【企画連載】聖武天皇は日本史上初のMMTerだった!?

【企画連載】聖武天皇は日本史上初のMMTerだった!?

唯物史観と「逆説」から考える奈良時代

 コロナ・パンデミックに物心ともに苦しんでいる今、今回は過去の歴史を振り返って「危機時の経済対策」を考えてみたいと思います。

 本稿で参考にしたいのは、奈良時代!

 対外戦争(白村江の戦い)→権力闘争&疫病(天平の天然痘大流行)→大規模財政出動(遷都&大仏建立)と進む政治&経済の流れを、「現代の金融会社社長」の立場から考察いたします。
「奈良の大仏を建てたのは誰でしょう???」
「聖武天皇です!」
「違います。大工さんです。」
お馴染みの(?)なぞなぞです。
 続日本紀によれば、大仏建立には、当時の人口の約3人に1人が駆り出されたそうですから、農閑期には大勢の農民が参加させられていたと考えられます。

 さらには、白村江の戦を機に渡来した百済難民も、空前の規模と複雑さを誇る作業工程、そもそもの銅の鉱脈探しから精錬へと深くかかわっていたことでしょう。使用された銅は500㌧にも及ぶとされ、これだけの銅が入手できるのであれば、富本銭や和同開珎(※いずれも7-8世紀ごろの銭貨)なら幾ら鋳造できたことだろうかとも考えてしまいます。
 なんて、歴史好きみたいなふりをして書き始めましたが、実は私は歴史の「勉強」は実に苦手でした。期末試験は常に30点未満。心から興味がなかったのです。たいそうな言い訳がありまして、(マルクスの)唯物史観が正しいと思っていて、天皇家や当時の貴族の権力争いの実態だと細かな年表とか、記憶する値打ちがないものだと考えていたのです。

 唯物史観に魅せられた理由は、ひとつには「理不尽に虐げられた弱者を救済する発想」という期待、もうひとつは「法律や政治が経済活動を規定しているように見えるが実は逆である」という逆説の鋭さです。

 「逆説」というのがとても気に入っていて、井沢元彦先生の「逆説の日本史」は、敬愛する司馬遼太郎先生の著作群と並んで愛読書とさせてもらっています。

 井沢元彦先生は、複雑でわかりづらい奈良時代を「怨霊」というキーワードで斬り直していらっしゃいます。その「怨霊」説を逆説の真逆(?)として、経済や物欲、貨幣や権力欲という、マルクスとは違う唯物主義で斬り返したいというのが本稿の目的でもあります。

前史:中大兄皇子と白村江の敗戦

 歴史に「たられば」はないと言いますが、もしも中大兄皇子(天智天皇)や坂本龍馬が居なくても大筋で歴史は変わっていなかったといえるのか?長い目で見れば歴史上の画期的役割を代役の誰かが果たしてくれていたと言えるか?坂本龍馬には謎も諸説もありますが、どの説を採用しようと、またその成果がどう評価されようと、成し遂げた仕事の難しさ、壮大さ、または汚さを考えると、簡単に代役を見つけるのは困難でしょう。
中大兄皇子(天智天皇)Wikipediaより

中大兄皇子(天智天皇)Wikipediaより

 中大兄もまた、《権謀術数渦巻く天皇家とその周辺》という絵巻物のなかで図抜けた巨魁です。次世代天皇候補の大海人皇子(天武天皇)に自らの娘を4人とも嫁入りさせた。大化の改新の途上で、自らは皇太子のままなかなか即位しなかった。そのいっぽう、近親者であろうと邪魔と思われたものは一掃した(古人大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂、有間皇子、、、)。経験則と戦力分析から高確率で敗戦が予想された白村江の戦へと果敢に挑んだ等、天皇家の血を引き継ぐものとしては稀有な行動力を持つマキャベリストでした。なお、大海人皇子(天武天皇)は中大兄皇子(天智天皇)と両親ともに同じ兄弟というのが通説ですが、父だけは異なるとか、母も異なるなどの異説もあり、そうすると壬申の乱の意義も大変貌します。

 唯物史観のマルクス主義からは、蘇我一族も、中大兄も、大海人も、中央集権志向ということで本質は変わっておらず、権力闘争であって階級闘争ではないと反論するでしょう。これでは本日の主旨は《発掘》できません。

 奈良時代を中核とする7~8世紀の日本の政治権力の姿は、天皇家を中心としつつも、藤原氏と反藤原氏が実質的な権力を争うクーデターの歴史に彩られています(年表後述)。

 たしかに、ドロドロした、愛欲と権力闘争という人間ドラマも歴史です。それにしても、「年表と天皇家の家系図と貴族の権力闘争を覚えましょう」と言わんばかりの高校の日本史の教科書のなかで、8世紀前半に起きた天然痘の流行(当時の人口の約3割が犠牲になったと推測)の扱いが余りに小さ過ぎはしないでしょうか。

 このパンデミックは、白村江の敗戦、大仏建立と並んで7-8世紀ヤマト政権の三大トピックスと看做すべきではないかというのが私見です。

 まず、白村江の戦いは、百済を助けようとする日本が、唐と新羅の連合軍に敗北するものです。これより前の聖徳太子(厩戸皇子)時代に、任那(伽耶)日本府奪回のためにその百済と戦っていますが、ここでも失敗していました。
富本銭、和同開珎、開元通宝。秩父市和銅保勝会ホームページより

富本銭、和同開珎、開元通宝。秩父市和銅保勝会ホームページより

 敗戦をきっかけとして、政治的には国内体制の整備が進むとともに、経済面では、銅貨を鋳造し通用させるべきという政策へ、朝鮮半島からの渡来人の技術力を利用して舵が切られたことに注目です。はい、結果として大仏鋳造を可能にした「銅」の利用です。

 そして、その後に訪れる天然痘の流行が、「銅」の利用と相まって、奈良朝の経済政策を決定的に左右することになるのです。

三世一身の法はサプライサイド経済学と公共経済学がアウフヘーベンされた新制度!?

 ※アウフヘーベン:止揚(矛盾する要素を発展的に統一すること)
 歴史人口学(Historical Demography)という、限られた史料や文献から、知恵と発想と論理展開で、昔の人口を推定していくというエキサイティングな学問があります。中大兄が庚午年籍(こうごねんじゃく)という戸籍を作り始めたとは言え、奈良時代の人口の推定はなかなか困難です。7世紀の初め頃は300万人、8世紀の終わり頃は400万人という感じですが、8世紀前半の天然痘流行(735–737年)で人口の約3分の1が一挙に亡くなったというのはほぼ定説とされていることから、人口が増えて(極端に)減ってまた増えてきたというのが当時の流れとなります。その中で、為政者はどのような経済政策をしてきたでしょうか。

 「幾何級数的に増加する人口と算術級数的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち貧困が発生する。」

 有名なマルサスの人口論です。化学肥料もなく、品種改良にも限界があり当時の農業には規模の経済(生産量の増加によって、コスト優位が発生すること)は働かせづらかったでしょうから、マルサスの人口論は産業革命下の18世紀イギリスよりもむしろ当てはまっていたことでしょう。しかも、奈良朝の賢明な為政者はこのマルサスの罠を当然の摂理として認識していた可能性すらあります。

 教科書では、人口増加に対処するために、律令制度を多少揺るがせるにしても、私有田開拓を誘導しようとしたのが、「百万町歩開墾計画」「三世一身法」であり、その効果が期待していたほどではなかったので後に「墾田永年私財法」が発布された、、、と一貫して覚えさせられます。

 しかし、百万町歩開墾計画+三世一身法はパンデミック前、墾田永年私財法はパンデミック後の政策です。一律に人口増加への対応だと説明するには無理があります。

 これら3つの土地・税金の制度改革は、人口の急増・急減に実は関係なく、ヤマト政権には行財政改革、農民=国民には税負担率を下げつつ所有または使用可能農地の拡大という二大命題の双方解決を目指すWinWinの政策だったと考えると辻褄が合うのです。

 ヤマト政権にとっては、税率を下げてでも税収を上げたい(最適な税率に設定することにより政府は最大の税収を得られることを示すラッファー曲線的発想です)、税収さえ増えれば土地制度(律令体制=班田収授法=口分田)は二の次で構わないと考えるのは合理的です。

 政策効果が低かったとディスられることが多い「三世一身の法」は、20世紀終盤に米国で信任を失ったケインズ経済学(需要側の経済学)と替わって登場したサプライサイド経済学に似ておりますが、狙った効果はそこに留まりません。田んぼを開墾するだけなら所有権はその代のみ、灌漑施設まで工事をするなら3代まで私有できる、という発想は、田んぼと違って灌漑インフラには《外部性》がある(=ただ乗りできる公共財)ので、より強いインセンティブを与えないと、最適な供給量が達成されないという直感を、当時の長屋王政権は持っていたと推察されます。そう考えると、その先見性に驚きです。

 藤原4兄弟(不比等の子)による政権乗っ取りから、彼ら全員が天然痘で死亡する期間(729-737年)をはさんで、長屋王政権と橘諸兄政権がその三法により目指した方向性は、その前後の政権(藤原色の強い政権)に比べて、明らかに「非戦的」で国民≒農民や兵士の疲弊への配慮が感じられます。、現代の言葉で言うと「小さい政府」を目指していた、ということでしょう、。藤原氏が非人道的で、非藤原氏が人道的だということではなく、政権と国民の共存と持続のためには、いまはそちらのほうが賢明だと、長屋王と橘諸兄は考えていたのではないでしょうか。橘諸兄をブレインとして支えた吉備真備と玄昉は、留学先の唐の玄宗も引き留めたほどの俊英のいわゆる「テクノクラート」だった点も申し添えます。

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通貨発行権を手に入れた藤原仲麻呂(恵美押勝)

 以上、概略を踏まえて……やや細かめに年表として奈良時代をさらいましょう。この年表には意図的な特徴があります。

「ハイライト部分」は経済関連。
が反藤原政策
が親藤原政策

 赤字は権力闘争のうえでの事件です。

 そして、こうした色付けだけでなく、それぞれ、長屋王、橘諸兄・奈良麻呂親子、吉備真備という権力闘争に敗北した人物と権力闘争に翻弄されつつも技能と知識で政治を支えた人物の目線で史実をピックアップしております

★藤原不比等・持統天皇の連合政権~長屋王の時代
720年    藤原不比等、死去
721年    長屋王、従二位・右大臣に叙任
722年    百万町歩開墾計画
723年    三世一身法
724年    聖武天皇の即位と同時に長屋王は正二位・左大臣に進む⇒辛巳事件

729年    長屋王の変

<span>★橘諸兄~藤原仲麻呂・光明皇后の蜜月政権の時代 737年    <span> 藤原四兄弟全員が天然痘で死亡
738年    橘諸兄、正三位・右大臣に。吉備真備・玄昉を抜擢して、聖武天皇を補佐
740年    藤原広嗣の乱
740年    平城京から恭仁京へ遷都(橘諸兄の本拠地)
742年    近江国紫香楽宮建設開始
743年    墾田永年私財法、同年、聖武天皇が近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔
743年    恭仁京造営中止
744年    難波京に遷都
745年    平城京に再び遷都。大仏造立開始

749年    聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位、大納言兼紫微令に就任した藤原仲麻呂が権勢を強め、左大臣・橘諸兄を圧倒。

750年    吉備真備、筑前守次いで肥前守に左遷

752年    大仏開眼供養会開催

755年    唐で安禄山の乱が発生

757年    橘奈良麻呂の乱

★道鏡・称徳天皇の蜜月政権~藤原百川・和気清麻呂による天武系政権終焉の時代
758年    孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)。藤原仲麻呂、右大臣恵美押勝として権力をふるう。鋳銭、出挙の権利、私印使用許可を有する
764年    藤原仲麻呂の乱、真備は中衛大将として追討軍を指揮
765年    称徳天皇(孝謙天皇の重祚)、道鏡を太政大臣禅師に任命(同じ時期に廃帝・淳仁が変死)。同年、寺社を除いて一切の墾田私有を禁止へ

770年    称徳天皇崩御、吉備真備は娘(または妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、藤原永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現
光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の官職は慰留

772年    墾田私有が再開

775年    吉備真備死去。享年81。最終官位は前右大臣正二位

 奈良時代を藤原氏と反藤原氏の権力闘争というとらえ方に従うと、果たして藤原四兄弟は長屋王を奸計により葬ったこと以外にいったい何をしたのだろうという疑問に行きつきます。
 ここは、彼らの祖父、藤原不比等の父である中臣鎌足がともに歩んだ中大兄皇子(後の天智天皇)の「負けるべくして戦った」白村江の戦により痛んだ国民へのケアと、国土、国家財政の再建という命題のなかで、反藤原氏の賢臣が周期的に登壇したと見たいです。
聖武天皇 Wikipediaより

聖武天皇 Wikipediaより

 さて、ここまでで、鋭い読者の皆さんは、このように突っ込まれると確信します。聖武天皇のお気に入りだった橘諸兄(と吉備真備、玄昉)がサプライサイダーで行革・民活派だったのはわかる。そういう政権に支えられておきながら、聖武天皇が非常に財政に負担をかける遷都をし、挙句の果てに大仏建立というのは矛盾しないか???

 実は、この疑問こそが、このコロナ・パンデミックの時代にあって、歴史音痴な私をして、この原稿へと向かわせた動機でした。

 仮説:頻繁な遷都も、大仏建立も、橘諸兄失脚前の政策とは言え、橘諸兄としては厭々黙認したものだった。
橘諸兄 Wikipediaより

橘諸兄 Wikipediaより

 聖武天皇は、平城京⇒恭仁京⇒紫香楽京⇒難波京⇒平城京と短期間で遷都します。これまた不敬をお許しいただければ、大変な財政支出です。このなかで恭仁京というのは橘諸兄の出身地でもあり、聖武天皇の橘諸兄への信任の強さを表すとも言われますが、恭仁京は非常に小規模だったと調査されています。「気持ちはありがたいが、謹んで慎ましい規模の遷都にしましょう」と橘諸兄が天皇に反応していた可能性はあります(そんなことまで続日本紀には書かれていませんが)。

 この時期から、政敵である藤原仲麻呂の動きが目立ちはじめます。私は大仏建立という着想は、藤原仲麻呂が彼の叔母でもある光明皇后を説得あるいは篭絡して聖武天皇の背中を押したものと考えます。廬舎那仏を、という着想は聖武天皇のなかに芽生えていたにしても、時代背景からしてあり得ない財政負担を国庫と国民に負担させてまで実現させたのには、特別な深慮遠謀がなかったはずはありません。
 ここで再び登場するキーワードが「銅」です。

 奈良の大仏と貨幣を結びつけるものです。

 天武天皇時代の富本銭や和同開珎は、武蔵の国に銅山が見つかって供給されたのがきっかけと言われています。それまでの時代のおカネの実態はわかっておらず、昔の歴史家は、それまでは物々交換だっただの、米や布という現物通貨が使われていたなどと推測していました。

 ある程度はそうであったかも知れませんが、先月の原稿でご紹介したMMT(現代貨幣理論)の基礎として使われているデイビッド・グレーバー氏やマイケル・ハドソン氏の発見を踏まえれば、宮廷、寺社、土豪など経済単位の有力者が、負債の記録を管理することにより、重くて嵩張る米や布自体の運搬の手間をなるべく省くために信用を供与していたと考えるのが順当です。

 例えば、富本銭を導入した天武天皇の皇后であった後の持統天皇の政策のなかに「双六禁止令」というのがあります。富本銭が登場してまたたくまに庶民に流通しそれゆえに賭博が一挙にブームになって社会問題になってので、、、というのは無理があります。富本銭も和同開珎もヤマト政権下(信頼関係のあるコミュニティー内)ではさほど利用されず、利用されていたとしたら信頼関係のないコミュニティ内外の交易、すなわち国際貿易(対唐、対新羅)と考えるのが相当です。双六が寺社や豪族の邸宅で行われていたとすると、そこいらには米や布のデポジットがあり、実際の掛け金や寺銭は帳簿上で(木簡???)行われ、破産時に米や布による現物決済が行われたというのが現実でしょう。

 とすると、貴金属通貨の登場は、帳簿決済制度を揺るがすものではなかったのではないか。すなわち貴金属(の貨幣)は、農民、都市・宮殿・寺社建設に携わる労働者、兵隊のようなエッセンシャルワーカーにとっては無縁であり、大陸や半島の先進国家との貿易で通用させるのが目的だったのではないかと考えるべきです。これは、紀元前3000年~2000年の古代メソポタミアで、国内では収穫期の小麦を持ち込み担保にした借用証書が通貨の役割を担いつつ、多国間取引では銀が使われていたという併存構造と一致します(第1回「天才バカボンのパパはやっぱり天才なのだ」を参照)。

ただの権力欲の塊ではなかった 政治家・藤原仲麻呂

 中東では銀が取引に使われ、東アジアでは銅が貿易決済のコンセンサスとなりました(その理由は雨宮健「古代ギリシャと古代中国の貨幣経済と経済思想」日本銀行金融研究所/金融研究/2012.4をご参照ください)。そんななかで、藤原仲麻呂が、何故、聖武皇光明皇后夫妻に銅の大量消費を勧めたのか、です。

 藤原仲麻呂が解いたのは非常に緻密な多元方程式だったと推察します。天皇皇后両陛下同様、自分も仏教へ帰依する振る舞いをします。そのうえで、開眼法要は東アジアの先進国に対して、仏教を基軸とする文明国となっただけでなく、鉱山開発後進国であったはずの日本がいつのまにか巨額の外貨準備高を誇る国へと飛躍したことを誇示する外交の場であった可能性があります。

 ここまでは国益かも知れません。しかし、申し上げてきたように、長屋王や橘諸兄がやってきたこととは真逆の総需要政策の極端なものです。少なくとも表向きは政治経済を司るべき天皇としては、聖武天皇のリーダーシップは大仏建立詔の文章に表面上現れている親政とは程遠く、別に強力にこの政策を推進した者がいたと解さないと、行財政改革に邁進しエッセンシャルワーカー(民)たちの支持も得てきた橘諸兄への信任と、遷都から大仏建立へという財政の浪費という、矛盾する2つの極端な政策が共存することが説明できません。

 極めつけは、橘諸兄・奈良麻呂を失脚、滅却させた直後の758年、今度こそ名実ともに強い影響下に置いた淳仁天皇のもと、藤原仲麻呂、右大臣恵美押勝として、鋳銭、出挙の権利を得、私印使用許可を得た点です。

 今も昔も公共工事には政治腐敗や官民癒着が付き物です。明確な腐敗や癒着の記録は、続日本紀にもないですが、あったにしてもなかったにしても、現在の山口県美祢市にある長登銅山と奈良の大仏を結びつけるルートは藤原仲麻呂そのひとであり、その彼が通貨発行権を持てば、濡れ手に粟であることはわかりやす過ぎます。

 これを形式上汚職と呼べるかどうか、はたまた、現代の基準で汚職と決めつけてよいかどうかはて難しいのですが、ここで、権力闘争という面から歴史を振り返ると、藤原仲麻呂が銅をルーティングできるという特殊な立場を得ていることに邪魔な、橘諸兄・奈良麻呂親子を蹴落とし(成功)、孝謙天皇改め称徳天皇=道鏡を蹴落とそうとした(失敗)の動機をここに求めるのは自然ではないでしょうか。

世界通貨「銅」と日本の銅山~ブラタモリ風に~

 現在の太平洋セメントの前身である秩父セメントや小野田セメントなど、宇部三菱セメントなどの社名や工場の場所を見ると、埼玉秩父や山口秋吉台などのジオパークで、石灰岩などの生物岩と花崗岩などの火山岩が隣接して、セメントも採れれば銅など貴金属も採れるという一石二鳥の鉱脈に辿り着きます。
いまなお砕石・採石が続く埼玉・秩父の武甲山を背景に快走...

いまなお砕石・採石が続く埼玉・秩父の武甲山を背景に快走する西武特急レッドアロー号(西武鉄道ホームページ)

 銅、その後の時代の銀や金についてもそうなのですが、実は日本列島はもともと無資源国どころか世界に冠たる貴金属埋蔵量を誇るエリアでした。いや、エリアです。銅山だけでも100箇所以上あったのが現在はほとんど閉山されているのは、日本列島の斜度と曲率の高い地形上の特徴などから、現代の主流である巨大重機による露天掘りに適さないことが主たる要因です。決して埋蔵量を掘りつくしたわけではないのです。

 かつてはその複雑な地形がむしろ鉱山開発のうえで大きなメリットであった時代が数世紀~千年紀続きました。断層は鉱脈の在り処をわかりやすくすると同時に川の流れを呼び込むので運搬を容易にします。重機やダンプカーがない時代、水運は大きなアドバンテッジでした。

 断層の多さは日本列島に地震という不幸ももたらしますが、これは日本列島が西側からせり出す大陸プレートのしたに海洋プレートが潜り込むことの結果です(プレートテクトニクス)。海洋プレートの潜り込みの過程で、大陸や日本列島の土砂や粘土に混じって、海洋プレートによって運ばれてくる海嶺由来の海底火山やその頂上付近に付着したサンゴ礁など由来の石灰岩が次々と楔型上に堆積します(付加体)。付加体のなかには、関東では埼玉秩父、中国地方では山口秋吉台など、石灰岩と火山岩が断層面で接したり、後者が前者に貫入したりして、変成帯を作ることがあります。この変成作用が、銅など金属鉱脈のもとになっています。

 重機もダンプカーもない古代、プレートテクトニクスも中央構造線も見つかっていない時代、変成作用の一部は肉眼で見つけやすく、そこには大量の銅鉱脈などがあるという経験則を渡来人の一部は持っていたと考えられます。その後日本列島で開発される数十にも及ぶ銅山のなかで、この7-8世紀に発見、発掘されたのはスカルン鉱床という、露頭として視認しやすい、限られたものでした。埼玉・秩父(⇒和同開珎)、山口・長登(⇒奈良東大寺大仏)、福島・八茎の各銅山です(秋田・尾去沢はスカルン鉱床ではないが、やはり東大寺大仏や中尊寺で使用された銅を供給していたという伝説あり)。

 日本列島のユニークな成り立ちに、渡来人の専門知識が重なり、そして折しも、白村江で戦った唐・新羅との和平進捗と通商再開、しかも唐という覇権国家が採用していた通貨のスタンダードが銅であったという背景から、奈良時代の銅は、のちの戦国時代(大航海時代)の銀・金同様、日本の存在感を世界史に刻印した「世界通貨」であったことが最重要ポイントと言えるでしょう。

結論:聖武天皇はMMTerだったか?

 以上、見てきた通り、聖武天皇は日本の歴史で最初のMMTer(現代貨幣理論の信奉者)だったか?という問いには明らかにノーと答えます。聖武天皇が大仏建立という政策の意思決定に意思能力を以って関与したという前提が怪しいとともに、「世界通貨=銅」の大量保有国としての日本を対外的にアピールする動機が強かったと考えるからです。

 ヒト・モノ・カネを浪費する大仏建立と頻繁過ぎる遷都を、怨霊というキーワードで一貫して説明するのは、井沢元彦先生の「逆説の日本史」ですが、本稿では怨霊(=スピリチャル)の逆、ゼニカネ(=マテリアル)で説明してきました。

 単純に、藤原氏=財政拡大論者=リベラリスト、反藤原氏=財政緊縮論者=リバタリアン、ではありません。

 コロナ・パンデミックによる疲弊冷めやらぬなか、財政拡大は当然ではないかというのは今の時代。奈良時代の日本は、極々限られた皇族と貴族以外は、みんなエッセンシャルワーカーだったのです。パンデミックで企業倒産、非自発的失業というのは、エッセンシャルワーカー以外が増え過ぎた社会の病理なのです。

 「経済&マネーやぶにらみ」という本連載の趣旨に沿って、長々と経済とマネーの視点から、現在と同様のパンデミックが起きていた奈良朝の経済政策を俯瞰してまいりました。

 不十分な史実の検証作業から、History=Storyを埋めるべく、私が遥かに及ばない司馬遼太郎先生や井沢元彦先生の見事に辻褄があった物語や虚構の綴り方とは異なるアプローチ、経済(学)~非マルクス的唯物主義で、7-8世紀の日本を独断したことを改めてお許しください。経済(学)では照射できない人物の事例で締めくくらせてください。

 吉備真備です。
 吉備真備は、対立するどちらの権力にも重用されてきた(例外は藤原広嗣だけ)トップエリートで、後の歴史で言うと、藤堂高虎や大村益次郎(村田蔵六)タイプの天才ではなかったかと思います。3人に共通するのは権力闘争の世界で鮃(ひらめ)のように上手に泳ぐ人物像とは真逆で、職人、特に軍事システムや構造物のエンジニア、アーキテクトとしての技術を評価してくれる主君がいたら従うという、今で言うジョブ型雇用を地で行く人たちです。

 また、3者が重用されたのは、乱世から平時に移行する時期で、システムを構築する実務能力の高さを買われてという点が見逃せません。ポスト・コロナという現代の「乱」の時代にあって、私たちもそのような視点から各界のリーダーを見るのも面白いかもしれません。

(8月号終わり)
丹羽 広(にわ ひろし) アヴァトレード・ジャパン株式会社・代表取締役社長
三重県生まれ。京都大学経済学部卒。同年、株式会社日本興業銀行へ入社。総合企画部、ロンドン興銀、興銀証券などを経て、2000年モルガンスタンレー証券会社東京支店入社、公社債の引受営業に従事。2002年からはBNPパリバ証券会社東京支店にて株式引受やM&A助言等の業務に携わる。
2005年、BNPパリバ証券時代の取引先であったフェニックス証券の社長に就任。
2013年2月より現職。

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