映画『バービー』の世界観

「バービー」と言えばマテル社の販売する女児向けの人形であり、本作はその初の映画化作品。子供に人気を得たコンテンツが時を経て大人になった世代人に向けてリメイクされるのは洋の東西を問わないようで、言うならば今回の映画は『シン・バービー』といったところかもしれません。
 しかし、そんな本作はフェミ映画ではないかとの評価がされています。
 一体どうしたことか、まずは簡単に内容をご紹介しましょう。クライマックスまでネタバレしてしまいますが、それで面白さが減ずることはないかと思いますので、ご了承ください。

 物語は人形たちの暮らす「バービーランド」から始まります。
 ピンク色に彩られた、子供の夢そのままのこの世界には様々なバービー、そしてボーイフレンドであるケンが暮らしています(関連商品として発売されたバービーの姉妹などもいますが、女性のほとんどがバービーであり、男性のほとんどがケンです)。
 当然、バービーたちは華やかなファッションに身を包んでいるのですが、同時にこの世界では大統領も物理学者も宇宙飛行士もみなバービー、つまり女性が務めているのです。
 毎日楽しく踊り暮らしているバービーたちですが、ある日、主人公のバービーは(以降、単に「バービー」と表記する時はこの主人公を指します)「ペタ足」になる(バービー人形はハイヒールを履いているため、靴を脱がせるとつま先立ちのようなポーズになるものなのですが、それが普通にかかとを地に着けるようになった)など、不調に見舞われます。
 バービーは「変てこバービー」というバービー世界の知恵者に相談に行き、自分の持ち主の感情が自分に干渉を与えていると知ります。解決するには人間界へと行くしかない。しかしそれにはサンダルを履かねばならない。変てこバービーはハイヒールのままでいたいと望むバービーに半ば強引にサンダルを与え、彼女を人間界へ。
 しかし思春期の真っ盛りであろう、彼女の持ち主の少女・サーシャは、バービーに毒づくのです。「5歳になって以来、あなたで遊んではいない、あなたは女性にある種のスタイルを押しつけた資本主義の手先であり、ファシストに他ならない」。
 少女たちを勇気づけてきたと信じていたバービーはショックを受けます。
 一方、バービーに同行してきたケンは人間界が男性中心であることに感銘を受け、一足先にバービーランドへと戻り、そこを男性中心社会、「ケンダム」に。大統領バービーも物理学者バービーもケンたちにかしずき、尽くすことが楽しいと言い出します。
 バービーたちは一計を案じます。男は女に頼られることに弱い。だから、女連れのケンたちの前で「困っている」演技をしてみせるのです。スポーツのやり方がわからない、映画の内容を知らない、PCの操作がわからないと言うなど。
 ケンたちは他愛なく引っかかり、バービーたちを助ける。その間に他のバービーが彼が連れていたバービーを引き離し、フェミニズムを吹き込む。バービーたちはあっという間に目覚め、主人公であるバービーに賛同するように。
 バービーたちは一人になったケンたちに色仕掛けで近づき、しかしムードが盛り上がり、ここぞという時に、一斉にケンたちをふり、他のケンの下に走ります。バービーを他のケンに奪われたケンたちは、互いに争い合うのです。
 しかしその日は「憲法改正」の投票日。「バービーランド」を「ケンダム」にするかを住民たちに問う日だったのです。結果、女だけが投票したことで、めでたく「バービーランド」の復活となるのでした。

 ――以上、いかにもポップでお洒落な意匠の根底に、強い思想性が流れているのは明らかでしょう。
 まず映画の冒頭、幼い女の子たちが赤ん坊のお人形でままごと遊びをする様が描かれます。「従来、少女たちには赤ん坊の人形しか与えられていなかったところに、バービーが現れた」とのナレーションと共に、その場にバービーが降臨し、少女たちが赤ん坊人形を放り出すシーンが描かれます。

 要するに「遊び」とは大人になるためのシミュレーションであり、少女たちには母親になるための学習が強いられていた。そこにナイスバディの、「なりたい自分」を体現するバービーが現れ、少女たちを解放した、というわけです。
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映画『バービー』の公式X(旧ツイッター)

バービーランドには欺瞞(ぎまん)

 しかし実のところバービー人形の元となったのは、大人向け漫画のキャラクターである高級コールガール、ビルト・リリでした。これは丁度、『セーラームーン』が当時のオタク男性がよく描いていた、「肌も露わなスタイルで怪物と戦うスーパーヒロイン」を源流にしていることと、そっくりです。

 また、果たしてバービーの出現で、少女たちは赤ちゃんの人形を放り出したのでしょうか。バービーには4歳の妹、チェルシーがいますし、リカちゃんにも赤ん坊の妹がいます。『プリキュア』シリーズも、毎回ではなくとも「妖精の赤ちゃん」のような存在が登場し、悪者からその赤ちゃんを守ることがプリキュアの使命になっていることも多いのです。
 つまり(例えばバービーが赤ちゃん人形市場のパイを奪った、といったことはあったとしても)そうした事実があったとは考えにくい。

 このプロローグの後、ファンタジックなバービーランドでの楽しい日常が描かれ、言うならば「バービーは少女たちを責務から解放し、楽しみを与え、力づけた」とでもいったメッセージが描かれるわけです。
 またその一方、バービーは人間界ではサーシャに「ファシスト」と毒づかれ、しかしその母親には歓待を受ける。これはわかりにくい描写かもしれませんが、人間界に旅立つバービーがサンダルを穿(は)くことを考えれば、理解が可能になります。彼女はきらびやかなピンク色の世界で少女たちの夢を叶えた。しかしその一方でハイヒールで少女たちを縛りもした。

 ここでハイヒールを女性差別的として運動を展開した、石川優実氏のことを思い出す方がいるかもしれません。
 サーシャの母親にとってバービーは女性の解放の象徴であったが、サーシャにとってはもはや、女性への抑圧の象徴に過ぎない、というわけです。
 サーシャがバービーを否定したのは、(劇中ではあまり具体的な話は出なかったように記憶しているのですが、想像するに)フェミニズムそのものが、ハイヒールに象徴されるバービーの「女性性」を否定するターンに入ったからでした。
 先に述べたように、バービーのモデルはコールガール。胸の膨らみが造形されていること自体が当時は(教育に悪いと非難もされたのですが、同時に)女性の解放だと称揚されていた。
 ところが今となっては胸の膨らみそのものが疎(うと)ましくなった、ということなのです。

 しかし先に『セーラームーン』や『プリキュア』と対置させたことで、明らかになったのではないでしょうか。赤ちゃんの人形もハイヒールも、少女たちが自らの快感原則に則って選び取ったものなのだと。それは丁度、セーラームーンたちが超ミニスカートから長い脚を露出させて戦う、セクシーな存在であることと同様です。
 その一方、バービーランドでは大統領や物理学者もバービーである(すなわち、女性である)とされるものの、少女たちがバービーで大統領ごっこ、物理学者ごっこをすることが、果たしてポピュラーなことなのかどうかは極めて疑問、というしかありません。実のところマテル社も「大統領バービー」を販売しているのですが、売れているのでしょうか。ポリコレ先行の宣伝目的という側面が強いのではないでしょうか。事実、バービーランドの大統領の業務形態がどのようなものか、物理学者がいかなる業績を上げたのかについては、(もちろん時間の問題もありましょうが)さっぱり描かれません。
 つまり、最初からバービーランドには欺瞞(ぎまん)があったのです。

 女性が解放されて以降(日本で言えば雇用機会均等法以降でしょうか)、男女平等が達成されたはずであった。しかし女性が政治や科学といった分野でめざましい活躍をすることはなく、結婚願望やハイヒールやミニスカートに代表される、性的な魅力を手放そうとはしなかった。
 そこで、ピンクの(つまり女性的魅力に満ちた)バービーランドをつくり上げた上で名前だけの大統領や宇宙パイロットのバービーを登場させたのです。

 本当に細かい話ですが、バービーランドから人間界へと行く時、バービーたちは車を駆り、船に乗りと長い旅路を経ます。が、ここは(人形たちの世界でのできごとであるせいもありますが)背景は書き割りで表現され、「乗り物を操ること」は戯画化して描かれる。またケンたちは妙に「馬」にこだわりを持ち、これは男性性を象徴しているようなのですが、クライマックスのケン同士の争いにおいても、彼らは本物ではなくオモチャの馬にまたがってごっこ遊びのような戦いをする(男性性を戯画化して貶める演出は、男性ばかりのマテル社経営陣においても徹底されます)。

 すなわち、馬、機械を操るなどの男性的能力を、本作は軽んじる方向で演出している。それは丁度、名ばかりの大統領バービー、物理学者バービーと同様です。
 男性性の価値を無化した上で、バービーは男性に勝つために、こともあろうに性的魅力で彼らの心を弄(もてあそ)び、大統領に返り咲く。性的魅力とは、ハイヒールが象徴するように男性が女性を抑圧するために押しつけたものだったはずが、ピンクのバービーランドが象徴するように、彼女らはそれを楽しんでいたわけです。
 こうした「男をふる」というシークエンスは近年、あらゆる女性向けのコンテンツに広範に見られるようになりました。ある種「こじらせた」女性の好む、「自分を求める男を袖にする快感」を満たすものであり、女性のそうした欲求は「負の性欲」という名で呼ばれたりもするのですが――驚くべきはここで勝利して、主導権を奪い返したバービーは嘆くケンに「あなたはこれからあなた自身が何者かを探るべきだ」と説くのです。
 ここまで男性性を全て(お気楽に、雑に)否定しておいてそれは、全財産を奪い取っておいて相手に「真面目に働いて稼げ」と説くようなものでしょう。
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ハイヒールは女性性の象徴?(画像はイメージ)

むしろアンチフェミ映画だ

 ざっと、まとめてみることにしましょう。
 まず、バービーはコールガール人形からつくられたものであった。「セクシー」さでもって女性を解放した存在とされたが、同時にそれはセーラームーン同様、「先行する男性文化」があった。さらに言うならばこれは、「女性の性的魅力は、男性に求愛されることで初めて価値を持つものだ」という原則に則ったものでもあった。

 しかしそんな自分たちの選択を、彼女らはある時期から「ハイヒール」に代表される女性を縛る抑圧だと不平を言うようになった。
 大統領や物理学者を持ち出すことで、「ハイヒール」を否定しようとしたが、相変わらず彼女らは世界を「ピンク」で彩り続けた。女性性を捨てようとは全く、思ってもいなかった。
 それは、男性をやっつけて大統領に返り咲くのだと言ってみせたものの、それが「負の性欲」を満たす形で行われたことからも、明らかだった。
 それは言ってみれば、「可愛らしい格好に変身したことで満足してしまい、別に地球を守るために戦ったりしない、セーラームーン」のようなものでした。

 ――あまりにもお気楽に過ぎる作品構造に、例えばアルファツイッタラーの小山晃弘氏は「これはフェミニズム映画と言うよりはむしろアンチフェミ映画だ」としています。確かに見ているとフェミニズムの身勝手さ、軽薄さをからかった映画だと考えたくも、なってくるのですが。

 傑作なシーンがありました。
 バービーランドがケンに乗っ取られ、絶望したバービーが一瞬見る悪夢です。
 そこでは女の子が嬉々として「鬱バービー」のCMをしています。「鬱バービー」はジャージ姿、疎遠になった友人の結婚をいまだ羨(うらや)んでいる、恋愛ドラマを延々と観続けている云々。
 女性雑誌の切れ端のような描写ではあるものの、これぞフェミニズムによって社会進出に追い立てられ、婚期を逃した女性たちの戯画化であり、まさに本作がフェミ批判映画である証明だ――そう言いたくもなります。

 しかしこの後、バービーは語るのです。
「女は大変だ、働き、母になり、男のケアも求められる」。
 いや、だからそれはフェミのせいなんじゃ……?
「綺麗でいなくちゃいけないが、綺麗でいようという気持ちが前に出ると叩かれる、金銭欲などについても同様だ」

 出る杭が叩かれるのは男性も同じですが、女性は男性よりも苛烈というならば、それは女性同士の、女性の虚栄心による争いであり、それに自縄自縛になっているのでは……?
 しかし恐らく、つくり手はそこに自覚的ではないのではないか……とぼくは想像します。
 先の「女は大変だ、働き、母になることも求められる」といった主張は近年、よく耳にします。フェミニズムがなければ、少なくとも「働く」ことからは免れていたはずなのですが、そうした声はそこでは聞かれません。「働く」と言っても、夫を専業主夫にして家族を支える女性が例外的であることを考えるならば、男性の方がより過酷と思うのですが(もちろん、男性は家庭を顧みないのだ、との批判も考えられますが、同時に女性の過労死や業務上の致死は男性に比べて圧倒的少数です)どういうわけかそれでも女は男に搾取(さくしゅ)され大変、というのがフェミニズムです。
 これではまるで、中古車修理業者が持ち込まれた車のタイヤを故意にパンクさせ、修理費を請求しているようなものです。

 すなわち、本作のバービーからはたびたび、尻尾が丸見えになっていた。しかし本人はそのことに全く気づかないままなのでは……つまり、確信犯のアンチフェミ映画というわけではなく、あくまで天然で尻尾をさらけ出しているだけなのではないか。そしてそれを言うならば、それこそがフェミニズム全体の傾向なのではないか……。
 ぼくには、そんなふうに思われるのです。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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