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入籍していると伝えられた上野千鶴子氏
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「上野千鶴子結婚報道」に関して散見された評をいくつかご紹介し、検討を加えてみたいのですが、まず最初にそれらを分類しておきましょう。

①「著作と著者とは別だ」論
②「上野氏はもともと言うことの変わる人だ」論
③「説明責任がある」論
④「所詮はビジネスであった」論

 報道直後ということもあり数は少ないですが、恐らくこれ以降出てくる論調もこれらのいずれかに回収されるのではないか……という感があるので、順に検討していきましょう。

①「著作と著者とは別だ」論

 脳科学者として著名な茂木健一郎氏はそのような主張をしていました。

《人は「イデオロギー」で生きるのではない。》

 とのことで、そりゃそうかもしれませんが、思想家が発信してきた思想とあまりにも異なる行動に出たら、批判は免れないでしょう。
 仮に上野さんが何らかの事情で今の地位を失い、経済的に困窮し、やむを得ず結婚――というのであれば同情の余地がありますが、彼女は基本、ブルジョワの出であり、今もタワーマンションに住まい、高級車を乗り回していることで知られています。
 もっとも、茂木氏は結婚そのものをよきことであるかのように語っているのですが。

《今回のことで、「おひとりさま」の生き方を説いてきた上野さんを批判したり、「ビジネス左翼」という言い方をされる方もいしゃるけど、ぼくはむしろ、パートナーでいらした色川大吉さんのことを含め、素敵な生き方だとその人間らしさに心を動かされた方である。》

 茂木氏の言い分は(ほとんど何も言っていないに等しいですが、あえてアハ体験的に意味を見出すなら)上野さんが恋愛や結婚という人間的な営みを行っていたことを称揚するといったニュアンスです。
 が、ならば上野さんの今までの主張は完全に撤回していただかなければ道理があいません。
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茂木健一郎氏のツイート

②「上野氏はもともと言うことの変わる人だ」論

 これは①のバリアントといった感じですが、官能作家でフェミニストでもある安達瑶氏の主張です。
 
 ①と同様の理由から、これも苦しい言い訳にしか聞こえませんが、ただ、上野さんの主張がその場その場で違う、軸のブレたものであるということについては、実のところ今までも指摘され、批判のされてきたところではあります。小浜逸郎氏の『ニッポン思想の首領たち』(宝島社)における詳細な分析、また大塚英志氏も同様な指摘をしていましたが、ぼく個人の雑な印象では、上野さんは取材やオファーに対して、その場その場で感情の赴くことを語っていただけのように思われます。

 彼女は「女の時代」と呼ばれたバブル期、あちこちの雑誌でお呼びがかかっており、メディアの要求する「強い女」を嬉々として演じておりました。ポップな雑誌では「バブルに沸く日本でワガママになった女の子に悲鳴を上げる男の子に、恋愛の作法を教えてあげる優しいお姉様」みたいなキャラづけで企画記事に登場していました(これは比較的最近の『朝日新聞』の人生相談などにも共通する彼女の「芸風」ですね)。
 ところが『現代思想』など硬い雑誌では古拙で頑迷なフェミニズム(女性は差別されている、男の奴隷だ!)を語っていたのだから、矛盾もいいところだったのです。

 当時は「女性勝利」論が求められていたのと同時に、「でもまだ女性は差別されているんだ」論も語らねばならぬというダブルスタンダードに、上野さんに限らずフェミ全体が縛られていました。そしてまたこれは、ある程度「反差別」論者が根本的にはらむ矛盾でもあります。メディアに登場する以上、「○○を差別するあなたは時代遅れですよ、むしろあなたこそ少数派ですよ」といったアジテーションが、どうしても求められますから。
 しかしそうした「芸風」はいずれも男に一泡吹かせ、マウントするという点では一貫性があったわけです。

 上野さんは脱成長論を説き、「平等に貧しくなろう」などと称しつつ、上に書いたように自らは豊かであることを批判され、「赤い貴族」だとも言われました。本件もそれと全く同じ、欺瞞に満ちたものであると同時に、しかし「ただ自分の快楽のためにやったこと」との意味で、彼女にとっては矛盾はなかったのでしょう。
 またこれは余談ですが、茂木氏しかり安達氏しかり、これらの物言いにはどこか左翼特有の「作家などにはアウトロー的に振る舞う特権があるとして、その権力性に陶酔する」心理を感じてしまい、いただけません。
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安達瑶氏のツイート

③「説明責任がある」論

 近年、「オタクに優しいフェミ」といった立ち位置で頭角を現している、現代美術家でフェミニストの柴田英里氏は本件に憤っています。

《文春の上野千鶴子の結婚報道については、上野さんは結婚制度や既婚フェミニストに対してさんざん批判してきたのだから説明責任はあると思う》

 これは先に述べたように主張と行動に齟齬(そご)があるとの指摘であり、全くもっともというしかありませんが……ただ、読み進めるうちに、どうにも頭にクエスチョンマークが浮かんできます。

《文春記事は、「おひとりさま主義・結婚制度反対派フェミニスト上野千鶴子すら結婚するのだから結婚は良いもの」という保守的な結婚礼賛の趣があるからなおさら》

《文春の記事は、フェミニストではない一般読者には、「おひとりさま主義・結婚制度反対派フェミニスト上野千鶴子すら結婚になびくのだから結婚(制度)は良いもの」「ロマンチックな老いらくの恋」という受け止めかたをされている側面がある。この一点をとっても、上野千鶴子には応答責任があると思う》

 そう、上野さんについて、いささか『おひとりさま』シリーズばかりがクローズアップされている感がありますが、そもそも彼女は柴田氏の指摘通り、まず結婚制度そのものを根本的に批判してきました。
 例えば、これもまた日本のフェミニストの代表と言うべき小倉千加子氏との対談、『ザ・フェミニズム』(ちくま文庫)を一読すると、ひたすら2人がかりで結婚制度を全否定する言説を繰り広げています。

《別姓だろうがなんだろうが、要するに異性愛のカップルに法的な特権と経済的な保護を与える、という制度そのものがナンセンスやからやめなはれ、と。で、異性のカップルで、二人で末永く仲良く、お互いにルール破りをしないで、一穴一本主義でやりたい人は趣味でやったらよろし。そんなものに法的な届け出や保護を求めなさんな、ということですね》(92p)

《リブの頃には、「結婚はリブの敵だ」、ってはっきり言ってたじゃない? たんに主婦的状況の閉塞を指すだけじゃなく、家事労働の負担を言うだけでもなくて、結婚というもの、一夫一婦制というもの、もっとはっきりいうと、対幻想そのものが持っている女性に対する抑圧性を、リブははっきり指摘しました》(132p)

 この「リブ」は「ウーマンリブ」、つまり60~70年代にかけてのフェミニズム運動のことでしょう。対談相手の小倉氏は「私の嫌いなものは結婚しているフェミニスト」と書いてフェミニストたちからも批判されたことがあるのですが、そうした人たちを上野さんは「自称フェミ」と称して全否定。

《「リブの原点だったものがどこに消えたの?」と思った。どうしてなんでしょう》(133p)

 また、辛淑玉(シンスゴ)氏との共著『ジェンダー・フリーは止まらない!』(松香堂書店)においては、「女は嫁に行くのが一番」のような信条を「ユダヤ人はドイツ人より人種的に劣っている」と言うのと同様で、許されない(16~17p。大意)としています。

 上野さんはそうした考えは思想信条の自由の埒外にあるとまで言っており、徹底して結婚そのものを否定している、と称する他はありません。
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柴田英里氏のツイート

「ヴィーガンが肉を食っていた」と同じ

 上野さんの今回の「入籍」報道は遺産相続のための養子縁組、つまり結婚を意味しないかもしれない、との指摘もなされています。しかし彼女は相手の男性と1997年に共同名義の家を購入していたと伝えられ、上野さんの「通い婚」とはいえ事実婚と言っていい関係にあったと考える他はありません。つまり「結婚」していたことには変わりがないことと共に、上にもあるようにフェミニストにしてみれば何より「国家から干渉されること」そのものが許せないのですから、養子縁組だったからといって普段の主張と矛盾していることには、変わりがありません。

 その意味で、確かに柴田氏の怒りはもっともなのですが(何しろ、上の記述は全てご当人が「結婚」生活をしている時期に書かれたものです)、彼女の発言は、ぼくには「仲間内の嘘がバレた、ヤバい」との悲鳴に聞こえるのです。
 上野さんすらも結婚していたのだから、それはもう、自分たちの今まで築いてきたロジックに重大な欠陥があったとでもするしかないのではないでしょうか。
 しかし柴田氏はそこを検討するでもなく、ただ「結婚を肯定するとはけしからぬ」と言うのみ。正直、それではこれ以降のフェミニズムの発展など、期待できないでしょう。

 今回の件を、「ヴィーガンが肉を食っていた」と喩(たと)えた人がいます。
 言わば茂木氏の主張はそれを「食べたっていいじゃないか」と肯定したものであり、柴田氏は「食べちゃいけないはずじゃなかったのか」と難じている。
 栄養学的に言ってヴィーガンの信条は推奨されるものではありませんから、そこだけを取り出せばひとまず、茂木氏は正しい。上野さんが肉料理を食べてご満悦の様子を微笑ましいと感じる茂木氏の感性は、一般論としては頷(うなず)けます。そしてまた、柴田氏がやたら保守だ何だと『文春』が悪いかのように言っているように、今回、意外に保守的な人々も上野さんに寛容な気もします。
 しかし、仮に上野さんがタンパク質不足で今にも栄養失調を起こしそうであったと仮定した時、まずは肉を食べるべきではあるものの、その後に(柴田氏が言うように)説明責任を果たしてもらわねばなりません。

 バブル期に女性の社会進出が称揚されたのは、直接的には安い労働力の確保のためだったかもしれませんが、それを理論面でバックアップしたのは明らかにフェミニズムでした。
 しかし女性たちも別に「社会進出」したいと思っているわけではありません。例えばソニー生命の2022年の調査では、「本当は専業主婦になりたいか」との問いに20代女性の43.2%が「そう思う」、33.3%が「そう思わない」と答えています。「管理職への打診があれば、受けてみたいか」に至っては「そう思う」は24.1%、「そう思わない」は52.5%です(年代が上になるにつれ、後者の%が上がっていきますが、これは当然、現実を鑑みてのことでしょう)。
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上野氏の入籍事実は「ヴィーガンが肉を食っていた」と同じ?(画像はイメージ)

1冊の本に瞞(だま)された者が馬鹿

 女性たちが社会進出したがためにパイを奪い、男性たちの収入は減った。しかし男性を養おうという女性は極めて例外的。そのため、結婚して専業主婦に収まるというルートが極めて難しいものになった。仮に景気がよくなっても女性に上昇婚への極めて強い志向がある限り、劇的な改善がなされるとも思えない(女性は下の男性とは結婚したがらないので、男女が「平等」である限り、非婚化は続く)のです。
 つまり、フェミニズムこそが女性たちから「結婚」「専業主婦」というルートを奪い、そして、だからこそフェミニストが増えたというわけです。

 何しろ最近、『週刊文春WOMAN』というまさにフェミ雑誌が発刊され、コンビニに置かれています。上野さんもそこに登場し、「いまだかつてなくフェミが隆盛を見せている」と語っていました(その意味で、今回の『文春』によるスクープは、何やら裏を感じないでもないですが……)。
 フェミニズムのために婚期を逃したワープア女性たちは、フェミニストになるしかなくなります。フェミニズムが唯一、「お前の不幸はお前のせいではない、男たちのせいなのだ」と心を慰めてくれる存在なのですから。

 つまり、上野さんは女性たちを職場へと追い立て、「おひとりさま」を量産した張本人とも言える。『おひとりさま』シリーズだけを取り立て、「1冊の本に瞞(だま)された者が馬鹿だ」との自己責任論に回収するのは、ちょっと無理があるわけです。
『おひとりさま』シリーズは(そして上の『週刊文春WOMAN』は)、上野さんの撒いたフェミニズムという種が育ったことの証明であり、それら書籍や雑誌はまさに上野さんによる新たなるフェミニストたちを刈り取る「収穫」作業であったのです。

 ところが、上野さんは20歳近く年上の、また学者として高い地位にある「夫」を喜ばせるため、甲斐甲斐しく料理のつくり方を習っていたと言います。フェミニズムが打破しようとした、そうした男女のジェンダーに忠実すぎる程に忠実な結婚生活を、彼女はまさに実践していた。ジェンダー規範に逆らうフェミニズムこそが過ちだったと、身をもって証明していたのです。

 先の喩えを続けるならば、ヴィーガンの指導者が信者たちから搾取(さくしゅ)したカネで肉を食い尽くしていた、とでもいった状況です。まずは上野さんに肉の買い占めをされたがため、信者たちはやむなくヴィーガンとなった。しかしそのため痩(や)せ衰え、医者に言われ慌てて肉を買いに走ったものの、上野さんの買い占めのせいで、タンパクの摂取は叶わない。まあ、後はコオロギでも食べていただくくらいしか、手はありません。
 先の柴田氏の「説明責任」とは、いまだ肉を食わなくてもいいのだと思い込んでいる柴田氏に対してではなく、タンパク不足で今にも死にそうな者たちに対し、果たされるべきものではないか――それが、ぼくの柴田氏に感じた違和感です。

④「所詮はビジネスであった」論

 長くなりましたので、ごく簡単に。
 
 この論調はあちこちで見られましたが、飯山陽氏も「飯山陽のいかりちゃんねる【だまされた!】上野千鶴子氏はビジネス左翼?!」において怒りを吐露していました。
 確かに学者である上野さんにとってフェミニズムがビジネスであったのは事実でしょう。

 また、先にも挙げたように上野さんは言うことのコロコロ変わる人でもあります。
 しかし同時に、上野さんの語るフェミニズムが、何ら切実さを伴わないお為ごかしだったというのにも、無理があります。彼女は常に男性への憎悪を発露してきた人物なのですから。
『バックラッシュ!』ではオタクを見下して、

《ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい。そうすれば、ノイズ嫌いでめんどうくさがりやの男を、再生産しないで済みますから》(434p)

 と主張し、『日本のフェミニズム 男性学』(岩波書店)においては以下のようなトンデモないことを言っています。

《かれらが「男らしさ」から降りないのは、ほんとうは「男らしさ」から利益を得ているからではないか。たとえ胃潰瘍になっても「カローシ(過労死)」をしても、コストにみあう報酬が還っているからではないか?》(4p)

 男性たちは企業社会に殺されながら、その生命に見あうほどのメリットを得ているのだそうです。しかし同書の後半では以下のようにも言っています。

《「カローシ」という言葉は、いまや「スキヤキ」「ジュードー」とならんで、翻訳なしで流通するニホンゴのひとつになった。日本の男たちの生き方は、女にとってすこしもうらやむべきものではない》(216p)

 まさにデタラメと評する他はありませんが、唯一確かなのは彼女の中に、揺るぎない男性への憎悪、蔑視があること。そしてそれが実のところ、男性への愛着のツンデレ的裏返しであることは、上野さんが先に述べたようなメディアの求める「強い女」像を嬉々として演じていたことからも、明らかでした。

 そう、上野さんは決して「ビジネスフェミ」などではなく、切実な内的必要があってフェミニストとして生きてきた。ところがそれは同時に、女性ジェンダーに忠実な結婚生活と、何ら矛盾するものではなかった。何となれば、フェミニズムそのものが、最初から「ツンデレプレイ」でしかなかったのだから。
 そうしたことだったのだと、思います。
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飯山陽氏も怒りを吐露(「飯山陽のいかりちゃんねる【だまされた!】上野千鶴子氏はビジネス左翼?!」)
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兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ「兵頭新児の女災対策的随想」を運営中。

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