権力者は「マネーの本質」を秘匿する~中世≪銀≫の流通に...

権力者は「マネーの本質」を秘匿する~中世≪銀≫の流通にみる通貨論~

石見銀山銀鉱山
 過去3回の連載では、金・銀・銅のうち、銅(銭)を切り口にして、奈良の大仏建立や貨幣発行の権益を巡る皇室・藤原氏・反藤原氏の鞘当てについて異説日本史を説いて参りました。

《経済・マネーやぶにらみ》と謳いつつ歴史モノばっかりだなあと感じられる読者のも多いと思いますが、現代のマネー・貨幣の本質を知るために、歴史から学ぶことが最も本質に迫ることができる……と考えるゆえです。もうしばしお付き合いください。

 時代は下り、今回は中世にて主役となった「銀」をフィーチャーして、当時のマネー事情を見てまいります。主に鎌倉時代(~南北朝時代)~室町時代~戦国時代(世界史的には大航海時代)のマネー事情についてお楽しみください。

織田信長に献上された黒人にみる「情報の非対称性」

 同時代のメインキャスト、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、「天才と鬼畜は紙一重」を地で行くような英雄たちです。前回の記事では、平清盛(を育んだ)三重県との対比で、名古屋メシの話をしましたが、同じく地域性から考えますと、信長と秀吉は尾張、家康は三河と、同じ愛知県でもまったく性格が異なるといわれております。

 この点を繰り返し強調しているのが司馬遼太郎先生の『覇王の家』(1973年、新潮社)で、例えば、都会的で進取果敢だが利に敏く商魂たくましいのが尾張、対する三河は田舎だがそれで何が悪いという気風が充満し無駄遣いはしない吝嗇(けち)な性質、といった評価をされております。

 このように対称的な2国のように見えますが、実は利に敏いのと吝嗇(けち)は親和性が強いとも言えます。

 たとえば、中日ドラゴンズは尾張・名古屋が本拠地にもかかわらず、NPB12球団のなかでもとくに目立ってマネーによるチームづくり(FA戦線に参戦しないなど)を行わない頑ななチームです。この点はどちらかというと尾張的ではなく三河的で、最後に天下を取るには無駄遣いは御法度という地元の英雄の成功体験を引き継いでいるのかもしれません(もっとも、ここ10年ほど天下はとれておりませんが)。

 さて、司馬先生の『覇王の家』には、信長(尾張)と家康(三河)との性格比較が、前者が後者へ片務的な軍事同盟関係を強いる経緯に沿って随所に描かれています。そのなかで、このような記述があります。

「この男はかつて南蛮人から黒人を献上されたことがある。信長はそれを珍重し、武士に仕立てて身辺で使ったが、その黒人が献上された早々、信長は本当に黒いかどうかを試すために人に命じて洗わせ、それでも黒いとわかってはじめてよろこんだというほどに実証的な性格のもちぬしであった」

 司馬先生は、これまで経験したことがないような深刻なレベルで、日本が世界史に向き合わされるこの時代にあって、織田信長が革新的で進取の気性に富み、そしてなによりもプラグマティック(なマキャベリスト)であったことを伝えたいために、この逸話を用いました。

 本連載で、貨幣から日本史を読み解こうと考えているわたくしは、ここでもまたひねくれます。南蛮貿易を司るスペインまたはポルトガル商人または宣教師は、情報の非対称性を悪用して(希少で入手困難な茶道具の如く)西洋にとってはごく日常的な品を高く売りつけたことに注目したいのです。
 
 情報の非対称性というのは、「アフリカ大陸には吐いて捨てるほどの黒人が住んでいること。ついでながらスペイン領メキシコや同ボリビアの銀鉱山でタダ同然の労働力として使われていること。このような大西洋事情はさすがの諜報力を誇る信長とて知るよしもなかろう」ということです。もちろん埒外な価格での人身売買が行われたわけではなくて、これは寄進・贈答のたぐいです。

 もっとも深読みすれば、諜報力で天下をとった信長ですから、のちの秀吉、家康同様、南蛮人に騙されたふりをして実際は「この南蛮人め、タダ同然の奴隷でワシの歓心を買おうとしやがって」と内心思っていた可能性は大いにあります。

「銀」の時代

 各国経済の潤滑油である銅(銭)の時代から、ボーダーレス経済を動かし揺さぶる銀の時代へとうねり出したのが大航海時代。そこで流通していた銀の約3分の2が中南米産、約3分の1が日本産(※)と一説には言われています。

 日本が中南米のようなスペイン・ポルトガルの植民地となり、こんにちのわたくしたちの先祖である原住民が同地のような過酷な鉱山労働などに従事させられず、皆殺しにも遭わず、黒人奴隷同様の運命に陥らなかったによって置き換えられずに済んだ理由を整然と説明できるでしょうか?

 幕末の黒船来航以来、日本が中国(清)や朝鮮半島(李氏朝鮮)と同じ穴の狢とはならなかった経緯よろしく、大航海時代に日本が殲滅されなかったのも複雑な多要因からだと考えられます。が、そのなかで、信長・秀吉・家康の鬼才・奇才に恵まれたというのは最大級の要因だったのではないでしょうか。

※石見(いわみ)銀山が中心。対馬銀山はピークを過ぎており、いた。生野銀山は開発途上であった。

 ローマカトリック≒ハプスブルク帝国(≒神聖ローマ帝国)は、宗教家・篤志家の仮面を被った貿易商・奴隷商であり侵略者(15世紀バージョンの十字軍)です。中南米(コンキスタドール)やその後のインド(プラッシーの戦い)、中国(アヘン戦争、アロー戦争)をも襲った台風が日本にも上陸しかけていたなかで、三英傑は普通なら難破したであろう船の帆を敢えて下げることなく見事に操舵し、帆船を日本側に走らせたと言えます。それでも、無視できない数の殉教者、日本人奴隷、日本人傭兵(※)という犠牲を伴ったことは付記せざるを得ません。

※日本人が戦国時代末期から江戸時代初頭にかけて多くポルトガル領やオランダ領の奴隷・傭兵となった歴史は殆ど学校では教えられていないのではないでしょうか?

貴金属は希少だが卑金属のほうが貴重⁉

 さて、元素の周期表というものをつくったメンデレーエフというひともまた、信長・秀吉・家康とは違う意味で、天才ですね。それで、金・銀・銅は、ご覧の通り、縦一列に並ぶ同族(銅族)なのです。
(参考)元素周期表

(参考)元素周期表

 なんでこんな話をするかというと、人類と金属の出会いに関係すると思ったからです。経済学に関係のない方々でも、日頃、ときどき、「希少価値」という言葉を使います。そこで、珍しいもの≒滅多に見つからないもの≒手に入れるのが難しいもの……は、そうでないものに比べて価値が高いというのが常識だと考えています。この点、人類と金属との関係ではちょっと違うのです。

 銅族に属する金・銀・銅(特に金)は、今となっては単位質量あたり全然値段の安い鉄・鉛・錫と異なり、常にではありませんが、ほぼ100%単一元素の塊で見つかり得るのです。

 つまり、人類は、生活必需品である鉄などよりもずっと前から実は金・銀・銅と邂逅していたのです(自然金、自然銀、自然銅)。これに対して例えば鉄だと自然鉄などはほぼ存在せず、鉄鉱石を火山の噴火や山火事、焚火などの要因で、次いで磁石や外見上で鉄鋼石の鉱床を見つけました。
 それらを加熱して鍛えれば、耕作もはかどり、さらには兵器革命を起こせることに気が付き、鉄は現在の生活必需品の地位を築いた、という展開ではなかったかと想像されます(村上隆『金・銀・銅の日本史』(岩波新書)2007)。

 本連載第一回の主旨のひとつが、現代貨幣理論(MMT)に悪用された「貨幣の起源は必ずしも貴金属ではなかった」「負債(貸借)の記録だった」「お互いに信用(担保)が成立してないコミュニティー(「国家」)をまたぐクロスボーダー取引でのみ銀が使われていた」という話でした。
 銅は錫との合金(比率)次第で青銅その他の多用途の強靭な道具や多彩な工芸品・銭をこさえることができましたが、鉄器文明ほど、農耕革命に匹敵するほどのインパクトを人類にもたらしたとは言えません。いわんや金・銀をやと言ったところです。

 ちなみに、古代メソポタミア周辺では、ヒッタイトが鉄の兵器を手にする以前にも、人類には諍いや闘いがあったことは確実と考えられております。しかし、農耕文明以降の鉄器の出現は戦い方を根本的に変え、それが、それまで主流だった女系社会を男系社会に変貌させ、今日にまで至るジェンダーギャップの淵源だったというひともいます。

 さらに余談ですが、ヒッタイトが鉄(鉱石)に気が付いたのは、地中からではなく、隕石からだったともいわれております。これが本当であれば、砂金をきっかけに金に気が付くよりもはるかに難易度が高いというのは納得できます。


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「貨幣」の価値にみるダブルスタンダード

 インカ文明、マヤ文明、アステカ文明は前千年紀のあいだ外敵に晒されなかったから育まれた奇跡です。そのため「金や銀は装飾品としての価値はあるが柔らかすぎて役に立たない。鉄や青銅こそ利用価値がある金属だ。この白人の旅行者たちは、なぜ金や銀にこれほどまでの興味を示すのか? そんなに欲しければお土産にどうぞ」という感覚だったことでしょう(Yuval Noah Harari「Sapiens: A Brief History of Humankind」)。

 このような貴金属に対する価値観のギャップは、コミュニティを跨いで信用のおけない余所者相手の交易の機会があったかどうか、その交易に付加価値を見出せるかどうかの違いであったと、既出の古代メソポタミアの貨幣のダブルスタンダードを顧みれば、腑に落ちます。

 貨幣を巡る人類史を振り返ってきました。時系列と場所をまとめますと、

【古代メソポタミア】国内貨幣は寺社・宮殿の負債記録、貿易用には銀

【奈良時代(日本)⇔唐(中国)】唐国内(※)と日中貿易には銅銭

【平安末期(日本)⇔(南)宋(中国)】宋国内(※)と日中貿易には銅銭。日本国内は不明)

【鎌倉時代(日本)←元寇→元】日本国内は銅銭(宋銭+宋銭を模した私鋳銭)、元は交鈔・銀

【戦国時代(日本)⇔(スペイン?)ポルトガル⇔明末期(中国)】貿易用に銀



【ブレトンウッズ体制とその崩壊】延べ棒本位ではない金本位制度から管理通貨制度へ

 黄色部分連載第1回(金融の現場から見た「MMT(現代貨幣理論)」)緑色部分第2回(聖武天皇は日本史上初のMMTer(現代貨幣理論信奉者)だった!?)赤色部分をが第3回(日宋貿易を独占した総合商社のドン、平清盛の実像 ~歴史から考える「MMT批判」)で、それぞれ扱っております。

中国貨幣史概観

 本稿では更に重要なプレイヤーであった中国について付言いたします。

 唐は、日本でも古代の遺跡から皇朝十二銭よりもむしろたくさん出土される開元通宝という銅銭を鋳造したことが画期的です。開元通宝は、それまでの銅銭と異なり重量を刻印しなくなったことで、巨大国家として成立した唐が絶大な権力を背景に貨幣発行益を享受しようとしはじめた意図が明白です。


開元通宝

 画期的と言えば、次の宋の時代は、日本にも清盛を通じて「輸入」された銅銭のほか、世界史上初の紙幣が発行されたことを記さねばなりません(交子・会子)。紙幣の出現と流通(受容・需要)は貨幣社会のパンドラの箱を開けたことになります。
南宋の紙幣である会子

南宋の紙幣である会子

via wikipedia
 続く元を名乗るモンゴル帝国も、紙幣の活用、銅銭の「輸出」という点では、(南)宋との連続性はあります。が、圧倒的な画期がふたつあります。ひとつは銀が主役に躍り出たこと、もうひとつは紙幣が(宋の交子・南宋の会子と異なり)無期限化したということです(交鈔)。

 世界史上初の管理通貨≒紙幣が中国の宋で登場して、最初は期限付き(の手形や国債のようなもの)だったものがどういう理由で無期限になったのか……というのも興味深いですが、それはさておきます。
 
 軍事費増大をファイナンスするための紙幣というものはややもすれば紙くずと化してしまいそうなところ、フビライ・ハーンは金本位制、銀本位制ならぬ「塩」本位制をぶち上げ、「塩」に兌換できる一方、「塩」を買うには交鈔も用いざるを得ない状況に国民を追い込みました。これを知ったマルコポーロは「フビライ・ハーンは天才的錬金術師だ」と感想したと言います(山川出版社『詳説世界史研究』)。

 マルコポーロの感想に従えば、今日の世界ではあちらこちらに天才がいることになりますね。

世界に流通した「銀」とモンゴル帝国

 フビライの天才性はさておき、この時代でもっとも注目されるのは「銀」が主役に躍り出た、という点です。当時は中央アジアを経由した小規模の交易はあったものの、基本的にはヨーロッパとアジアは分断しておりました。つまり、アケメネス朝ペルシャも、アレクサンドロス大王も、ローマ帝国も、インドから東には侵攻できていなかったのですところが、この東西の壁をぶち抜いたのが元でした。

 元より前の中国の各王朝にとって、西域以西との交易は基本的に貿易黒字であって、堅実に金・銀が貯まっていくという程度のものだったようです。元は、世界共通通貨である銀を、西域以西の商圏・覇権拡大のために使います。つまり軍事的投資をして、領土を拡大し、もっともっと欲しいものは輸入するという攻めの姿勢です。となると、銀は自然に溜まっていた状態から逆流し、むしろ銀を調達しなければ戦線拡大ができないということになります。

 この目的を達するための元の戦略は、南宋を滅ぼして、中原を支配し、遊牧民族でありながら、農耕と商業から安定した収益を得ること。さらに言えば、対馬からも銀を徴発すること……ではなかったでしょうか?

 フビライ・ハーンからの日本(北条時宗)宛の国書という名の脅迫状の目的は、朝貢に加えて、火器・弾薬の原料となる硫黄の南宋への輸出を止めさせることにあったと思われます。硫黄は金・銀・銅と並ぶ日本の輸出品で、それらすべてが火山国である日本には豊富なのでした。
 また、対馬に良質の銀山があることは、フビライ・ハーンは、すでに属国化した朝鮮半島の高麗から聞いていたことでしょう。

「北条時宗が最後通牒を既読スルーしたがゆえに元寇となり、台風という神風が吹いたので、元は退散した」
 
 みたいな歴史を習います。九州本土の防衛はなんとかなされたかも知れませんが、対馬・壱岐は、太平洋戦争における沖縄並みにボロボロにされたのです。私見ながら、元としては、対馬を実効支配できたことで、目的の半分は達した。
 日宋貿易を特に硫黄調達という観点から遮断する意思決定は迫れなかったが、以降の情勢により、どっちにしても南宋滅亡は時間の問題と見たので、大きな犠牲が付きまとう日本本土決戦はリスクリターンに鑑みて回避した、と考えると納得がいくと思います。

 銀にまつわる世界史的ないきさつが出揃いつつあるなかで、冒頭の戦国時代=大航海時代の銀の話に戻ります。日本史・世界史両方の教科書では「日本銀が世界流通の3分の1を占めていた」と断言しております。
 果たしてこれは事実であったのか? 当時の世界経済を知るためにも検証してゆきます。

石見産の銀が世界を駆け巡った真相

 石見銀山の開発が始まったのが1527年(諸説あり)。当時世界最大規模の銀山であったボリビアのポトシ銀山の開発は1545年と言われています(大田市教育委員会「石見銀山学ことはじめ1始」六一書房)。
 後者は原住民インディオを壊滅状態にするほどの肉体労働と健康被害をもたらし、入れ替わった黒人奴隷が強制労働に従属させられるわけです。

 この事実を現代用語に置き換えると、「フェアトレードの真逆を行く歴史的ブラック企業に、原価面で石見銀山が対抗できた」ということになります。労働力がほぼ無限で、人件費がかからない企業(ポトシ銀山)はビジネス上では無敵と思われます。なのに、なぜに(当時としては)ブラックではなかった岩見銀山が対抗できたのか?

 筆者があらかじめ立てていた仮説は、

① 日本の銀山の鉱床の質が高かった
 1.含有量
 2.鉱床の分厚さ
 3.地形、掘りやすさ、運び出しやすさ

② 日本では、中南米ほどの非人道的な強制労働はなかった(※)が、労働生産性は強制労働のほうが高いとは必ずしも言えないから
 1.日本人のほうがインディオよりも士気が高かった、仕事が丁寧で律義
 2.武田信玄のように、戦役の一部に過ぎないかも知れないが、信州・佐久の戦いでは非戦闘員を含む捕虜を黒川金山で強制労働させた事例がある(新田次郎「武田信玄・風の巻」)

③ 銀の精錬技術が優れていたから
 ・ポルトガル⇒朝鮮・対馬⇒石見銀山に導入された灰吹法よりも、スペイン⇒中南米に導入された水銀アマルガム法のほうが精錬コストは低かった一方で、鉱山労働者の健康へのストレスは逆に水銀アマルガム法>灰吹法だった(上記②にも関連)

④ 大航海時代、ポルトガル、スペインの背後には、ローマカトリック(>イエズス会)という隠然たる権力があったから
 1.ローマ教皇領と神聖ローマ帝国とハプスブルク家は重なり合いつつも抜き差しならぬ関係。布教活動と、三角貿易(銀、奴隷、香辛料)による利益、植民地拡大(モノカルチャー)、布教活動は三位一体を形成。

 2.にもかかわらず、銀のルーティングという意味では、ポルトガルとスペインは分断していた
   (ア)    ポルトガル=日本銀を利用
   (イ)    スペイン=アメリカ銀を利用

 3.ポルトガルとスペインは、開拓海路、押さえていた制海権が分断していた(トルデシリャス条約)。
   (ア)    銀の供給源と需要先も同様にアメリカ銀と日本銀の間には「一物二価」が成り立っていた
   (イ)    これに対して、チロル銀(欧州産)とアメリカ銀は裁定される宿命にあった。需要先がインド~香料諸島(モルッカ諸島)と共通だったからと思われる。

 4.スペインのコンキスタドールによる残虐行為に匹敵する利潤率を達成するためにポルトガル陣営がかわりに行えたのは、中国の生糸を日本で法外な値段で売ることであった
   (ア)    戦国大名への鉄砲の販売と同じ
   (イ)    しかし、直ちに日本は生糸も絹織物も内製化できるようになり(ついで鉄砲の品質改良も)、ポルトガルによる貿易利益は逓減したと思われる

 以上、当時の情勢を踏まえ筆者が立てた仮説ではありますが、少なくとも、①に関しては、相当の確度が高いと考えております。

 前述の村上隆著『金銀銅の日本史』(岩波新書)P118-119によれば、

 〇石見銀山は、世界的に見ても珍しい銀鉱山である。限られた狭い範囲に(中略)「福石鉱床」、(中略)、「永久鉱床」というそれぞれ成因の異なる特徴的な2つの鉱床を持つ。(中略)「福石鉱床」中では、銀は「輝銀鉱」が主であり、硫黄成分が少ないのが特徴。
 〇ユリカス(淘る。汰る。滓)の中に0.1%に近い銀が残留するものがあることがわかった(⇔現代の鉱業技術では、0.01%の銀を含めば採算が採れる)。
 〇銀がほとんど硫化物として存在しないため、硫黄分を除去する作業を伴わない。これは、製錬・精錬作業における大気汚染の軽減にもつながる。

 との記述がなされております。

権力者は「マネーの本質」を秘匿する

 今月も非常に長い《マネー》異説日本史&世界史をここまでお読みくださりありがとうございます。

 異説と呼ぶのは、わずかに謙遜があります。なぜ異説に留まるのかには深い理由があると思うからです。今月扱った対馬銀山を中心とする元寇における対馬の惨状について、日本側、中国側(元)、朝鮮半島側(高麗)で資料が断片的であり十分に整合的とは言えない点が、過去2回で扱ってきた奈良大仏と皇朝十二銭と宋銭(と長登銅山との関係)とまったく同じで、意図的に記録が欠落しているとしか思えないためです。

 貴金属の鉱山開発、製錬、貨幣の鋳造のような錬金術の本丸部分をその時々の権力者が秘匿したいというのは各時代に共通した欲望であると考えるのは不自然ではないでしょう。

 先述の新田次郎先生は、小説『武田信玄(風の巻・林の巻・火の巻・山の巻)』について、
 
「『佐渡の金山は戦国時代にはまだ発見されておらず、採掘が始まったのは江戸時代初期になってからであり、上杉謙信がそこから金を得ていたことは有り得ない』
 という指摘を受けたところ、

「秘密にしていたから資料が残らなかっただけだ」
 と反論し、誤りを認めなかったとのことです(wikipediaより)。

 時代に応じて技術は進歩すれども、人の本質、権力の本質はそう変わらないと考えられます。そうしますと、錬金術の本丸を秘匿した過去の権力者同様、現代においても「通貨発行権」を持つ主体が「通貨」の本質について秘匿したい点が、様々の経済学説・貨幣論の乱立につながっているのではないでしょうか。
丹羽 広(にわ ひろし) アヴァトレード・ジャパン株式会社・代表取締役社長
 三重県生まれ。京都大学経済学部卒。同年、株式会社日本興業銀行へ入社。総合企画部、ロンドン興銀、興銀証券などを経て、2000年モルガンスタンレー証券会社東京支店入社、公社債の引受営業に従事。2002年からはBNPパリバ証券会社東京支店にて株式引受やM&A助言等の業務に携わる。
2005年、BNPパリバ証券時代の取引先であったフェニックス証券の社長に就任。
2013年2月より現職。

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