ギョッとするような歌詞

 宇多田ヒカルさんの新曲『Mine or Yours』が話題になっています。
 歌詞にいきなり「いつになったら夫婦別姓がOKになるのだろう」といったフレーズが挟み込まれ、ちょっとギョッとなるものだったのです。

 みなさんご承知の通り、左派は随分以前より夫婦別姓制の導入を悲願としており、社民の福島瑞穂党首、大椿ゆうこ副党首、立憲民主の辻元清美代表代行、共産党の吉良佳子参院議員などは大喜び。
 一方、Xなどでは不審に思う声、「バックに何者かの思惑があるのではないか」といった声も囁(ささや)かれました。何しろ立憲民主が選択的夫婦別姓制度についての法案を提出したばかりで(どうも不成立となったようですが……)、関連を疑いたくなるのも無理からぬ話です。

 もっとも以前にも宇多田氏が「ノンバイナリ」を自称し始めた件について、お伝えしたことがあります。つまり、彼女は少なくともその頃からフェミに親和的な人物だったのであり、その意味で本件も別段、驚くことではないのです。

 歌詞に注目してみれば、男性の視点で恋人である女性のために食事する店を探し、お茶を淹れとご機嫌を取っているだけの、どうということのない歌。いえ、ちょっと悪意のある感想かもしれませんが、男の目から見ると凡百の女性向けラブソングで、正直それほど深みのある歌とも思えません。そこにいきなり上のフレーズが入るのはやはり、奇異です。

 あえて言えば、男性が恋人を傷つけてしまったらしき状況から入り、「どちらの道を選んでももう一方の道は失われる」ことを惜しむ歌詞が入り、その直後に問題の夫婦別姓という言葉が登場します。
 そもそもタイトル自体が直訳すれば「私のものなのか、あなたのものなのか」とでもいったもので、あるいは、この2人は結婚後の姓のことで揉めていたのかもしれませんが、それにしてもいきなり「夫婦別姓」という制度上の用語が生のまま放り込まれているのが違和感を覚え、聞く者をしてギョッとさせるのでしょう。
YouTubeより (14460)

宇多田ヒカルの新曲『Mine or Yours』MV

推進派の論拠は実に弱い

 しかし、いずれにせよこの「夫婦別姓」、(これは「ジェンダーが争点」である問題の全てについて言えることですが……)そこまで喫緊の課題なのか、というのが多くの人の感想ではないでしょうか。そんなフレーズがありふれたラブソングにいきなり挿入されていることも、違和感を覚える理由でしょう。

 逆に推進派が本件について「自由だからいいことなのだ、いいことなのだ」とひたすら繰り返すのも、本当に多くの人々に益する制度であると説明できず、あやふやな物言いに逃げているようにも思えます。

 では、そもそも、なぜ左派政党は夫婦別姓制度を通したいと考えているのでしょう。
 先にも述べましたが、この制度の理念的根拠はやはり、フェミニズムです。第一に姓とはイエ制度を守ろうとする悪しき家父長制の現れである、第二に「姓」とはアイデンティティに深く結びついたものであり、それを捨てさせられるのは差別的である(このロジックは第一の主張と矛盾している気がするのですが……)、第三に働く女性にとって姓が変わるのは不便である(もちろん、今時は通姓を名乗ることが許容されていることが多いでしょうが)、云々……。

 しかし、そもそも実際にそこまで別姓を望む夫婦が多いのかとなると、疑問と言わざるを得ません。推進派は選択的夫婦別姓制度について国民の6~8割が賛成であるとの調査を持ち出すことが多いのですが、それは選択的との言葉に惑わされ、「選べるのであれば、別にどちらでもいい」といった考えの人が多いだけでしょう。先に「喫緊の課題だろうか」と疑問を述べましたが、逆説的にだからこそ「消極的容認派(ぶっちゃけどうでもいい派)」が多いと想像できるのです。

 例えば、岩波ブックレットの『選択的夫婦別姓』の表紙には「日本では96%の女性が姓を変えている。これは一体何を意味しているのか?」といった文字が躍(おど)って(そしてページを開けば案の定、「女性差別、女性差別」とひたすら繰り返されて)いるのですが、みなさんご承知の通り、日本では夫、妻のどちらの姓を名乗ってもいいという実に男女平等な制度が採用され、その上でほとんどの女性が夫の姓を名乗ることを「選択」しているのです。同書には女性が改姓するのは、そのように習慣づけられているからだとされていますが(13p)、だとしたら、その「習慣づけ」は選択的夫婦別姓制度が導入されても続くのではないでしょうか。

 何だかこれは、均等法が通って以降も一向に女性の管理職が増えなかったことのリプレイではないかと、ぼくには思われます。(景気のせいで思うに任せないだけで)今も女性の専業主夫願望は変わっていない。女性側に最初から、人の上に立って働くより、夫の世話をする方が好ましいとの価値観があるとしか思えないのです。
 左派は選択的夫婦別姓制度が導入されれば「待ってました」と別姓を選ぶ夫婦が増えるという未来を(選挙権年齢を引き下げれば野党に票が集まると夢想した時のように)夢想しているのかもしれませんが、おそらくそうはならないだろう、とぼくには思われるのです。

 同書では内閣府による「事実婚の夫婦の中には姓を変えたくないとの理由でそうしている人がいると思うか(大意)」との問いに「いると思う」と答えた人が81.7%だとの調査を挙げ、「同姓制度のせいで婚姻が避けられている」と主張しています(15p)。お読みになって、ちょっと混乱なさったかもしれません。「事実婚の人たちに調査をした」のではなく、漠然と不特定多数に「思うか」と尋ね、「思う」と答えた者がこれだけいましたという、一体調査したことに意味があるかも疑わしいデータが、根拠として挙げられているのです。そりゃ、「いるか」と問われれば、少数であろうと「いるだろう」としか言いようがないでしょうに。

 もっとも、続けて別の調査を根拠に、20~30代の独身女性の中の10%は姓が変わることを理由に結婚に積極的になれないでいるとの試算をしてはいます。が、これも独身女性にその理由を選択させているわけで、この答えを選んだ何割かは実際には「何となく独身でい続けた」、「結婚したいができないとは答えづらい」といったところが本音だったのではないでしょうか。

 もちろん、以上はたまたま手に取った1冊を読んでの感想に過ぎません。が、こうした持って回った論理展開をしていること自体が、推進派の論拠の弱さを示しているのではないでしょうか。

フェミニズムの最終目標

 さて、しかし、いつものぼくの記事を読んでくださっている方は以上をご覧になって、あるいはこうお感じになったかもしれません。
「茶番だな」と。

 そう、先にこの夫婦別姓推進派の理念的根拠はフェミニズムだとご説明しました。しかし、常にご説明している通り、フェミニズムの最終目標は結婚制度の破壊なのです。つまり、彼ら彼女らの「婚姻のハードルを下げるために夫婦別姓制度を」との主張は、最初から自分たちのホンネを押し隠した詭弁(きべん)なのです。

 事実、ネットでは田嶋陽子氏が(『朝生』か何かで)「結婚制度そのものを廃止する必要がある。しかしいきなり結婚制度廃止を訴えても誰も聞いてくれないから、まず第一段階として夫婦別姓を主張することが大事なのだ」と主張している動画が拡散されています。さらに彼女は著書でも戸籍制度の廃止を訴えているのです(『田嶋先生に人生救われた私がフェミニズムを語っていいですか!?』79p)。

 そしてまた、これが田嶋氏だけの過激な思想ではないことは、米国の著名なフェミニスト、アンドレア・ドウォーキンが結婚制度そのものをレイプだと断じ、また近年、「表現の自由を認める話せるフェミニスト」という看板で売っている柴田英里氏が「異性愛再生産(あまり聞かない言葉ですが、「強制的異性愛」と同様、異性愛は男性により仕組まれた陰謀なのだ、という考え方だと思われます)」を深く憎悪していることなどを考えれば、理解ができるのではないでしょうか。

 つまり、そもそも、「男女が愛し合う」ことそのものを否定するのがフェミニズムであり、宇多田氏がラブソングに乗せて「夫婦別姓」を歌うのは本末転倒というか、萌(も)え美少女の大好きなオタクがフェミニズムに傾倒しているような(残念ながら、結構大勢いらっしゃいます)奇妙な光景と言うしかありません。

 フェミニズムに深く傾倒する評論家、パオロ・マッツァリーノ氏は夫婦別姓反対派を嘲笑し、以下のように述べます。

《例え選択制であっても、夫婦別姓を許せば、ヤツらは全員に別姓を強制しようとするのだーっ!
 こんな陰謀論が大マジメに書かれてることにどん引きしてしまいました。完全に中二病レベルの被害妄想です》(『思考の憑きもの』264p)

 しかし今まで見てきたように、大変残念ながら、フェミの最終目標は「全員に別姓を強制」することなどより遙かにおぞましいものだったのです。パオロ氏は党派性のためなら非常にしばしば詭弁を弄(ろう)し、デマを流す方なので、これは確信犯の可能性もありますが、一体にリベラルを自認し、フェミニズムに賛意を示す方たちには極めて往々にして、フェミニズムについての根本的な知識が欠けている(というより自分の味方と信じたくて現実を認められない)傾向が極めて大です。
 こうなると「何とはなしに自由だから」との理由で、夫婦別姓に賛成することの危険性も明らかになってくるのではないでしょうか。
TikTokより (14461)

田嶋陽子氏の主張

子供を大いに傷つける可能性が高い

 さて、しかし、そもそも「選択的夫婦別姓制度」はそんなにも自由なものなのでしょうか。去年末、産経新聞社が小中学生を対象に本件についての調査を行いました。そこで(本件が通れば)両親や兄弟姉妹と違う姓になってしまう可能性があることについて尋ねたところ、49.4%が反対する結果となりました(もっとも、積極的賛成、親が決めたことだから仕方ないとの消極的賛成を合計すると35.2%にはなります)。

 面白いのは単に夫婦別姓に対する賛成反対を問うた時は賛成派、反対派、よくわからないがほぼ3割ずつと拮抗していたのが、その後に上の質問をぶつけたところ、反対派が増えているという点です。これは先に挙げた内閣府の調査でも、やはり似た傾向が見られます。つまり、「子供に影響はないか」といった設問になると、賛成票が減っていくのです。
 夫婦別姓は子供を大変に傷つける可能性が高いことが、これでわかります。いかに「選択的だ、自由だ」と繰り返そうと、「強制的親子別姓」なのだとの言葉も囁かれるようになりました。
 
 この論点について推進派は基本、語ろうとしません。が、たまに出る反論は「別姓くらいで揺らぐ家族はもともと脆(もろ)いものだ」という居直ったようなもの。ならば「同姓くらいで結婚に踏み切れないカップル(が、どれくらいいるかはさておき)はいずれ別れる」とも言えそうなのですが。
 もう一つ、よく言われるのは「夫婦同姓が強制されているのは日本だけだ」というものです。先に挙げたパオロ氏は「海外で子供と親の姓が違うことで、問題になった例を知らない(大意・267p~)」と主張しますが、それは日常的に「山田」と姓で呼び合うことの多い日本と、「ジョン」とファーストネーム呼びの多い欧米の習慣の違いによるところが大でしょう。

 それに、夫婦別姓が認められていても、米英蘭仏NZと各国で夫の姓を名乗るケースが多いようです。いかに新しがり屋が身勝手な正義を押しつけようと、人間の家族観、ジェンダー観はそうそう変わらない、ということです。

おぞましいフェミニズムの本質

 左派はやたらと自由を叫びたがりますが、その自由は極めてしばしば、他人の自由を侵害するものであり、ことにフェミニズムの主張する自由を押し通そうとすると、子供を犠牲にする場合が非常に多いのです。
 彼女らは女性の中絶権も『悲しいけれど必要なこと』(というタイトルの本があるのですが)として推進してきました(もちろんぼくも中絶が全く認められるべきではないと考えているわけではありませんが、今回は措きます)。

 トランスたちがグルーミング(手懐けること)により、少女を不可逆な性転換手術に導いていることは、近年問題となりました。
 以前にも書いたことがありますが、『薔薇族』の編集長である伊藤文学氏は同性愛者が(まだ小学生の)男児とセックスすることを長年、礼賛してきました。ところが、ぼくがそれを批判すると多くのフェミニストたちが悪辣(あくらつ)な嫌がらせを繰り返してきたのです。

 そもそもフェミニズム(や、サブカルチャーに関わる左派)は70年代のニューエイジ的なフリーセックス思想と関連が強く、子供とのセックスも是と考えているフシがあります(しかし「異性愛」は悪そのものなのだから、レズビアンのケのあるフェミニストと少女の、ゲイと少年とのセックスばかりを礼賛する傾向にあり、もうメチャクチャとしか言いようがないのですが)。
 これらはみな、自分一人の「自由」を押し通し、そのためには一番弱い存在である子供の「自由」をどれだけ踏みつけにしても構わないのだという、おぞましいフェミニズムの本質が現れたものなのです。

 宇多田氏の歌うカップルにも是非、伝えたいところです。
「男女が愛し合い、子供を産み育てる心を持つ限り、夫婦別姓はOKにならないよ」と――。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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