苦しい言い訳

《上野千鶴子結婚報道――矛盾だらけの上野流フェミ論》はこちら

 上野氏の主張を簡単にまとめてみましょう。

①プライバシーを嗅ぎ回る『文春』は卑(いや)しい。アポなし取材を受けたが、断った。
②私は「おひとりさまの教祖」などではない。おひとりさま教などというものを発案したことも広めたこともない。
③「入籍」は間違いで「婚姻届を出した」が正しい。家族主義の日本の法律を逆手にとった、苦渋の決断であった。養子縁組では自分の姓が変わってしまうので婚姻を選んだ。選択的夫婦別姓製度が導入されていればこんなことをせずに済んだ。

 ――こんなところでしょうか。
 しかしいずれも、苦しい言い訳の域を出ないように思います。
 ①についてはお怒りはもっともですが、正直、被害者面をすることで問われていることを擦り替えているとの印象を持ちます。文面を見る限り『文春』も取材を試みていたのだから、むしろ当記事を読むことで同誌の「卑しい」印象が少々、薄らぎます。
 プライベートに踏み込まれたくないとの気持ちは尊重したいところですが、そもそも「個人的なことは政治的なこと」がフェミニズムのキャッチフレーズです。少なくとも上野氏の言論がこれ以上はないくらいにプライベートに踏み入ったものだったのですから、ことを芸能人の結婚騒動などと同次元で語るわけにはいきません。「プライベートだからノーコメント」というのは通らないのではないでしょうか。
 またそもそも、上野氏の「配偶者」は著名な歴史家、色川大吉氏だったのですが、同記事には上野氏が色川氏の追悼集に寄稿した旨(「入籍」だの「婚姻」だのについての言及はありませんが、上野氏が色川氏3年半の車椅子生活を介護したことが書かれています)、『文春』がそれを読んで本件に気づいたであろうことが書かれ、「隠すつもりはない。だが公開する理由もない。」と述べられています。
 つまり、『文春』が上野氏が言うほどに「卑しい」取材をしたかについては、いささか疑問が湧くわけです。

 ②について、先の記事でも柴田英里氏の「上野氏は結婚制度を否定してきた以上、説明責任がある」との意見をご紹介したように、本件における一番の肝(きも)のはずなのですが、実に簡単に、ホンの数行で片づけられています。
 上野氏の言葉は「彼女がそうした宗教団体を立ち上げた事実はない」という意味では事実となりましょうが、同時に彼女が「おひとりさま」を推していたこともまた、覆しようのない事実です(何しろ当時は氏が責任編集の雑誌まで出ていました)。

 いえ、「おひとりさま教」の教祖なら可愛いもので、むしろ彼女は非婚化を推し進め、「おひとりさま」を生み出した原因そのものとも言える、ということは前回にお伝えしました。
 そこを同記事では「おひとりさま教」などと揶揄(やゆ)するとは不愉快だと「被害者面」しているだけのように、ぼくには思われます。

 正直なところここまででもう論外、という感じなのですが……③についてはさらに疑問を感じずにはおれません。
 要するに色川氏がたった1人の家族である息子と疎遠なので自分が介護をしていた、赤の他人では入院や手術の同意書にサインすることもできないのだとの言い分です。しかし、上野氏が婚姻届を提出したのは色川氏が死亡する15時間前だったと言います。

 また、先述したように、当人はこの骨折に際して入院手術の方針を拒み、自宅で亡くなることを選び、それ以降、3年半の期間を過ごしていたのだから、上の言い分とは明らかに矛盾するのです。
 後は死亡届と財産相続くらいしか、結婚で得られるメリットはなさそうです。色川氏と息子さんの関係については存じ上げませんし、立ち入ったことを言うのも憚(はばか)られますが、それくらいのことはしてあげたら(息子さんは死亡届を出し、色川氏も財産くらい残してあげたら)と思わないでもありません。
 また、上野氏も養子縁組を組んで、普段は「上野」姓を名乗っても、さしたる不都合はなかったようにも思われます。

 当人としては「姓を変える」ことに拒否感があったとのことですが、本名を名乗る場面などそうそうないでしょうし(公式には「上野」姓を名乗り続けていれば誰も気づかないでしょうし)、フェミニズム的には「娘」となって改姓することと「婚姻関係を結ぶ」こととどちらが「けしからぬ」かとなると、後者であるように思います。

《追記》
 説明が不足しておりましたが、この婚姻によって、色川氏の方に上野大吉になってもらったというのが、上野氏の弁です。
YouTube (13178)

『婦人公論』に反論記事を執筆した上野千鶴子氏
via YouTube

15時間の花嫁!?

 そして、これまた前回述べたことですが20年の間、2人は共同名義の家を持ち、上野氏の通い婚と称するべき形とは言え、事実婚の状態にあったと言っていいのです。
 上野氏は結婚制度を激しく糾弾しながら、甲斐甲斐しく料理を習い、相手に食べさせていた。そうした「夫婦生活」を、彼女はどう自分に納得させていたのでしょうか。

 例えばですが、ぼくはここを「単に料理が趣味で、好きでやっていただけだ」などと「言い訳」するのではないかと想像していました。苦しいとは言え、端からは立証困難という意味では、仮にそう言われていたらそこまでだったと思います。
 また、「あくまで学者同士の友情で結ばれていたのみで、恋愛関係にはなかった」と明言されたとしたら、正直「本当かなあ」と、ゲスの勘繰りはしてしまうものの、これも言われたらそれまでだったでしょう。
 ところが同記事では、両者の関係性について色川氏が「親友」と第3者に紹介していたなどとぼかした表現を(恋愛関係があったともなかったとも明言しないままに)するのみ。

 その一方、驚き呆れたことに、この記事そのもののタイトルは「15時間の花嫁」というものなのです。
 まさに女性誌の読者が喜ぶであろう、女らしさに満ちた、ジェンダー規範の美しさを称揚するかのようなタイトルです。もちろん、編集者がつけたものといった可能性はあるものの、いずれにせよ上野氏は「配偶者」に対してのみならず、読者に対しても「女性ジェンダー」を売り物にしているわけで、ここに憤(いきどお)らないのであれば、上野氏はフェミニスト失格と言われても仕方がないのではないでしょうか。

 以上は言うまでもなく、ホンのわずかな記事から窺(うかが)いしれることからの考察に過ぎません。
 他にも同記事には書けない様々な事情や個人の感情があることでしょう。
 先の両者の関係性についても下手に居直るのではなく、曖昧な表現に留まっていること自体が上野氏の誠意とも、「余計に怪しい」とも言えるわけですが、いずれにせよそこに(仮に「親友」関係だったのだと称するにせよ)男性に尽くすことに対して恋愛めいた感情はなかったのか、相手の男性性に対して甘えていた面は(ないし時にはその男性性に憤ったりしたことは)なかったのか、だとしたらそこはどう評価すべきなのかなどの内省がなかったとしたら、やはりこれまた「フェミニスト失格」案件なのではないかとぼくには思われます。
 それとも、それをつまびらかにしないままに結婚を否定し続けてきたことについて、全く非はないというのが上野氏のお考えなのでしょうか。まあ、彼女はかつても「戦略として本当のこと、データを出さないこともある。」とおっしゃっていたのだから、本件もそれに該当するのかもしれませんが(『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』75p・大意)。

 本件を見ていてふと思い出したことがあります。
 もう10年以上前、上野氏がNHK総合で放映していた『爆笑問題のニッポンの教養』の「女と男“仁義なき戦い”」に出演していたのです。
 爆問の二人、そして上野氏が秋葉原のメイドカフェでジェンダーを語るという趣向なのですが、そこで上野氏はコスプレで登場したのです!

 メイド服……ではありませんが、アイドル(AKB48?)風のチェックの制服姿で、「女らしい格好をすれば世間は女と認める。ジェンダーとはフィクションなのだ」とのおなじみの説法をしていらっしゃいました。
 しかし上野氏が可愛らしい格好をしたところで、AKB48のように扱ってもらえるのかというと、それは疑問としか言えず、画面に立ち現れた上野氏は100万遍の言葉よりも明瞭に、ご自身の机上の空論が誤りであることを視聴者に直感的に悟らせてしまう結果となっていたのです。

 正直、上野氏も(勘繰るなら調子に乗ったスタッフにやらされたのかもしれませんが)そうした趣向は断固拒否すべきだったのではないでしょうか。
 が、この時、上野氏も可愛らしいコスプレをすることに女性としてそれなりに心ときめくものがあったのではないでしょうか。以前も書いた記憶があるのですが、上野氏はマスコミ取材の前に念入りに化粧をなさっているそうですし。
 しかし、あるいはですが、彼女はそこを「あくまでフェミニズムの理論を語るためだ、そのためにやむなく着ているのだ」と「言い訳」することで、不問にしていた……のかもしれません。
gettyimages (13179)

15時間の花嫁とは――!?(画像はイメージ)

「ツンデレ」こそがフェミニズムの本質

 もう一つだけ例を挙げましょう。
 上野氏の1988年の著作『女遊び』は表紙にも文中にも女性器をモチーフにした「フェミニズムアート」が掲載され、上野氏は女性器名称を連呼して、以下のように言うのです。

《こんなふうに書いているとわたしは、他人が驚くからワキ毛を見せる、学会の黒木香みたいな気がしてくる》(10p)

 黒木香と言われても、もはや多くの方がご存じないことでしょうが、バブル期に人気を博していたAV女優さんで、脇毛を売りにするという奇妙な方でした。

《おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはおまんこと言い続けるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのおまんこを見つめ、描き、語りつづけなければならない。そしてたくさんのおまんこをとおして、“女性自身(わたしじしん)”が見えてくることだろう》(20p)

 どうやら上野氏は女性が女性器名称を叫ぶことで、男性たちが衝撃を受ける、そうしたことを通して女性たちが性的主体を取り戻すことができる……といった考えを抱いていたようです。
 そして、上野氏は同書のあとがきで以下のように言うのです。

《『女遊び』というタイトルから、もちろん、あっちの方の女遊びを連想して、まちがって本を買っていくスケベエなオジサンもいるかもしれない。誤解から一冊でも多く本が売れたらいい、と思ってはいる。だけど、オジサンたちも、「女が遊ぶ」遊び方を見て、遊び方のノウハウを少しは学んでくれるだろう》(274p・原文では「あっち」に傍点)

 お恐れながら、誤解でこの本を買ったオジサンは1人もいらっしゃらないのではと愚考する次第です。オジサンだってそれなりの歴史を費やして自らの欲望と格闘してきたのだから、安易なエロネタですぐに男性の気を引けるというのは、AKBのコスプレをすればAKBになれると思い込むくらいに世を舐めた考え方です。
 ただ、この当時(というのは上野氏の活躍した80年代から90年代後半ですが)の上野氏の言論には、常にこうした「オジサン」への興味で(お堅い媒体で描かれる、「保守反動オヤジ」を糾弾するものも含め)満ちていたものです。
 この時期の上野氏の文章から感じられるのは、そうした「オジサン」への興味を「フェミニズムを語る」というタテマエの下に押し隠し、自らもその「タテマエ」に呑まれてしまっているという、そんな姿です。

 今回の記事も、あるいはそうなのでは……と、ぼくには思えます。
 日本の法制度が家族主義なのが悪いのだ、私は犠牲者だと「言い訳」しつつ、まさに「15時間の花嫁」という恋愛映画のようなストーリーのヒロインになることに快感を感じていた自分を、不問にしていた……そんな想像をつい、したくなるのです。
 前回記事でぼくは上野氏の態度を「ツンデレ」と評しましたが、まさにそうした「ツンデレ」こそがフェミニズムの本質だったのではないでしょうか。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ「兵頭新児の女災対策的随想」を運営中。

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