【北朝鮮拉致】韓国から拉致された「戦争拉北者」列伝

【北朝鮮拉致】韓国から拉致された「戦争拉北者」列伝

朝鮮戦争70周年に考える「戦争拉北」

 くしくも今年は朝鮮戦争70周年にあたる。1950年6月25日、北朝鮮軍が突如、38度線を突破し韓国に侵攻し、わずか3日間で首都ソウルを陥落せしめた。その後、釜山に落ちのびた大韓民国大統領・李承晩の要請を受けたアメリカを中心とする国連軍と北朝鮮に肩入れした中共軍が朝鮮半島を舞台に激突、軍事境界線の固定化をもって1953年に休戦に至るわけである。
 
 このソウル陥落の際に、北朝鮮軍によって韓国から知識人層を中心に多くの人材が拉致され北に送られている。これを「戦争拉北」、あるいは単に「拉北」と言った。当初は、収監中の政治犯がメインターゲットだったが、やがて文化人や技術者へと拉北リストが拡大された。さらに戦局の変化に伴い、労働力と兵力の補給として未成年を含む若い男女が、ほぼ無差別、大量に送還されている。その数は、一説によると10万人に及ぶという。まさに、拉致は〝朝鮮のお家芸〟とも言えるのである。

 戦争拉北者の中には、併合時代を通して日本ともゆかりの深い人物も少なくない。その横顔を含めて幾人か紹介してみたい。

朝鮮近代文学の父の悲劇

 まず、思い浮かぶのは、朝鮮近代文学の父と呼ばれた李光洙(イ・グァンス)である。李は3.1独立運動に先立つ「2.8独立宣言」の起草に加わったのち、上海臨時政府設立に参加するなど、当初は熱心な独立運動家だった。

 その後、対日協調路線に転向。祖国喪失の原因は儒教道徳や因習にとらわれていた朝鮮民族自身の内面にあるとして、これらを強く批判する啓蒙的な小説を多く残し、「朝鮮の魯迅(ろじん)」とも評された。創氏改名の際には率先して「香山光郎」と改名、同胞にも広く改名を勧めている。また、愛弟子でもある金一葉(キム・イルヨプ)らの女性解放運動の理解者でもあった。

 以上のような併合時代の親日的姿勢から、李承晩政権下、反民族行為処罰法によって検挙、投獄を経験する。法廷では堂々とした態度で「私の親日行為はあくまで祖国再建のためであった」と主張したという。
 不起訴となるが半年を待たずして朝鮮戦争が勃発、拉北されてしまうのである。当時、持病の結核が悪化、自宅で床に臥せっていたが、それをかまわず銃器をもった北の兵士が引っ立てていったと言われる。

 北にわたってからは、栄養事情もあってか、強制労働中に喀血(かっけつ)、そのまま帰らぬ人となった。後年、米国在住だった長男が北朝鮮を訪問して父の墓を確認したところ、1950年没とあったという。
 現在の韓国で、李光洙は教科書で読む偉大な国民作家と、「民族の裏切り者=親日派」という、相反するふたつの評価で宙ぶらりんとなっている。

友軍の空爆で死んだ新聞王

 李光洙にはもうひとつ、朝鮮日報の副社長という肩書があったことが知られている。朝鮮日報といえば、現在も続く韓国保守系新聞の雄。李が副社長であった時期、オーナー社長として辣腕(らつわん)を振るっていたのが、方應謨(パン・ウンモ)である。

 方は東亜日報の支局長時代、平安北道の朔州の鉱業所を買い取り、ここで大金脈を掘り当て一夜にして金鉱成金となった。1933年、その金の一部で、傾きかけていた朝鮮日報の経営権を取得、社長に収まるのである。結果、方應謨=李光洙ライン時代に同紙は黄金期を迎えている。

 方社長は、古巣でライバル紙だった東亜日報が独立運動シンパ(ベルリン五輪マラソン優勝の孫基禎の日の丸塗り潰し事件で知られる)だったこともあり、差別化を図るためか、どちらかといえば、親日的な紙面で購読者数を争った。また方は、朝鮮の新聞社でいち早く航空報道写真の自社用飛行機を導入するなど先進的な経営者であったようだ。

 そんな彼も北朝鮮軍によって拉致されるのだが、その際、彼を乗せた護送用トラックがアメリカ軍の空爆を受け、どうやら死亡してしまったらしい。「らしい」と書いたのは、直撃弾を受け、遺体どころか肉片も骨の欠片(かけら)も現場には残らなかったからである。

墓石なき独立の志士

 崔麟(チェ・リン)は、天道教(カトリック)代表として3.1独立運動に参加、運動の主導者の1人として活躍した人物だ。その後、投獄を経て親日派に転じている。

 朝鮮総督府中枢院参議に選ばれてパリに駐在中、外交官の夫(金時英)の研修旅行に同伴し、同地を訪れていた画家で女性解放運動家の羅蕙錫(ナ・ヘソク)との人目もはばからぬ不倫は、在仏朝鮮人界を巻き込む大スキャンダルとなった。のちに総督府の事実上の機関紙・毎日申報の社長に就任、内鮮一体を説いている。

 戦後は、反民族行為処罰法によって逮捕されるが、李光洙とは対照的に、終始、自分の親日行為を懺悔する陳述をしており、病身であったこともあって、すぐに釈放されている。

 拉北後は対南宣撫のための統一宣伝機関への入所を求められたが、拒み続けたという。その後の彼の消息についてはまったく不明だが、北朝鮮の記録によると、1958年12月に81歳で病没したことになっている。北朝鮮での崔の評価はなぜか低く、李光洙は墓を造成してもらえたが、彼は埋葬地さえ明らかにされていない。

朝鮮のヴェルレーヌも農場行き

 李光洙が朝鮮近代文学の父であるならば、金億(キム・オグ)はさしずめ朝鮮近代詩の開拓者であろう。
 慶應義塾大学在学中、朝鮮人留学生による文芸同人誌「学之光」に詩『別れ』を発表し注目される。創作の傍ら、ポール・ヴェルレーヌをはじめフランス象徴詩の翻訳紹介に努めた。

 また彼は朝鮮でのエスペラント(母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする人工言語)普及にも尽力したエスペランティストでもある。彼の主催した文芸同人誌「廃墟」創刊号の表紙にはエスペラントが躍っていた。山本五十六の戦死に際して哀悼詩『ああ、山本元帥』を発表。これが仇となって、現在、親日派人名リストに名を連ねている。

 1950年9月10日に拉北され、56年には拉北者知識人で組織する在北平和統一促進協議会のメンバーに選ばれるが、その後の消息は不明で、一説によれば、58年、平安北道鉄山郡の共同農場に下放されたという。

思想転向を繰り返した男の行方

 近年、韓国で伝記映画がつくられ、日本でもその名が一般にも知られるようになった、元アナーキストの朴烈(パク・ヨル)もまた戦争拉北者の1人である。

 日本で無政府主義運動を展開。関東大震災時、愛人の金子文子(かねこふみこ)とともに治安維持法で逮捕され、大逆事件を計画したという〝自供〟により死刑判決を受ける(のちに無期懲役に減刑)。ただし、大逆事件計画自体は裏付けが乏しく、朴のハッタリであった可能性も拭(ぬぐ)いきれない。

 もともと朴は、自身の発行していた機関誌に『太い鮮人』(不逞鮮人のもじり)と名付けたり、どこか人を食ったところがあった。予審中、大胆にも文子と抱擁して見せ、その様子を伝える写真が出回るといった、スキャンダラスな話題で衆目を浴びるなど、エロ・グロ・ナンセンスの時代を象徴する一種のトリックスター的存在であったようだ。

 獄中で、反共主義者に転向。日本の敗戦を機に釈放され、在日本大韓民国民団(民団)の初代団長となるが、2期目を狙った1949年の団長選挙では落選、失意を抱えたまま韓国に渡るが、彼を待っていたのは朝鮮戦争の戦火だった。

 北朝鮮に連行後は、思想改造され、共産主義者に再転向。在北平和統一促進協議会の幹部を務めるが、1974年にスパイ容疑で粛清されている。

飛ぶことを許されなかった女流飛行士

 拉北者には女性もいた。李貞喜(イ・ジョンヒ)は、映画『青燕』のモデルになった朴敬元(パク・ギョンウォン)と並ぶ、朝鮮人女性パイロットのパイオニア的存在である。貞喜は敬元より9歳年少、立川飛行学校でも2人は先輩後輩の間柄になる。

 1933年、敬元は日満親善の記念飛行の途中、不慮の事故死を遂げるが、貞喜は翌34年、敬愛する彼女の追悼飛行の大任を果たし大空へのデビューを飾っている。

 戦後、貞喜は大韓民国成立とともにパイロットとしてのキャリアを買われ、1949年に発足したばかりの韓国空軍に大尉として迎えられる。「空軍女子航空隊」と称する女子パイロットの育成部隊がつくられ、貞喜はそこの教官として後進の指導を行うことになった。

 しかし、ソウル陥落に際して取り残された李貞喜大尉は、捕らえられ北に送還されてしまうのである。彼女の実践パイロットおよび教官としてのスキルが黎明期の朝鮮人民軍空軍の発展に寄与したという記録は残っていない。おそらくは処刑されたものと思われる。

悲劇は拉北者の家族にも

 崔寅奎(チェ・インギュ)は映画監督。
 妻で女優の金信哉(キム・シンジェ)との公私にわたるタッグで、『授業料』(1940)、『家なき天使』(1941)というアジア映画史上に残る名作を撮っている。
 朝満国境警備隊の活躍を描いた今井正の国策映画『望楼の決死隊』(1943)での崔のクレジットは「監督補佐」であるが、朝鮮人俳優側の演出を含め、実質的な共同監督といってよかろう。

 戦後、反民族委からの摘発を恐れてか、日本の国策映画への協力の過去を懺悔し、『自由万歳』(1946)などの光復映画(祖国解放を賛美するナショナリズム映画)に活路を見出すが、それもつかの間、北朝鮮軍南進の1年後にあたる1951年、北朝鮮兵士によって、妻の金信哉の目の前で連行されてしまうのである。

 北の地にわたった崔寅奎が映画制作にかかわっていたかは例によって定かではない。70年ごろ、収容所で寂しく息を引き取ったという風の便りがあるばかりである。

 先も触れたように、拉北者の家族に対する当時の世間の風は冷たく、夫を失った金信哉も否応なくそれを身に浴びた。さらに言えば、日帝の国策映画に主演した親日派女優のレッテルはなかなか剥がれるものではなく、一時は身を隠すように釜山で喫茶店業を営んでいたが、ほどなく女優に復帰、貴重な女性バイプレーヤーとして200本近くの映画に出演している。1998年、娘夫婦のいる米バージニア州で79歳の天寿を全うした。

金正日に愛された女優

 以上、思いつく範囲で戦争拉北被害者の著名人を挙げてみた。

 実をいえば、北朝鮮による韓国人拉致は朝鮮戦争時で終わったわけではない。日本人拉致が本格化した70年代に入り、韓国人拉致も頻発している。それも、夕暮れの海岸を歩いていてさらわれるといったケースが多く、これも日本人拉致と酷似している。これらがすべて金正日の指令で行われたのは言うまでもない。

 変わったところでは、1978年、映画監督の申相玉(シン・サンオク)と夫人である女優の崔銀姫(チェ・ウニ)が滞在中の香港で北の工作員によって拉致されたケースである。

 申監督は、メロドラマからアクションまでジャンルを超えた娯楽映画の巨匠で、プロデューサーとしても知られた人物だった。
 一方の崔銀姫はややアクの強い雰囲気の美人女優で、監督もこなす才女。便宜上、「夫妻」と呼ぶが、正確には拉致当時、2人は離婚していて、拉致後の1983年、北朝鮮で「再婚」している。ちなみに、朝鮮戦争時、崔は当時の夫であった撮影監督の金学成(キム・ハクソン)ともども北朝鮮兵に拉致されかかった経験があるからよほど北朝鮮に「愛されて」いたようである。

 香港での拉致では、まず1月に銀姫が拉致され、次いで、7月、彼女の失踪の調査にきていた申監督がホテルから連れ去られている。申は当初から「妻」の失踪劇の背後に北朝鮮の影を感じていたという。

 先に拉致された崔銀姫は招待所で金正日の直々の出迎えを受けている。このとき正日は銀姫にあなたの長年のファンだったといい、「ボクって(体型が)太くて短くて、ウンチのようでしょ」とおどけて見せたという。社会主義国の独裁者(金日成存命の当時はまだジュニアだったが)とは思えぬ、自虐的なギャグはむしろ不気味でもあるが、そうまでして韓国映画界の重鎮二人を誘拐してきたのは、一にも二にも、北朝鮮映画のクオリティを上げ、いずれは国際映画祭に出品できるほどの作品をつくりたいという、映画オタクでもある金正日の願いからだった。
 北朝鮮当局は、2人の北入りを自発的亡命と発表した。

 夫妻は北朝鮮時代に17本の映画を制作、そのうちの『塩』で、崔銀姫は1985年度モスクワ映画祭主演女優賞に輝き、金正日の期待にみごと応えている。日本では、東宝の特撮スタッフを招聘(しょうへい)し、申監督がメガホンを撮った怪獣映画『プルガサリ』がなんといっても有名である。

 夫妻は1986年3月、滞在先のウィーンで米国大使館に駆け込み、亡命に成功。1987年に申相玉は北朝鮮での体験をもとにした『闇からの谺(こだま)』を上梓している。申相玉、崔銀姫とも、すでに故人である。

朝鮮人の拉致文化

 先に筆者は、拉致は朝鮮のお家芸と書いた。あえて「北朝鮮」と書かなかったのは、韓国も例外ではないからである。

 韓国の起こした拉致事件といえば、真っ先に浮かぶのは、1973年の金大中事件であろう。当時、民主化活動家でのちに大統領になる金大中が、滞在先の東京九段のホテルから拉致され、海上で殺害されそうになった事件である。これは、朴正煕大統領(当時)の直轄の情報機関KCIA(韓国中央情報局)が画策し、駐日韓国大使館による実行であったことが現在、明らかになっている。いわゆる在日の反社組織も本国の指令によりこれに加担していていた。他国に主権を侵害されるという由々しき事件であると同時に、日本がスパイ天国であることを改めて認識させるショッキングな事件だった。

 敗戦直後の第三国人組織の横暴について語られることは多いが、その第三国人、つまり朝鮮人の民戦(現・民団)と朝連(現・総連)が、在日社会の主導権を巡って血で血を洗う抗争を繰り広げていたことはなぜか歴史の闇に置き去りにされているようである。この抗争の中でもたびたび相手幹部の拉致が行われていた。在日ヤクザもまた対抗勢力の幹部の拉致を得意としてきた。

 併合時代の新聞を見ると、婦女子の誘拐事件のあまりの多さに驚く。おそらく、「拉致」は朝鮮の歴史の中で民族的文化として定着していたのかもしれない(現在はその限りではないと思いたいが……)。
 
 中央アジアでは、アラ・カチューと呼ばれる一種の誘拐婚、拉致婚の形態が現在も存在するという。つまり、女性を拉致して自分の妻にするのである。戦前、戦後、内地の女性が朝鮮人の男性と結婚する中に、この拉致婚まがいのケースが散見する。ひとつ例を挙げるとすれば、著名な在日ヤクザ・町井久之(鄭建永)の夫人は日本人で、拉致監禁されて妻となることを承諾したという。当時、彼女には別の婚約者がいた。

 そのような形で朝鮮人男性と結ばれ、親族と義絶覚悟で戦前あるいは戦後、夫の母国・朝鮮にわたって、さまざまな辛苦を舐めた日本人妻の話は上坂冬子著『慶州ナザレ園~忘れられた日本人妻たち』(中公文庫)等に詳しい。ご興味のある方はご一読をお勧めする。
但馬 オサム(たじま おさむ)
1962年、東京生まれ。文筆人・出版プロデューサー・国策映画研究会会長。十代のころより、自動販売機用成人雑誌界隈に出入りし、雑文を生業にするようになる。得意分野は、映画、犯罪、フェティシズム、猫と多岐にわたる。著書に『ゴジラと御真影』(オークラ出版)、『韓国呪術と反日』(青林堂)など多数。

関連する記事

関連するキーワード

投稿者

この記事へのコメント

コメントはまだありません

コメントを書く