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【ロバート・D・エルドリッヂ】戦時中の最大の人道的行為―無名の日本人ボーイスカウト兵士の物語

大戦中も生きていた―ボーイスカウトの「絆」

 今から75年以上前、第2次世界大戦中に日本軍と米軍が戦った島の1つで、日本兵が負傷したアメリカの兵士に出くわした。

 意識を失っていたアメリカ人が気がついた時、彼の上に日本兵がいて、喉を狙った長いライフルの先に銃剣を突きつけているのを見た。彼はパニックになるどころか、冷静に自分の運命を受け入れ再び気を失った。

 彼は無意識のうちに、3本指のボーイスカウト式に敬礼した。その日本兵も若い頃ボーイスカウトでも活動していたので、驚いた。

 このことを思い出した無名の日本人の兵士は、彼を殺さないことにした。その代わり、彼は走り書きしたメモをアメリカ兵のために残し、彼の傷口に包帯を巻いたことと、彼の無事を祈っていることを伝えた。

 アメリカ人が目を覚ましたとき、彼は誰も周りにいないことに気づいた。彼はメモを見つけ、それをポケットにしまった。

 その後まもなく、彼は米軍に発見され、治療を受けるために連行された。回復中、彼はメモを思い出し、医療関係者に自分が持っていた紙を見せてくれるように頼んだ。それを読んで、彼は自分の命が助かった理由をようやく理解した。

 ユタ州ソルトレイク市に送還された兵士は、何が起こったかを父親に話した。感謝した父親は、その30年前の1910年に設立されたボーイスカウトアメリカ(BSA)連盟にその事実を知らせた。

 それから数年後の1952年4月中旬、同市で開催されたBSAの第7地区の年次総会では、BSAの代表が集まったスカウトたちとリーダーたちにこの話を伝えた。彼の発言は、BSAの雑誌、成人指導者向けの公式刊行物である『スカウト』、若者向けの公式刊行物である『ボーイズ・ライフ』に紹介され、地元の新聞にも取り上げられた。

 同年5月末、BSAの副地域幹部であったC.M.フィネル博士が、平和条約締結後の日本のスカウト運動の再編成を支援するために日本に派遣された。フィネル博士は5月29日に到着し、約4カ月滞在。その間、日本の47都道府県のうち約半分の23を視察し、アメリカより約10年後の1922年に結成されたボーイスカウト日本連盟や活動についても100回以上の会合を支部やメンバーたちと持った。

 フィンネル博士は、来日した際、日本兵が見せた「兄弟愛」の話をした。この話はたちまち日本の全国ニュースとなり、その日本人兵士の捜索が行われた。残念ながら、戦死したと考えられている。

 その後、1910年代に世界的なボーイスカウト運動に日本を巻き込むことに成功した元兵士の久留島武彦氏が1954年に日本ボーイスカウト連盟の会長に就任し、無名の2人のボーイスカウト兵士の物語を記念して記念碑を建てるための募金活動を開始した。10円募金運動が始まり、最終的には資金を集めて、2人の交流を描いたレリーフとテキストプレート、敬礼するボーイスカウトの像を制作した。

 この記念碑は、横浜市の「こどもの国公園」内で募金を集めて20万円(当時)で建てられた。

ボーイスカウトの絆が記念碑を実現

 この公園自体は、1965年のこどもの日(5月5日)に、後に1989年から2019年まで天皇陛下に就任された昭仁親王と美智子妃の1959年の結婚の儀を記念して、国民から寄せられた資金を使って開園されたものである。

 興味深いことに、240エーカーの敷地は当時、在日米軍の管理下にあり、米側は土地の返還に消極的だった。1961年3月、久留島氏はロバート・W・バーンズ米第5空軍司令官に協力を求めた。バーンズ中将は、この問題は日米合同委員会施設小委員会で議論されていることを説明した。

 話し合いの中で、2人は自分たちがどちらもスカウトであり、以前カリフォルニアで開かれた同じスカウト・ジャンボリーに実際に参加していたことを知る。久留島氏はこの縁を利用して、バーンズ氏にさらに尽力してくれるよう頼んだ。2人はボーイスカウトの敬礼をして別れを告げた。その年の夏、バーンズはアメリカに帰国。残念ながら、彼は公園の開園を見ることが叶わず、1964年9月に亡くなった。

 開園から1年後の1966年5月5日には、約2,500人の日米のスカウトが集まり、記念碑の除幕式が行われました。今でこそ森に覆われたこの場所に、多くの人が集まったとは考えにくいが、当時はもっと広く感じる場所であったに違いない。

 数段の階段を上ると、まず、記念碑の前に3本指で敬礼する制服姿の少年の像がある。真正面には、1950年代後半に著名な彫刻家の横江嘉純氏が設計し、山内春造氏が鋳造した高さ1.7メートル、幅2.2メートルの美しい浮き彫りの像がある。右側には、日本語のみの文字が書かれたプレートがある(日本語を読めない外国人が興味を持って訪れたりした場合には残念なことだが)。

 本文は、戦場とその後のエピソードを30行以下に簡潔に要約しており、次のように書かれている。

「第2次大戦中、激戦の南洋諸島のある島でのお話。重傷を負った1人の米兵が倒れていました。そこへ剣付きの銃を持った日本兵が通りかかります。気付いた米兵は『あっ、殺される』と思った瞬間、気を失ってしまいました。しばらくして目覚めた米兵。もう日本兵はいません。そばに落ちていた白い紙切れに気付き、何気なくポケットに入れます。そのまま野戦救護所に担ぎ込まれ、一命を取り留めました。その時拾った紙切れに、こんなことが書かれていました。

『君を刺そうとした時、君はぼくに3指の礼をした。ぼくもボーイスカウトだった。ボーイスカウトは兄弟だ。君もぼくも兄弟だ。それに戦闘力を失ったものを殺すことは許されない。傷には包帯をしておいたよ。グッドラック』

 戦後、この米兵は米国のボーイスカウト連盟本部を訪ね、この話を伝えました。1952年、米国のスカウト本部の役員が来日した際、この話を日本側に伝えました。米兵は本名を明かしていません。日本兵は戦死したようです。無名のスカウト戦士の間のできごとです。この無名の日本兵の行動こそ日本の武士道精神、スカウト精神の結晶です」
公園内の記念碑

公園内の記念碑

受け継がれる日本の「人道」

 昨年8月にこの記念館の存在を、ジャーナリストでノンフィクション作家の門田隆将氏と陸上自衛隊の幹部やそのサポーターたちと夕食した際、知って以来、一度は行ってみたいと思っていた。兵庫県の自宅から東京へは頻繁に出かけるが、不便な場所だと聞いていたので、公園への行き来や見学に何時間もかかるのではないかと心配していた。結局、時間の制約で断念することが何度かあった。最近になって、関東への出張の時、ようやく時間に余裕が出てきたと感じ、ある日曜日の早朝に出発した。

 実際、立地は思ったほど不便ではなく、JR横浜線の長津田駅で乗り換え、「こどもの国駅」から少し歩くとアクセスできる。公園の入り口に到着して案内所で道を尋ねると、記念碑への道順を教えてくれた。離れた場所にあるので、公園の中で見つけるのは少し難しい。しかし、それを見る価値は大いにあった。人類に対して希望を持たせ、そして日米関係の個人的な側面への信頼を回復するのに役立ったからだ。

 その日、記念碑への小道を上るまで、他に来訪者がいなかったようだった。理由は、とても暑かったからのか、その存在をあまり知らなかったのか、わからない。しかし、私が登った後、若い家族連れが記念碑の前にいるアメリカ人に興味津々で、レリーフを見たり、碑文を読んだり、物語や教訓を考えたりして時間を過ごしていた。

 島の戦場でアメリカ人の兄弟分を愛情を込めて生き延びさせた、あの偉大で人道的な日本のスカウトについて、彼らの子どもたちに話してくれることを願っている。
ロバート・D・エルドリッヂ
1968年、米国ニュージャージー州生まれ。フランス留学後、米リンチバーグ大学卒業。その後、神戸大学大学院で日米関係史を研究。大阪大学大学院准教授(公共政策)を経て、在沖アメリカ海兵隊政治顧問としてトモダチ作戦の立案に携わる。2015年から国内外の数多くの研究機関、財団、およびNGO・NPOに兼任で所属しながら、講演会、テレビ、ラジオで活躍中。防災、地方創生や国際交流のコンサルタントとして活躍している。主な著書・受賞歴に『沖縄問題の起源』(名古屋大学出版会、2003年)(サントリー学芸賞、アジア・太平洋賞受賞)、『尖閣問題の起源』(同会、2015年)(大平正芳記念賞、国家基本問題研究所日本研究賞奨励賞受賞)、『オキナワ論』(新潮新書、2016年)、『人口減少と自衛隊』(育鵬社、2019年)、『教育不況からの脱出』(晃洋書房、2020年)など多数。

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