トランプへのメッセージにこめた金正恩の思い
「米合衆国大統領ドナルド・J・トランプ閣下、私はあなたと夫人がコロナウイルス検査で陽性と確認されたという意外な知らせに接した」
「1日も早く全快することを心から願う。あなたは必ず打ち勝つだろう」
他の首脳の儀礼的な文面とは一味違うメッセージには、金正恩個人のトランプへの強い思いが滲んでいる。
去年2月のベトナム・ハノイでの首脳会談が決裂して以降、米朝関係は少なくとも表向きは膠着したままであるように見える。ところが、実はこの夏以降米朝関係は水面下で大きく深化し、4回目の首脳会談に向け直接的なやり取りが3カ月以上にわたって続けられていた。
水面下の交渉の一端を初めて国際社会に知らしめたのが、金正恩の妹・金与正による、7月10日の「公開書簡」だ。
朝鮮労働党の機関紙労働新聞に掲載された談話は、あらゆる意味で異例なものだった。
まるで随筆のような冗長な談話の中で金与正は「私個人の考えではあるが」としながら、2つのことを繰り返し強調した。
「朝米首脳会談は今年にはあり得ないと思う」
「完全な非核化などできるはずがない」
世界の北朝鮮ウォッチャーは、この談話に度肝を抜かれた。最高指導者の妹とはいえ、公式に確認されている肩書きは「朝鮮労働党の第一副部長」「政治局員候補」に過ぎない金与正が、金正恩を差し置いてアメリカに警告文とも取れる談話を発表したからだ。
そしてこの談話は、
・今年7月段階で米朝首脳会談を模索する動きが米朝双方にあり、
・アメリカが引き続き「完全な非核化」を要求していて
・北朝鮮がそれに抗(あらが)っている
という米朝交渉の現状を世界に示すこととなった。
トランプ政権からの返答
「アメリカは北朝鮮に対し人道的な援助を行いたいと考えている」
「金正恩委員長と『完全な非核化を前提に』、真剣な対話をいずれ行いたい」
このインタビューは、即座に国務省の公式ホームページに掲載されたことから見ても、米政府の現段階での米朝関係に関する公式見解と言っていい。
そして、この談話はよく読めば、7月10日の金与正談話への返答になっていることがわかる。
要するに、金与正の、
「アメリカが完全な非核化にこだわっている間は米朝首脳会談はやらない」という牽制球に対して、ポンペオが「人道援助するから、非核化前提に会談しようよ」と再度呼びかけたのだ。
そしてポンペオ談話と同じ日、トランプ大統領本人が奇妙なツイートをしている。
「金正恩は健在だ」
「彼を見くびってはいけない」
-Kim Jong Un is in good health.
-Never underestimate him!
「彼が復帰した事、元気な姿を見られたことは、個人的にうれしい」
-I, for one, am glad to see he is back, and well!
しかし、その4カ月後、再度トランプが金正恩の健在を強調する上記のツイートをしなければならなかったことは、国際社会に根強く横たわる「金正恩健康不安説」を逆に裏付ける結果となった。
そして「見くびるな」というコメントにトランプは、米朝が水面下で金正恩側と交渉を繰り返していることを色濃くにじませたのだ。
こうしたことを踏まえてこそ、金正恩がトランプに対して、
「(コロナ罹患という)意外な知らせに接した」
「1日も早く全快することを心から願う」
「あなたは必ず打ち勝つだろう」
というメッセージの1つひとつの深い意味とニュアンスが見えてくる。
要するに、米朝はこの4カ月以上にわたって、水面下で様々な交渉と駆け引きを繰り返してきたのだ。
そして、
①7月10日 金与正談話
②9月10日 ポンペオ談話
③9月10日 トランプツイート
④10月3日 金正恩の激励メッセージ
という首脳レベルの公式な発信によって、水面下の交渉を時に牽制し、時に推進してきたのである。
さて、ここで注目されるのが金与正の立ち位置だ。実は7月27日以降、10月1日まで、金与正の動静は2カ月以上、一切伝えられていなかった。この間に金与正は、米朝交渉の最前線に立っていたのだ。
次回のコラムでは、北朝鮮外交の最大のキーパーソンに駆け登った弱冠33歳のライジング・スターに注目する。
1966年、東京都生まれ。フリージャーナリスト。
1990年、慶應義塾大学経済学部卒後、TBS入社。以来25年間報道局に所属する。報道カメラマン、臨時プノンペン支局、ロンドン支局、社会部を経て2000年から政治部所属。2013年からワシントン支局長を務める。2016年5月、TBSを退職。
著書に『総理』『暗闘』(ともに幻冬舎)がある。