日本の剣道には不思議な話がいくつもある。
 警察は、全国剣道大会の優勝者はぜひわが県から……と思っているが、ある人が決勝戦で負けたとき、〝また1年間、雑布がけをします〟と語っていた。ホントに雑布がけの意味で、〝他にすることはない〟と断言したので、さらに驚いたことがある。
 雑布がけをして剣道が強くなるのか……と不思議だったが、1年後、その人は挑戦者として勝ち進み優勝したので心から感心した。

 雑布がけにどんな効用があるのかは、凡人には想像もつかない。まさか、筋力をつけるとかではないと想像するくらいだが、剣道の元祖として「剣聖」と言われた塚原卜伝(つかはらぼくでん)には色んなエピソードがある。
 少年講談などで読んだ話だが、
〝渡し船の船中で武芸者が自慢話をする。乗りあわせた卜伝は知らぬ顔で聞いていると、やがて武芸者がからんでくる。
 卜伝は皆の衆の迷惑にならぬよう川の中洲で勝負しようと答える。武芸者は心得たとばかり船が中洲へ着くやいなやヒラリととび移る。と、そのとき卜伝は竿をとって岸をトンとつくと、船はたちまち川に流されて二人は離ればなれになる……〟
 というのが「無手勝流の極意」というお話である。

 近頃の日本外交について聞かれると、この話が思い出される。
 日本は自然に〝無手勝流〟をする国になった。
 それが分かってイライラしているのは韓国。これで勝てるとだんだん分かってきたのが日本で、半信半疑なのは日本のマスコミ。
 敗北を予知しているのは習近平。で、中国は形勢観望しながら、この戦いは日本有利と感じている。これまで世界を見下していたEUやイギリスはそれどころではないし、台湾とロシアも新しい日本観が必要と気がついたが、もともとの世界観が古いので新しい発言ができない。

 こんな状況で世界は日本の発言待ちだが、肝心の日本があまり発言しないので、なかなか新しい時代が始まらない。
 多分、世界には不況がくるが、独裁者にも任期があるから、その人はどうせくるなら早い方がよいと思うかも知れない。不況が早くきて早く終わればよいと思うが、そもそも不景気の正体に関する決定的な経済学はない(どうもそうらしい)。
 ではどうするか。
 現状で困る人がそれぞれ考えればよい、という考えがある。お金をバラまけばよいというのもある。国家が考えればよいというのもあれば、国家が考えるのは必ず失敗するというのもある。
 だいたい経済学は時間を短くとって議論するのが好きだが、短くすれば誤りが少なくなるかわりに面白味がなくなる。

 小泉純一郎元首相は厚生大臣になったとき、厚生省とケンカをした。そのときのことだが、厚生省は一切大臣に書類をあげなかったが、小泉新大臣は平気な顔をして好きな音楽を大臣室で聴いていた。仕事はストップしたが、約一カ月後、結局折れたのは厚生省の方である。
 大臣のハンコをもらわないと困るのはまず人事、それから許認可でその他が色々ある。厚生省も困るが、選挙区からの陳情その他を受けて小泉氏も色々困るだろうと考えたのは視野が狭かった。
 小泉氏には何代か続いた不動の地盤があって、選挙区がらみで厚生省にサジ加減を依頼する必要はまったくなかったらしい。

 そんな大臣はめったにいないと考えるのは官僚の常識だが、常識外れの人はいる。そういう人が大臣になっただけのことなのに、何を驚いているのか……と国民は思う。
 たいていは選挙区からの陳情がたくさんあって、それを聞いてやるのが大臣になった人の第一の仕事なのだが、それが違った。
 これが時代の変化である。

 剣術の達人が剣術だけでは一国一城の主になれなくなったとき、発明されたのが〝無手勝流〟だが、その価値に気がつく人は少ない。
 気がつく国もない。多分あと10年かかる。日本はそれだけ先進国。
 日本の教えには、負けるが勝ちというものもある。だから奥が深い。

日下 公人
1930年生まれ。東京大学経済学部卒。日本長期信用銀行取締役、ソフト化経済センター理事長、東京財団会長を歴任。現在、日本ラッド、三谷産業監査役。著書に『ついに日本繁栄の時代がやって来た』(ワック刊)。

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