あと何年か遅く大東亜戦争を始めていればよかったのに……と考えることが多いが、戦争はいつも準備不足で始まる。
 それはともかく、近頃のアジアでは開戦前夜のような話が多いので一寸書いてみよう。

 もし開戦を待っていれば、どんな世界が展開するのか──それをイメージするには、意外なハプニングや、それが累積した場合の新展開まで考えられる人が必要だが、そういう人は日頃から気をつけていないと見つからない。
 日本の上層部に、そういう才能がある人の累積があったか、というとそれはなかった。
 日本の上層には一高・東大あるいは陸士海兵という選抜コースを通ってきた人がたくさんいたが、ただ賢いだけの人が多かった。どんな役に立ったか、については議論が出つくしている。
 一口にいえば、戦争が暗転してからの方が面白い。現場の指揮官が多様化して、上より下からの評判が高い人がその真価を発揮した話は気持ちがよい。キスカの撤退を成功させた木村昌福少将は、突入をすすめる部下に対し名言を残している。
「撤収しよう。撤収しておけばまた来れる」
 その通りで、木村艦隊は濃霧の晴れ間をつく再突入に成功し、5000名の陸軍を収容して北海道に帰還した。その後、日本軍が生還に成功した話は他にないから、この成功は特筆大書されねばならないと思う。

 これに対し、突入して玉砕すれば勇敢! とは勤務評定不要の戦い方である。
 日本軍は上に具眼の士がいるとは思わず単に命令を守って玉砕をくりかえして消滅した。
 御前会議で阿南陸軍大臣は、まだまだ残存兵力があると主張したが、それは天皇によって退けられた。阿南陸相夫人は「主人には陸軍大臣はムリでした」と語っている。
 こんな無責任な人達のパフォーマンスに、生命と国費を投じたとは信じられない軍隊である。パフォーマンスにはどんな意味があったか、庶民の気持ちを言えば、勇ましさをみせれば死んでも遺族には年金が支給されるだろう──だったと思う。
 物糧で負けた日本軍は、精神では勝つという形を残したかったろうと思うが、そのために玉砕をくりかえしたのは悲惨で愚かだった。

 これは上級司令部の無能と無為による悲劇である。
 神風特攻隊の第一陣として関行男大尉以下が出撃したのは感状が上聞に達すれば天皇がこの戦いをとめてくれるだろう──と思ったからで、その期待が裏切られて以後、フィリピンの特攻隊基地は暗い空気に包まれた、とある。
 天皇は即位直後に明治憲法を守れ、の教えを強調されたので、軍のすることに何も言えなかった。だったら軍の上層部の責任は大きかったと思うが上層部は天皇の〝一言〟に頼った。国民は上には何か成算があるだろうと思ったが、それはなかった。上の無責任があまりにひどいので、追及する気力もなくなっていた。
戦争末期の国民は、徒らにB29の爆撃を見上げていた。

 噂話はいろいろあったが、それは成算はあるらしいという噂だった。
 確かに成算をもっているつもりの軍人はいた。昭和15年頃に大流行したのは〝バスに乗り遅れるナ〟で、ドイツの電撃戦の勝利に目がくらんだ軍人が唱えた。ドイツの勝利に便乗しようという考えで、バスはドイツでイギリスとフランスは必敗と考えていた。
 あのときは落ちついて再考すべきだった。パリを占領するまではドイツ必勝のように見えたが、第2幕のことは考えていなかった。
 考えれば何が見えたか。

①チャーチルとイギリス人の戦争好き。
②ルーズベルトの日本嫌いとアメリカの太平洋進出熱
③アメリカの底力(人口と資源と工業力)
④ヒットラーの対英和平方針
⑤合計すれば長期戦はアメリカ必勝!

 だと思うが、ドイツの日本取りこみだけは成功した。日本軍人に親独派が大量に発生したのには驚いたが、日本人は今も軽佻浮薄である(オリンピックの応援ぶりをみればわかる)。
 勝つ方に参加する欲だけあって、自分が推進役を果たす気はない。ただし、近衛首相には成算があった。
 ルーズベルト大統領とサシで会談して、急転直下の解決を目指すという考えだったが、先方が応じなかった。国内では千年間通用した近衛家のお家芸が、唯一の成算だったとは。

日下 公人 (くさか きみんど)
1930年生まれ。東京大学経済学部卒。日本長期信用銀行取締役、ソフト化経済センター理事長、東京財団会長を歴任。現在、日本ラッド、三谷産業監査役。著書に『ついに日本繁栄の時代がやって来た』(ワック刊)。

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