【谷本真由美】個人主義という「わがまま」【コラム:日本...

【谷本真由美】個人主義という「わがまま」【コラム:日本人のための目覚まし時計】

 イギリスでトム·ムーア卿にまつわる〝二つの美談〟が話題となっている。ムーア卿は第二次大戦中に西ビルマとスマトラで戦い、帰英後は世界最大の戦車博物館があることで有名なボービントンの軍用車両戦闘学校で教官として勤務した。戦後はコンクリート会社を経営し富豪となった。

 そんなムーア卿は昨年末、コロナに感染した。そして今年2月に亡くなってしまう。イギリスでは高齢者にワクチンを優先的に接種していたが、ムーア卿は肺炎の薬を服用していたため、ワクチン接種ができなかったのだ。

 ムーア卿はロックダウン中、広大な自宅で過ごし、外部との接触を極力避けていた。しかし昨年12月、カリブ海のバルバドスに家族で旅行した。その旅行中に感染したのではないかといわれている。

 当時のイギリスは三度目のロックダウン直前で、海外渡航は禁止されていなかった。ムーア卿も帰国時にPCR検査をしており、そのときは陰性だった。しかし、空港は「ウイルス培養器」と呼ばれるほど感染する危険性が高い。

 海外旅行は違法ではなかったとはいえ、国内の移動すら自粛すべきだという空気があった。テレビや新聞では繰り返し、近隣の街に行くのも控えるよう呼びかけられていた。

 そんな状況にもかかわらず、ムーア卿の家族は旅行を優先してしまったのだ。コロナが猛威をふるうなか、100歳の高齢者を海外に連れて行くとは、命知らずにもほどがある。日本ならワイドショーはもちろん、SNSでバッシングに晒されるはずだ。

 驚くべきは、イギリス人の多くが「家族で最後の思い出をつくれて良かったね」という反応だったことだ。メディアも旅行について批判したり疑問を呈したりせず、ムーア卿への非難はほぼタブーのような状態になっている。
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トム・ムーア卿
 イギリス人がムーア卿の旅行を責めない背景には、「個人の意思を尊重すべき」という西洋特有の個人主義的な考えがある。

 自分が感染するリスク、さらには他人を感染させてしまうリスクがあっても、自分のしたいことをすればいいという発想なのだ。「個人主義」と言えば聞こえはいいが、我々からすれば単なる「わがまま」にほかならない。

 ムーア卿は昨年4月、医療現場で働く人たちを支援するために募金キャンペーンを始めた。100歳の誕生日までに自宅の庭を100往復すると宣言したところ、歩行補助器を使いながら歩く姿が話題となり、最終的に47億円もの募金を集めることに成功した。

 募金は国立病院機構(NHS)をはじめとする医療機関に寄付され、7月にはエリザベス女王からナイトの称号を授与された。百歳の老人がNHSに寄付したことについて、ジョンソン首相は「ムーア卿が世界の希望の象徴になった」と称賛し、メディアももてはやした。

 だが待ってほしい。公共の医療機関が個人の寄付に助けられている状況は相当危うい。しかし、その点を議論すらしてはならない空気があるのだ。果たして、ただただ「素晴らしい」と讃えるばかりでいいのだろうか。

 イギリスの医療はNHSによって支えられている。国保さえ払えば誰でも無料で利用でき、そのシステムは日本も参考にしたほどだ。しかし近年、NHSは予算不足に悩まされ、医療の質も低下している。
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NHSで支えられている英国の医療
 簡単な検査でも2カ月、長ければ半年も待たされ、発展途上国と見紛うような設備しか置かれていない病院もあり、衛生面でも日本の病院とは雲泥の差だ。人為的ミスで死ぬ必要のない人が死んでしまうケースも少なくない。医師や看護師は旧植民地出身の外国人が多く待遇も悪い。まさに「安かろう悪かろう」「タダより高いものはない」を体現している。

 イギリスでは、コロナに感染した高齢者を自宅に放置することが少なくない。病院ではマトモな治療など期待できないし、病院から老人ホームに送り返されることも多いからだ。イギリスは日本に比べてコロナの死者が20倍近いが、貧弱な医療体制も原因の一つだろう。

 日本のマスコミは相変わらず日本政府のコロナ対応を批判する一方、「医療崩壊していない欧州」を称賛している。たまにはイギリスの惨状に目を向けてみてはどうか。
谷本 真由美(たにもと まゆみ)
1975年、神奈川県生まれ。シラキュース大学大学院にて 国際関係論および情報管理学修士を取得。ITベンチャー、コンサルティングファーム、 国連専門機関、外資系金融会社を経て、現在はロンドン在住。日本、イギリス、アメリカ、イタリアなど世界各国で就労経験がある。ツイッター上では「May_Roma」(めいろま)として舌鋒鋭いツイートで好評を博する。

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