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李琴峰『言霊の幸う国で』には何が書かれているのか――

トランスであるとカミングアウトしたが

 台湾出身の芥川賞作家、李琴峰(り ことみ)氏の「アウティング被害」が問題になっています。
「アウティング」とはLGBTの性的指向や性自認などが本人の了承なしに暴露されてしまうことで、重大な人権侵害とされています。

 甲府市議の村松裕美氏が昨年5月下旬、フェイスブックで李氏について「身体が男性で手術もしていない」「身体男性の女性でレズビアン、つまり恋愛はノーマル」と投稿しました。それに対して、李氏が今月5日、「一方的に機微な個人情報をさらされた」として、550万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴したのです。李氏は平成25年の来日前に性別を女性に変更したのですが、今までそうした経緯を隠して生活していたといいます*1。

 李氏は昨年11月20日の「トランスジェンダー追悼の日」にトランスであるとカミングアウトしましたが、その時の声明は以下のような具合です。

「私はカミングアウトなんてしたくありませんでした。アウティングをされ、爪剥(は)ぎの拷問のように選択肢が目の前から一つひとつ奪い去られ、精神的にも肉体的にもじわじわ追い詰められ、気づけば、カミングアウトという選択肢しか残されていない、そんな状況です」
「カミングアウトは私の自由意志ではありません。加害者の憎悪犯罪の結果です」
*2。

 李氏としてはレズビアンであることは以前より公表していましたが、トランスジェンダーであることは隠してきたにもかかわらずそれを暴露され、今回の訴訟に踏み切った、というわけです。
 一方、村松市議は「男性ではないかといった投稿がSNS上で散見され、生来の女性を守りたいという思いで発信した」と述べています。

活動家同士の殴り合いに過ぎない

 ――最初にお断りしておくと、今回、ぼくのスタンスはどっちつかずです。
 まず、村松市議の女性を守りたいとの思いは理解できますが、本人が公表していない事実を公表したとするならば、それはやり過ぎとも思える。

 しかし一方、李氏がレズビアンである上トランスであったとなると、女性が「(元)男性が女性専用スペースに入ってくるのではないか」といった危惧(きぐ)を覚えることも、ゆえのない話ではありません。時々お伝えしている通り、トランス(運動家)はトランスであるか否かは本人の自己申告を基準にせよと主張しており(それはつまりいくらでも詐称ができるということでもあります)、女子スポーツや女子トイレ、女湯など女性のスペースへと立ち入る権利があると主張してきたのですから。

 一方、女性たちの尊厳と安全を守れとのかけ声にはぼくも唱和しますが、その声の主体が(村松市議は措くとして)多くの場合フェミニストであることには、少々複雑な気分にさせられます。というのはそうした反トランス的なフェミニストは「TERF(ターフ)」と呼ばれるのですが、そもそもジェンダーやセクシュアリティを後天的なものであり、多様化(というよりは無化)すべきと唱えてきたのがフェミニズムなのだから、矛盾していると言うしかない。彼女らはLGBTを今までの性のあり方にとらわれない素晴らしい者であるとさんざん称揚を続けてきて、中でもTは従来、「男という特権階級に生まれながら、その特権を手放した勇気ある聖者」としてきました。
  
 しかし、考えてみれば必然的に起こり得る問題が表面化したとたん大慌てというのは、申し訳ないけれども随分と間抜けな話です(一方、李氏を含めトランス活動家もほぼ100%と言っていい割合でフェミニストです)。
 トランス運動家の主張に敵対するのであれば、彼女らは今までの理論を捨て去るしかないのですが、ぼくの知る限り、TERFの中にそうした人はいません。まあ、上野千鶴子氏が結婚していたと知られても失脚しない業界なのですから、そんなことを期待する方がおかしいのかもしれませんが……。

 本件は女性とトランスの、あるいはフェミニストとトランス運動家のバトルであると理解することが可能ですが、前者として見た場合、村松市議の「女性を守りたい」との発言は全面的に支持できるものの、後者として見た場合は「自業自得だろ」「勝手に戦え」といった感想しか湧かないわけです。後者は言うならばコップの中の嵐、山小屋の中での活動家同士の殴り合いに過ぎないのですから。

『言霊の幸う国で』を読むと……

 というわけで今回、李氏にも与(くみ)せないものの、批判者の言にもすぐに飛びつくことはできません。例えば、SNS上には「李氏は以前からトランスであると公表していた」「トランスには女子専用スペースに入る権利があると、積極的に推奨してきた」といった発言も見られました。

 なるほど、前者が事実なら村松市議への抗議は不可解ということになりますし、後者が事実なら市議の危惧も当然ということになります。

 が、少し調べた限りでは、李氏が本件以前に自らをトランスだと明言していた記録は見つけられませんでした。そう主張する方、幾人かにも尋ねてみたのですが、お返事はいただけませんでした。「李氏は以前から台湾でもアウティング被害に遭っていたのだから、トランスであることは自明だ」、あるいは「カムアウトした後での市議への訴訟は意味不明」との論調も見られましたが、それは無茶でしょう。アウティングを繰り返されることで、知られたくない個人情報を知る人が増えるのが嫌というのは当たり前のことだし、カムアウト自体が意に沿わぬものであった以上、怒りが持続しているのは当然です。

 ただし、李氏には『言霊の幸う国で』という自伝的小説の著作があるのですが、これを読むと少々、印象も変わってきます。主人公のLは『彼岸花が香る島』で芥川賞を取った小説家であり(李氏の著作は『彼岸花が咲く島』)、ほぼほぼ本人そのままと言っていいでしょう。また、自分を批判した人物を実名で登場させ、その発言をこき下ろす箇所がいくつもあります。それら経緯が事実に即しているのかは知りませんが、実名を出している以上、ほぼ実話なのでしょう。同書には確かに主人公は著者本人ではないと注意書きがあるのですが、それにしても相当に事実が反映されていることは間違いがありません。

 そして、ここでLはトランスであるとされているのです。それは第七章でアウティングを受けるという展開で明らかとなり、Lが悲嘆に暮れ、苦悩する様が延々延々、延々延々、延々延々描写されます。というか、本書は全体的にトランス差別のウンチクや差別者(であると氏が考える人物)への攻撃が長々と続き、圧倒的な怨(うら)みの情念に読んでいて頭がクラクラし、そもそも小説のテイをなしているかも怪しいのですが……。

 本書は昨年6月末の出版で、村松市議の件の直後。つまり市議が同書をあらかじめ読んでいた可能性はないし、また同書の展開が市議の件を受けてのものである可能性もほぼ、ないでしょう(作中でのアウティングは台湾の人間によってなされたという、これもまた実際にあった事件が元になっています)。

 しかし、そうは言っても、これを読むと李氏自身がほぼほぼカムアウトしているようなものだとの印象を持ちます。市議の件が出版以前である以上、本書は関係ないとも言えるのですが、李氏自身が以前よりこれと近い言動を取っていた、そしてそれが「アウティング」に影響を与えた……といった可能性も、考えられるのではないでしょうか。

トランスをめぐる見解

 第二に、李氏がトランスの女子スペースの利用を肯定しているか否かについてはどうでしょう。
 これもそう主張している複数人に尋ねてみたのですが、芳(かんば)しい答えを得られませんでした。

 ただし、やはり先の小説を読むと、近い記述に出くわします。
 第八章では、女子スペースでの犯罪のほとんどはトランスではなく犯罪目的の女装者だとして(281p)、「トランス女性は犯罪目的の女装者と区別がつかないから、女子トイレを使わせるべきではない」といった主張をトランス差別であるとします(277p)。しかし何かそういうデータあるんでしょうか。トランスについては自己申告をそのまま受け入れよ、またそもそもそうした個人情報は秘匿(ひとく)されるべき、というのがトランス側の主張なのに、どのようにすれば両者を区別できるのでしょうか。

 九章ではLと親友のめぐとの議論が描かれます。レズビアンでフェミニストのめぐは、数カ月前より反トランスと化してしまった。彼女はトランスが女性スペースに入ってくるかも知れないという「起こってもいないこと」(383p)への危惧を語る――というのですが、トランスが女性スペースに入り込んでいるのは厳然たる事実です。noteでもトランスが女湯で女体をガン見してレポートしている記事などを見つけることができます。そもそも本書でも、それを積極的に肯定しているトランス男性、遠藤まめた氏が代表を務める「一般社団法人にじーず」へとLが挨拶に行く描写があるのですが(378p)。
 いえ、少しページを戻ると、以下のような言葉も出てきます。

「ましてやトイレとお風呂の利用は性染色体の形で決めるべきだという発想は、愚かしすぎて言葉も出ない」(365p)

 さらにページを進めると以下のようにあります。

「卑劣な差別者がどう騒ごうが、Lが女性である事実は変わらない。Lは女性として生活しているし、女性として認識されている。女性専用車両にも乗るし、女子トイレも使うし、レズビアンバーにも通う」(483p)

 どうやら100頁前には「起こってもいないこと」とされていたことは、L本人によって「なされていた」ようです(一応、めぐは「見た目が男の人」と言っているので、「私は外見も女性だ」というのがLの言い分になるのでしょうが……)。
 いずれにせよ批判者にも勇み足の面はあれ、李氏を一面的な被害者であるとするのもどうか、と言わざるを得ないようです。

男性たちに責を押しつけるという醜悪な姿

 ――さて、ここからはちょっと、めぐとの議論について、もう少し深く見ていきましょう。
 議論はLがアウティングされ、トランスであると暴露されつつある中、めぐがその情報を目にしたか不安を感じている中、行われます。

 めぐは「twitterでは息を吐くように〈男は全員氏ね〉〈人類滅亡を望む〉〈労働はクソ〉など投げやりなことをつぶやく人間」(382p)。Lには「友だちは選べ」と言いたくなりますが、ともあれ何とか説得しようとするも、彼女は頑なに聞く耳を持とうとはしない。何しろ彼女は男どころか異性愛の女性も深く憎み、「男は全員死ねって思ってるし、男と関わってる人も全員死ねって思ってる」(391p)のだから、トランス女性に理解を示せというのがどだい無理な話です。

 そもそもがこの時点で、めぐはLがトランスだと知らないわけで、彼女がそれを知ったら、女性と信じていた親友の裏切りと感じても不思議はないわけです(作中には、そうした描写はありませんが)。

 日本でアウティングについてが知られるようになったのは、同書でも卑劣なトランス差別の一例として言及のある(246~247p)「一橋大学アウティング事件」がきっかけです。一橋大学大学院の学生が友人から恋愛感情を告白され、苦悩の末にそれを周囲に告げてしまったという事件です。結果、アウティングを受けた学生は校舎から転落死してしまいました(同書では「自殺」と断言されています)。もちろん痛ましい事件であり、告白された学生も必ずしも適切な対応をしたわけではないかもしれませんが、こうしてみると「アウティング」がただ、差別であり憎悪犯罪であるとする見方自体が、幼稚なものであるとしか考えようがないわけです。

 案の定、両者は決裂するのですが、ところがそれでもLはめぐの「女としての深い苦しみ」にシンパシーを感じ、以下のように述懐します。

「なんでこんなことになったのだろう? なんでこんなふうに傷つかなければならなかったのだろう? すべてネット上の卑劣な差別者のせいだ。しかし、彼らは一体どんな人たちだろう? なぜそこまでして人を傷つけよとしているのだろう?」(396p)

 この他責性には唖然としました。
 Lの脳内には「ネトウヨ」という絶対悪が住まっていて、この世の全ての悪の責はそのネトウヨにのみ還元させられるべきものなのです。仮にその「ネトウヨ」とやらが悪だとしても、もう充分に大人であろうめぐがそれに染まったとしたら、それは彼女の責だと思うのですが、Lは一切、そうは考えません。

 一方で、めぐはLにトランスへの攻撃を止めろと説かれると、「じゃさ、トランスに対する攻撃的な発言は今後控えるとして、誰を攻撃すればいいの?」(391p)などと問い返しており、(李氏自身がそうであるように)保守派やら男性やらへの攻撃を今まで散々続けていたことがうかがえます。
 しかしLはとにもかくにも(ここに限らず、全編に渡り、自分にとって不快なことは)全て卑劣な差別者であり憎悪者のせいだと泣き叫ぶばかりです。敵対者を「ゴキブリ」などと罵(ののし)っておきながら(376p)、自分たちは何ら咎なく攻撃を受けるばかりの清浄で純真な聖者であると考えているようなのです。
 Lは「ネトウヨ」をあげつらい、以下のように言うのですが、一字一句がブーメランとなって跳ね返っているのではないでしょうか。

「陰謀論は、人々の信じたい物語を提供してくれる。陰謀論のフィルターを通すと、万華鏡みたいに複雑な世界でもチェス盤のごとく綺麗な白黒二色に分けられる」(458p)

 ここには、フェミニズム(LGBT思想)の抱える欺瞞(ぎまん)の全てが、現れているように思われます。フェミニズムはただ単に女は善で男は悪であるとするだけの、単純で幼稚で不当極まる二元論です。しかし、めぐを見てもわかるように、彼女らが本当に憎いのは「男と、自分以外の女」であるように思われる。
 その一方で、フェミニズムは「男というワルモノの被害者である、女性以上のマイノリティ」としてLGBTを取り込んだ。ことにゲイに彼女らが肩入れしてみせるのは、「絶対に女へと加害しないから」としか思えない。ところがトランスは実のところ、ある種の加害性を持っている。

 一方、トランスもまた、男性や男性性への異常な嫌悪を、女性や女性性(そしてフェミニズム)への異常な妄信(もうしん)を抱いています。これもまた、しかし実際には「女性といういついかなる場合も被害者として振る舞うことの許される聖者」という立場を手に入れたい(そうすることで世界への憎悪を正当化したい)という情念がかなりのウェイトを占めているように思われる。
 いずれもが、「絶対的な被害者」という甘美な立場を希求し、しかしそこに至るまでに自らも加害性を露呈しながらもそれに気づくことなく、なおも男性たちに責を押しつけるという醜悪な姿である――ぼくにはそんなふうに思われます。

何か政治的意図があった……?

 長くなりましたが、もう一つだけ。Lは芥川賞受賞をきっかけに、かつてつきあっていた恋人(トランス女性)から、復縁を迫る連絡を受けます。Lは愛の重すぎる恋人に辟易し、別れたのですが、それ以降、相手はストーカーと化し、Lはそのことをひたすら迷惑がります。

 確かにメールの文面があまりに熱烈であるなど、Lの気持ちもわからないでもないのですが、Lはその文面を悪臭がするとまで罵り、相手を一貫してストーカーとだけ呼び、ただただ害意を持つ悪として切り離し続けます。めぐの時には「ネトウヨ」とやらに責を押しつけることで共感していましたが、性的関係の破綻(はたん)した相手には情け容赦のない態度を取り続けるのです。
 ただひたすら自分は正しい、他者が悪いのだと赤ん坊のように泣き叫び続ける小説の主人公を見た後、李氏について思いを巡らす時、両者が完全に同一ではなくとも、やはり疑問を覚えずにはおれません。

 最後に、村松市議は近く、「包括的性教育」への懸念を盛り込んだ要望書を文部科学省などに提出する予定でした。市議はこれを性観念が未熟な子供に対し過度な性教育を施すものとして危惧していたわけですが、李氏からの提訴を受けて見送ったと伝えられます。
 何しろ市議は提訴されたと報じられてからSNS上で自宅画像や家族情報が流され、危害を予告する投稿も確認されているとのことで、残念ですが無理もないところかもしれません。

 また、こうしたLGBTを批判する者に対する脅迫行為となると、『トランスジェンダーになりたい少女たち』の出版が危ぶまれたことも、思い起こさずにはいられません。
 以前もお伝えしましたが*3、同書の主旨は欧米でトランスインフルエンサーがYouTubeなどで少女たちへとトランスになることを誘導している件についてでした(考えると『言霊の――』には、この件についての言及が全くと言っていいほどありません)。
 そう考えるとこの提訴自体に、ほかにも政治的な意図があったのでは……とついつい、そんな勘繰りも、してしまいたくなりますね。​
*1 「芥川賞作家、李琴峰氏の性別暴露で提訴された女性市議が釈明「生来の女性を守ろうと…」
*2 ただし、noteでなされた表明は李氏が裁判によって知り得た相手の個人情報を掲載していたため、運営によって削除されたとのことで、上の引用はそれに準ずる李氏の公式HPの「李琴峰「トランスジェンダー追悼の日」アウティングされ声明」からのものです。
*3 「『あの子もトランスジェンダーになった』発売中止を分析すると」
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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