【日下公人】リーダーの在り方を考える

【日下公人】リーダーの在り方を考える

 ハンス・モーゲンソーは同盟国になる条件を、組めば必ず勝つ方に入ることだ、と書いている。1番早く参加を表明することは、それほど大事なことではないらしい。

 山本五十六は人間は2種類に分かれると考えていたと思う。リーダーとフォロワーだが、実力もないのに時流に乗って何もかも自分の手柄のように言う人もいたので、3種類にしてもよい。

 ゼロ戦の登場について国民が何と思ったかを考えると、初期は純国産とはきっと信じなかった。外国から買った技術で出来上がっていると思った人がたくさんいて、上海事変の頃は〝敵襲〟とはアメリカ機かソ連機と考えていた。日本機が雨でも飛ぶとは信じなかったらしい。主翼も胴体も羽布張りが日本製で、外国製は金属製と思いこんでいたのである。

 ゼロ戦は皇紀2600年に制式採用されたものだが、全金属製だから日本もようやく外国に追いついたと安心したものである。

 ここまでは山本五十六が日本海軍航空隊をつくったと言える。
gettyimages (4265)

山本五十六
 それから昭和18年まではゼロ戦の時代で、昭和18年の夏にグラマンF6Fが出現するとゼロ戦は引退となった。いや、正確には引退しないで第一線で孤軍奮闘した。

 責任は昭和20年まで使い続けた上級司令部の方にある。 

 後継機はまだか……だが、それは堀越二郎への注文集中となった。で、堀越は病気になった。上級司令部はその間、ゼロ戦の後継機を求めて悪戦苦闘している。ナルホドと思わせるものは〝誉〟エンジンに生産を一本化しようとした努力で、それがダメなときは〝降伏する〟ということがどこにも書いてなかった。また、一本化したら必ず勝てると言う人もいなかった。

 日本はひどい無責任国で、それを全部知っていたのは山本五十六だが、その人は自分の名誉を大事にして単に自殺する道を選んだ──その場所はブーゲンビル島だったと思っている。

 雨天でも飛べる飛行機をつくったことは大功績だが、終戦への道をつくらなかったことの責任は大きい。阿南惟幾陸将1人にそれを負わせた。

 それから自分のまわりの人をたくさん道づれにしたことも大きい。海軍の人は淋しがり屋だったと思う。最後に一言つけ加えると、〝ゼロ戦はなぜ昭和18年以降急に弱くなったか〟について人の言わないことを言うと、〝昭和14年までは自由貿易で日本はカネさえ出せば各国の特許を買えた〟ということがある。

 ゼロ戦は昭和14年現在で世界の特許を買い集めたもので、昭和15年から何もかも国産の時代になると日本は突然弱くなった。

 現在の中国vs日米の戦いも同じことになるだろうと思っている。安ければよい……ではない時代を生き抜く日本の力は、赤ん坊の数とその育て方にあると思っている。

 それから成人にもっと活躍の場を与えることが急務である。また、ハンス・モーゲンソーは、同盟国には名誉ある同盟国と不名誉な同盟国の2種類があるとも言っている。

 名誉ある同盟国は、その加入によって同盟全体の勝利が約束される国で、さもないのは勝敗には関係なく単に自分のこと──たとえば戦後の分配に参加する利益だけ──を考えて右往左往する国のことだ、と言っている。

 例えばイタリアは、日本の敗北が近いとみるやたちまち日独伊の三国同盟を破り捨て、連合国の側に立って日本に宣戦布告した。そして戦後は、戦勝国になりすまして日本に賠償金を要求した。

 呆れたものだが、日本は黙って支払った。カネにはキレイすぎる国で、闘うよりは支払った方がよいとするが、その最終責任は誰が負担するかはあまり考えない国である。

 とも言えるし、よくそれだけ続いたものだとも言える。実力が物をいう時代が来たという前に、実力とは何かが変化していることに敏感でなくてはならない。

 トランプのような商売出身の人をリーダーに持つか、それとも家康のように商売も戦争も徳川家を中心に考える人がいいかは、長い目で歴史を考えないとよくわからないのである。

 徳川は自家のことしか考えなかったので、天下は260年しか続かなかった。
日下 公人(くさか きみんど)
1930年生まれ。東京大学経済学部卒。日本長期信用銀行取締役、㈳ソフト化経済センター理事長、東京財団会長を歴任。現在、日本ラッド、三谷産業監査役。著書に『ついに日本繁栄の時代がやって来た』(ワック刊)。

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