曖昧にされた国の責任

 原子力利用は、政治主導の「明確な国策」としてスタートした。アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用演説」を機に、中曽根康弘・元首相(2019年11月、101歳で死去)ら政治家が瞬時に動いた。1955年12月には原子力基本法が成立、科学技術庁長官(当時・国務大臣)が委員長を務める原子力委員会が設置され、原子力政策の「司令塔」の役割を担い続けた。この間、日本は原子力利用を国づくりの基礎とするべく、米国から多くの技術、知識を学んできた。
 ところが、時代とともに「国策民営」へと変貌していく。中東原油にどっぷり依存していた日本経済、国民生活は、2度にわたる石油ショック(1973年と1978年)で大きな打撃を受け、燃料費の高騰で電気料金は2倍に跳ね上がった。政府や電力業界は「脱石油政策」の柱として、原発の新増設に取り組んだ。それは、政策、制度面の対応は国、運用面は事業者が担うという構図につながる。原発をめぐる責任の所在を見えにくくしていったプロセスでもある。
「明確な国策」から「国策民営」への流れを決定づけたのは、2001年1月の中央省庁再編。原子力委員会の実質的業務を担ってきた旧科学技術庁が解体され、研究開発部門は文部科学省、安全基準や規制を担う原子力安全部門は経済産業省に新設された原子力安全・保安院に移管。エネルギー政策全体を担当する資源エネルギー庁と保安院が経産省の傘下に置かれ、幹部人事も経産省一体で行われた。

 こうした歴史の中で福島事故は起きた。第1次的な責任は東京電力にあるものの、巨大津波による全電源喪失を想定せずに運転させていた責任は保安院にあると専門家は指摘する。米国では同時多発テロ(2001年9月)を受けて米原子力規制委員会(NRC)が「全電源喪失対策の強化を含む指令」(B5b)を非公開で出し、対策強化が実施されていた事実は見落とせない。国会審議などでも取り上げられているが、NRCは二度も保安院にこの対応を伝えていたという。
「重要情報」は電力業界に周知されることなく、事故に至った。規制当局の責任論のポイントはここにある。だが、福島事故の損害賠償をめぐる民事裁判、強制起訴された元東電首脳らの刑事裁判でも、B5b問題が「争点」に取り上げられた形跡はない。
 旧民主党政権は、2011年5月17日に開かれた原子力災害対策本部(本部長・菅直人首相)で「原子力政策は資源の乏しい我が国が国策として進めてきたもので、被災者は国策による被害者。国が前面に立ち責任を持って対応する」との基本方針を決めた。ところが、そのころのメディア報道を振り返ると、政府が国に責任はなく東電の責任だとアナウンスしていた印象が濃い。「国策」と明言しながら「責任なし」では筋が通らない。

 政府は責任の整理がつかないまま、東電の実質国有化と電力システム改革という名の自由化を進めた。長期的視点が求められる原子力政策と目先の利益が優先される自由化とは相容れない性格を持つ。地球温暖化対策の重要性が叫ばれる中、脱炭素・安定電源と位置付けられる原発を排除するのは非現実的。原発に全く触れず、温室効果ガス削減を語るのは、期待を込めた空想論の域を出ない。
 問題の本質は、「国の責任論」。そこに踏み込めないから、政策や目標のつじつまが合わない。真の原因を示してブレークスルーを実行・実現するしかない。石油ショック後の1977年、当時の福田赳夫首相が打ち出したエネルギー省構想が浮かぶ。総合的なエネルギー政策を立案、責任を明確にした実行力ある組織の創設を考えるときではないか。

日本エネルギー会議:代表・柘植綾夫、発起人代表・有馬朗人

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