞こうと試みた。ところがその十数人の相手のなかには、この記事を読んだ人が1人もいなかった。話題にできないのである。
 
 朝日新聞を読んでいる人が私の接触の範囲内では皆無だったのだ。ちょっとがっかりだった。朝日に目を通す人はもうここまで少なくなったのか、と変な意味での寂しさを覚えたのだった。

首相と犯罪者を重ねる

 朝日新聞のヘイトスピーチ傾向はもちろん他にもある。たとえば、やや古くはなるが、2018年10月8日朝刊の記事だった。

 ここでは民主的に選ばれた日本の首相を強盗致傷、強制性交罪、窃盗罪の犯罪容疑者に重ねていた。当時、全日本を騒がせた樋田淳也容疑者である。同容疑者は窃盗容疑などで大阪府警富田林署に逮捕され、拘留されている間に脱走して、行方をくらました。
 
 樋田容疑者はたくみに姿を消していたが、9月29日、山口県内で捕まった。48日間もの逃走だった。同容疑者は脱走してから盗んだ自転車で日本一周の旅をするような偽装をしていたという。
 
 朝日新聞が安倍首相をこんな脱走犯人に重ねているのには、呆れ果てた。その記事の筆者もまた高橋純子記者だった。「政治断簡」と題される同じコラム記事である。
 
 記事の見出しは「逃走中なのか 挑戦中なのか」だった。

 コラムの冒頭をまず紹介しよう。

《見るともなくつけていたテレビから「『逃走中』を『挑戦中』と偽り…」と聞こえてきた。はて何事かと目をやると、画面には警察署から逃走して盗んだ自転車で「日本一周」していたとされる容疑者の笑顔、別人としての人生を謳歌していたに違いない充実の笑顔が映しだされていた。
 逃げているのか。
 挑んでいるのか。
 その境目は実はさほど明確なわけではなく、何かから逃げている人は、何かに挑んでいる人として在ることも可能だということなのだろう。逃げるには挑むしかない──》
 
 この部分からすでに異様である。脱走した犯罪容疑者、しかも強盗や窃盗や強制性交、さらには逃亡による加重逃走罪という容疑を重ねてきた脱走犯を「人生を謳歌」「充実の笑顔」などと、まるでヒーロー扱いなのだ。法を破って脱走する行動を「何かに挑む人」として礼賛のように表現する。
 
 だがこのコラム記事が「真価」を発揮するのは以下の記述からである。逃走犯のことを以上のように持ち上げたうえで、いきなり次の文章につなげていったのだ。

《おや。いつの間にか私は安倍政権の話をし始めてしまっていたようだ》
 
 つまり冒頭の部分で逃走犯のことを述べているようにみえて、実は安倍政権の話をしていた、というのである。安倍政権というより、安倍晋三首相を樋口容疑者にぴったりと結びつけているのだ。
 
 日本の国民が民主的な手続きで選ぶ行政府の長が犯罪者と同じだというのだ。その連結を支えるのは安倍首相への憎しみ、つまりはヘイトだろう。
 
 こんな飛躍した連結を、公器とされる新聞に書くには何らかの根拠らしい事実の提示が必要だろう。
 
 だが、根拠らしい事実の記述はなかった。高橋記者の情緒的な感情の羅列だけだった。要するに首相と犯罪容疑者をあえて重ね、結びつけ、同類項扱いすることの客観的な根拠も理由もゼロなのである。ただ浮かんでくるのは憎悪だった。
 
 同コラムの残りも、ほぼすべて安倍首相と安倍政権に浴びせる悪口だった。次のような言辞が並んでいた。

《ブレーキを踏まない》
《説明責任を果たすことから逃げ》
《悪路であえてエンジンを吹かす》
《自らを挑戦者のごとく演出するのがうまい》
《勝手に走り出したことを棚に上げて》
 
 とにかく安倍首相を罵りたいという嫌悪だけが露わで、意味の不明な言葉ばかりだった。
 
 だが、安倍首相と逃走犯人とどんな共通項があるのだろう。逃げているのか、挑んでいるのか、高橋記者にとってはわからないという点がどうも共通項らしい。
 
 だが逃走犯の行動は最初から最後まで犯罪行為だったのに対して、安倍首相の行動はかりにも日本国の首相としての義務や権利の結果なのだ。この2つのまったく次元の異なる行動と、異なる人間とを結びつける発想はまともではない。ヘイトに基づくスピーチとみなさざるを得ない。
 
 朝日新聞は安倍攻撃にありとあらゆる手を使い、その打倒は失敗に終わってきた。そのあげくに、こんな支離滅裂の記事を載せることは、なにか自暴自棄人間のふてくされた言動とも思えてくるのだった。

ゴリラすら持ち出す

 第3の朝日新聞の最近の特徴は「悪魔化」の拡大である。
 
 悪魔化とは、自分たちの敵を実際とは異なる邪悪の存在に描いて叩くという手法である。そのためには、すでに邪悪と断定された過去の他の存在を現在の敵に重ね合わせる。
 
 朝日新聞はそのためによくヒトラーやナチスを借用する。ナチス・ドイツの行動や人物の悪の言動を引き出してきて、現在の朝日の敵に重ねて「ヒトラーと同じような悪」と断ずるのだ。そのヒトラーが日本の戦前の軍国主義者となる場合もよくある。
 
 卑近な実例で、1月11日付朝刊の長文の社説ではゴリラまでが自説の支えの悪魔化に使われていた。《東京五輪の年に旗を振る、って何だろう》という見出しの社説だった。
 
 その趣旨は回りくどい文章なので難解だが、日本の旭日旗を東京五輪で禁止すべきだという韓国の主張への支援が核心と受け取れる。さらには国旗という概念にまで批判を表明していた。その社説のなかでは、国旗を振ること自体を愚かとか危険とみなす反国家のメッセージがちらほら見受けられる。

《人類に代わって「猿」が支配する世界を描いたSF映画「続・猿の惑星」(1970年)には2種類の旗が登場する。
 ゴリラの兵たちが行軍で掲げるピンクと黒の旗と、平和デモをするチンパンジーたちが手にしていた白い旗だ。
 ゴリラの将軍は叫ぶ。
「我々軍人の聖なる義務は武力でかの地を占領し、我々の旗を掲げることだ」》
 
 この記述の意図は明白である。旗を掲げること自体が「武力でかの地を占領する」ためだというのだ。しかもその当事者はゴリラなのだという。日本の旭日旗をフィクションのSF映画に登場するゴリラ集団の旗に重ねあわせる悪魔化だといえる。悪魔化でなければ、まさにゴリラ化である。ゴリラを自分たちの主張の支えにするという手法でもあった。

90年の時を超えて

 目先のテーマを論じる際、主題とは無関係な過去のネガティブな事物を持ち出してきて、自分の反対する相手に重ねて悪のレッテルを貼るという朝日新聞の悪魔化手法は実に頻繁である。2019年12月25日付朝刊のコラム「多事奏論」でも見受けられた。
 
 編集委員の駒野剛記者によるコラム記事は、《戦死者と権力者 慰霊 歴史から目をそらすな》という見出しだった。内容は長野県の護国神社の崇敬会会長に長野県の現職知事の阿部守一氏が就任したことへの批判だった。
 
 同記事は現在の日本で県知事が日本の戦死者の霊を祀る護国神社の崇敬者代表になることの是非を論じる形をとりながら、実は反対論を展開していた。そしてその反対論の武器として一気に90年近くも前の満洲事変を持ち出していた。

 1931年の満洲事変を契機に日本からの「満洲開拓団」が中国大陸に渡った。長野県からも「満洲愛国信濃村建設委員」が選ばれ、県知事が委員長になったという。
 
 そのうえで駒野記者は以下のように書いていた。

《信濃村は頓挫する。(中略)旧ソ連が突如参戦してソ満国境を越えてから未曾有の悲劇が始まる。開拓団の男は根こそぎ召集され、残った女、子ども、老人らは逃避行を迫られる。ソ連軍などの襲撃、前途を諦めての自決、伝染病などで長野県に生還できたのは約1万7千人、約1万6千人が亡くなるなど未帰還だった》

 その後、以下の文章が続く。

《首相や知事という、戦を始めたり、外地に人を送り込んだりした権力者に連なる人たちが「私人」を盾に、政治利用なり広告塔まがいのことをするのは、あまりに歴史を甘く見ていないか》 
 
 だから2019年のいま、県知事が地元の護国神社の信徒代表になってはいけないと主張するのだ。満洲でのソ連軍の暴行による長野県民の悲劇が、あたかも長野県知事の責任だったかのような「悪魔化」の牽強付会(けんきょうふかい)である。

日本は「非民主的国家」か

 2019年6月4日は、中国の天安門事件の30周年記念の日だった。中国人民解放軍が多数の中国人民を殺戮したあの事件は、全世界の非難を受けた。アメリカの首都ワシントンでも、中国共産党政権に対するその非難は頻繁に表明されてきた。30周年の記念日には特にトランプ政権も再度、中国への非難声明を出して、事件の真相を公表することを改めて求めた。
 
 日本のメディアでも天安門事件から30年の回顧報道が盛んだった。だが欧米諸国や香港、台湾のメディアに比べると、その非難の度合いはずっと低かった。日本の政府も天安門事件に関して、いまの中国政府に正面から抗議をぶつけるようなことはしていない。日本こそ人権意識が希薄だといわれても反論できないだろう。
 
 そんな日本のメディアのなかでびっくりするような記述があった。朝日新聞6月4日付夕刊一面の「素粒子」だ。 
 
 以下のような記述だった。

《歴史は消せない。忘れたい過去にも向き合ってこそ、国家の歩みは正統性をもつ。中国・天安門事件から30年。
 日本も胸を張れぬ。首相の面談記録を官邸が作っていない。検証不能、歴史と未来に責任を持たぬ非民主的国家》
 
 以上の文章をふつうに読めば、中国も日本も同じ非民主的国家だと非難し、揶揄していることは明白である。これも朝日新聞の安倍政権の悪魔化レトリックだった。
 
 天安門広場で自国民の民主化運動を武力で弾圧し、一般の国民を大量に殺す。しかもその非を認めず、悪いのは非武装の自国民だったと断じる。そして弾圧や殺戮の事実を否定し、一切の記録を消してしまう。さらには国内で、その弾圧を提起する自国民をまたさらに弾圧する。
 
 これが中国政府である。それに対して朝日新聞は「日本も胸を張れぬ」というのだ。なぜなら「首相の面談記録を官邸が作っていない」からだという。この手続き上の一事をもって、日本政府も中国政府と同じ独裁の非民主的国家だと断じているのだ。これぞ日本政府の悪魔化である。
 
 冗談ではない。日本は立派な民主主義国家である。国民には政権を批判する自由がある。行政府の長の悪口雑言を述べて、その辞任を求める自由がある。政権与党に各野党が挑戦する自由がある。そもそも、一般国民が選挙で政府を選ぶ自由があるのだ。
 
 一方、中国の共産党政権は日本では自明の人間の基本的な自由を認めていない。国民を無差別に殺しても責任を問われない。問おうとする国民を抹殺してしまう。そんな邪悪な独裁体制の露骨な症状が天安門事件だった。
 
 だが朝日新聞は日本に総理の面談記録がないから、わが日本はこの非道な弾圧国家の中国と同じなのだという。日本は歴史と未来に責任を持てないのだという。
 
 なにをかいわんや、である。こんな病んだ発想をして、自分の国を貶める人たちが自分と同じ日本の新聞記者だとか、ジャーナリストだと称していることを恥ずかしく思ってしまう。

説明責任を求む

 第4の特徴は政治プロパガンダの拡大である。

 特定の政治主張をきわめて主観的に、事実を軽視し、無視してでも拡散するのが政治プロパガンダだといえる。
 
 報道・言論機関としての新聞も自己の主張があることは自然である。だがマスメディアはニュース、つまり新しい情報の報道が最優先される機能であり、自己の意見を述べる評論は二の次となる。そして報道と評論は紙面でも区別されるのが理想である。
 
 ところが最近の朝日新聞をみると、自己の主張を一方的に流すプロパガンダの分量と度合いがますます高まってきた。
 
 たとえば令和元年最後の12月31日付朝刊では、1面のほぼすべてが安倍政権の公文書管理への批判のキャンペーン記事だった。ニュース性のない非難と糾弾の繰り返しである。社説も個人の気ままなエッセイ風の文章、その他も自社の主張に沿う外部の人物たちの意見の紹介が圧倒的に多い。ニュースが少ないのだ。
 
 1月3日付の朝刊では1面から4面まででニュース記事は合計4本のみ、報道機関よりも教宣機関のようだった。同じ日の読売新聞の朝刊は4面まででニュース記事が合計10本、朝日の2.5倍の数だった。

 朝日新聞全体でもプロパガンダ色が濃い内容の記事がまた一段と増えてきた。その1つが2019年2月7日付朝刊に載った「空母は人類に不幸をもたらす」という見出しのコラム記事だった。筆者は、これまた編集委員の駒野剛記者である。
 
 この記事の見出しは「いずも『空母』化」「人類に不幸」「自覚なき転換」。日本の自衛隊の「いずも」の空母化は人類に不幸をもたらす、というユニークな主張だった。
 
 ただしその根底には日本の防衛力強化にはすべて反対するという朝日の年来の政治主張があり、この記事はその主張を誇大に宣伝するプロパガンダ性が明確だった。空母が人類を不幸にするのならば、いまの世界ではまずアメリカ、中国がその筆頭となる。なぜなら、アメリカは世界最大の空母保有国、中国は世界最大の精力を注いで空母を新造している国だからだ。
 
 世界にはその他にも航空母艦を持つ国、持ってきた国は多々ある。イギリス、フランス、アルゼンチン、ウクライナ、インド、イタリア、ドイツなどである。これらの諸国がみな人類を不幸にしてきたのか。
 駒野記者の記事は前半で近年の空母の多様な役割を書く。特にアメリカの空母が、湾岸戦争や台湾をめぐる中国との対立で果たした効用を説明する。そのうえで日本も対米戦争では空母をフルに使った歴史を述べる。だが空母がなぜ人類を不幸にするかの説明は出てこない。

根拠も論理もない

 同記事は、やっと最後に近い部分で「空母は空を制し、敵国の中枢部も襲う」と書いたうえで、日本海軍の連合艦隊司令長官だった山本五十六が1934年のロンドン軍縮会議予備会議で日本案として空母の全廃も提案したとして、以下のように記していた。

《山本は空母の全廃を主張する。米代表は、航空の司令官だった人の口から廃棄を聞くのは意外だと冷やかした。山本は「だからこそ、その廃棄を主張する」、戦時の空母の使命が「人類に不幸なるものか」、知るのは自分だけだ、と反論した。事実、空母に始まった戦は日本人を不幸にした》
 
 以上の記述がこの長い記事のなかで「空母は人類を不幸にする」という全体の主張の唯一といえる論拠だった。だがこの「論拠」がいい加減きわまることは明白である。
 
 同記事は最終部分で、日本の自衛隊の「いずも」の空母化について次のように結んでいた。

《自衛から攻略へ。能力を激変させる転換点になる。しかも米海軍の空母は懐に抱え続ける。その手下となって不幸を共有するのか。山本が抱いた自覚も、克服する覚悟もないまま、封印を解こうとしている》
 
 駒野記者の本音はこの部分だろう。だがこの記述も矛盾だらけである。だからこそしょせんはお粗末なプロパガンダ記事なのだ。

 まず第1に、「いずも」はせいぜい自陣営の艦隊防衛の能力しかなく、他国に襲いかかれはしないというのが専門家の判断である。同じ日の朝日新聞に、元海将の伊藤俊幸氏がそう明記している。
 
 第2には、米海軍の空母の手下になることがよくないというなら、日米同盟には反対ということになる。朝日新聞は日米同盟自体に反対なのか。その基本を曖昧にしたままのこの手のゲリラ的攻撃は姑息である。
 
 第3には、米空母を日本の防衛に取り込むことが「不幸」だと断じるのは、あまりに情緒的である。「空母は人類に不幸」という主張には、何の根拠も論理もないと断じたい。

「朝日文化人」との癒着

 朝日新聞は、自社のプロパガンダに社外の人材をも頻繁に利用する。

 かつて、「朝日文化人」という言葉があった。朝日新聞がよく起用する、いわゆる識者たちのことだった。学者、芸能人、政治活動家、ジャーナリストなど多彩な顔ぶれではあったが、みな朝日新聞の独特の論調に大なり小なり同調する点が共通していた。
 
 というより、朝日新聞が自社の特異な政治プロパガンダに賛成するような人物たちを探し紙面に登場させて、自社の主張を明確に、ときにはもっと激しく、誇張する形で述べさせるという癒着メカニズムが存在するのだといえよう。
 
 最近の実例では、2019年8月22日付朝刊の長文の論文記事がある。朝日新聞がトランプ大統領をほぼすべてにわたり非難するという立場は明確だが、この記事はトランプ支持者たちへの誹謗だった。
 
 朝日新聞はそのトランプ支持者への悪口を自社の記者ではなく外部の学者に述べさせていた。しかも自社の主張ならばおそらくためらうだろう極端な非難だった。
 
 だから私は朝日文化人という古い言葉を思い出したのだ。朝日新聞御用達識者と呼びかえてもよい。要するに朝日新聞が主張したい言説、拡散したいプロパガンダを代わって、もっと激しく、もっとどぎつく述べてくれる人たちのことである。
 
 今回の記事はオピニオン面の下段、「政治季評」というコラム欄に載った「トランプ氏を支持したのは『違い』を嫌う権威主義者」という見出しの論文だった。
 
 筆者は早稲田大学教授の政治学者、豊永郁子氏だった。豊永氏はときおり朝日新聞に登場し、安倍政権やその官僚をナチス・ドイツに重ねて叩く論法を展開した実績がある。
 
 今回のテーマはトランプ政権とその支持者だから、ワシントンでトランプ政権やアメリカの政治状況を取材している私にとっても関心は高かった。
 
 豊永氏の主張は要するにトランプ大統領を支持する人はナチス・ドイツを支持した層と酷似する全体主義者たちだというのだった。
 
 同論文では「権威主義者」がキーだった。権威主義者(Authoritarian)とは、権威主義(Authoritarianism)を信じる人を指す。権威主義というのは全体主義という意味でもあり、要するに非民主的な独裁主義をも指している。
 
 アメリカではトランプ大統領が登場したころ、反対派からよくこの言葉が浴びせられた。もちろん本人やトランプ支持派は頭から否定するネガティブなレッテル貼りだった。

メルトダウンは止まらず

 豊永氏はこの権威主義について、トランプ氏がそうだというよりも同氏を支持したアメリカ国民が権威主義者だと大上段に断ずるのだった。その権威主義について以下のように書いていた。

《アメリカにおける権威主義の研究は、ファシズムを支持した人々の心理的特徴を捉えようとした、ドイツ出身の社会学者アドルノらの1950年の著書を嚆矢とする。90年代に政治学者の間でリバイバルがあり、研究の蓄積が進んだ。そしてトランプ氏が共和党の大統領候補に選出された予備選挙の段階で、ある大学院生が発見する。「権威主義者たちがトランプを支持している!」》
 
 以上の部分がこの豊永論文の主張の最大の論拠なのだ。

「ドイツのファシズム」といえば、当然、ヒトラーのナチス・ドイツのことである。その80年前のドイツのファシズムを支持した人々が権威主義者であり、いまアメリカでトランプ大統領を支持する人たちも同様の権威主義者だというのである。そして、その「例証」らしき記述は「ある大学院生が発見する」という叫び声の紹介だけなのだ。
 
 なんと粗雑な「論文」だろう。朝日新聞記者が自分たちでこれを書かず、外部の朝日文化人に依存したこともなんとなく理解できるようだ。
 
 ちなみに自分たちの嫌いな対象をナチス・ドイツにたとえるのは朝日新聞の伝統的な攻撃手法である。その対象とナチスの間にはツユほどの関連がなくても、証明された過去の悪の権化のイメージを現在の目前の敵に押しつけるのだ。この点では豊永氏は朝日の期待をきちんと体現していた。
 
 豊永氏はいまのアメリカの権威主義について、さらに次のように書いていた。

《権威主義者は「一つであること、同じであること」を求める。「違い」を嫌い、多様性が苦手だ。強制的手段を用いてでも規律を全体に行き渡らせてくれる強いリーダーを好む》
 
 要するに、多様性や違いを許さない独裁体制を好む人たちということである。ナチスと似た体制を求める人たちだと解釈するしかあるまい。だからトランプ大統領をヒトラーと同様の残酷な独裁者といいたいのだろう。
 
 そんな人物を支持するアメリカ国民は非民主的な権威主義者だと断じているのだった。いまのアメリカは民主主義を否定する国家であり、無知で危険な国民の集まりなのだという断定ともいえよう。
 
 トランプという悪ありき、という大前提の上に組み立てられたプロパガンダ的主張とみなさざるを得ない。朝日新聞のゆがんだトランプ像だともいえよう。少なくとも私が現地でみてきたここ4年ほどのアメリカの実態とは異なっている。
 
 以上のように、令和時代の朝日新聞はなお報道・言論機関としては異端の方向へとますます暴走していくようにみえる。その歩みは正常のマスメディア、ニュースメディアの道からのさらなる逸脱のようにみえてならない。その紙面は日本の現実、世界の現実からのさらなる離反だともいえる。
 
 そんな朝日新聞にどんな未来があるのか。この問いの答えを考える私の頭には、まず「メルトダウン」という言葉が走った。朝日新聞内部では、すでにその現象が始まっていると思えてならない。

古森 義久(こもり よしひさ)
1941年、東京生まれ。産経新聞ワシントン駐在客員特派員。慶應義塾大学経済学部卒業。ワシントン大学留学。毎日新聞社時代にサイゴン、ワシントン両特派員などを歴任。81年、米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員。87年、産経新聞社入社、ロンドン、ワシントン支局長、中国総局長を経て、論説委員、国際問題評論家として活躍。麗澤大学特別教授。

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