デヴィ夫人のとんでも発言

 故・ジャーニー喜多川の炎上が止む気配もありません。
 同氏が事務所所属の少年へと性的虐待を繰り返していたとされる問題ですが、最近も被害児童は6000人に及ぶのではないか、また作曲家、服部吉次氏も8歳当時に被害を受けていたなど、驚くべき話題が次々に飛び出しています。

 そんな中、タレントのデヴィ夫人が、7月18日のツイッター、また5月21日放送の「サンデーLIVE!!」で、ジャニーを擁護するとともに、同事務所の東山紀之さんを批判し、それがまた炎上を引き起こしました。夫人は同氏の功績を称えるとともに、恩を仇で返すような、また死人に鞭打つような真似をすべきでないとして、東山氏を苛烈に責めたのです。
 夫人はジャニーと懇意だったようで、発言は親しい友人に味方したいという思いの先走りという側面もあったことでしょう。夫人の批判はまた、国連人権理事会が介入しようとしていることにも向けられました。確かに(そもそも火が着いたきっかけがBBCの報道であったこと含め)外圧がなければ動こうとしない日本人の体質には腹立ちも覚えます。

 とはいえ、では夫人の発言に理があるのかとなると、もちろんそんなわけはない。いかに功績や恩があろうとも、(一連の告発が事実とするならば)ジャニーの悪辣(あくらつ)な行為がそんなことで許されるはずもないのですから。
 が、ぼくは本件において、夫人が「ジャン・コクトーがジャン・マレーを愛したように、そのような特別な世界、関係性というものはある」といった発言をしたことが気になりました。これはフランスの詩人、コクトーが俳優のマレーと同性愛関係にあったことを指しており、そうした天才的な人物の間には余人にはうかがいしれぬ関係性があるものだ、一般ピープルが口出しをするべきでない、といった意見なのですが、ぼくはこの発言に既視感を感じ、非常に嫌な印象を受けました(もっともこの両者が出会ったのは成人後なので、そもそも話が全然違うとしか言いようがないのですが……)。

 というのも、以前もフェミニストは小児愛者を肯定する傾向にある、との記事を書かせていただきましたが(「フェミを推進したいあまり、トンデモ性愛までを許容するヤバい人たち」)、フェミに限らず、左派の人たちがそうした主張をする時に口にするのが、この種の物言いだからなのです。
 夫人は児玉誉士夫(こだまよしお)との関係が噂されるなど、必ずしも左寄りの方ではないはずなのですが、この主張そのものはそれとそっくりであるように、ぼくには思われるのです。
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デヴィ夫人のツイート

ああ、詭弁だらけ

 詳しいことについては以前の記事をぜひ、お読みいただきたいのですが、ここではそうした小児愛を擁護する時に使われる詭弁(きべん)を思いつくままにリストアップし、ご説明していきたいと思います。
 ちなみに、ジャニーの好んだ少年は中高生が多く、厳密には小児愛=ペドフィリア(13歳以下の子供への指向)ではなく、エフェボフィリア(思春期の子供への指向)ではないかと思われるのですが、後者はあまりこなれた訳語もないので、ここでは「小児愛」で統一したいと思います。
 もし、あまりご興味のない方はデヴィ夫人に近しい「詭弁6」だけでも読んでいただければ幸いです。

 詭弁0:異性愛支配社会ガーーーーーーーーーー!!!
 詭弁1:同性愛者差別ガーーーーーーーーーー!!!
 詭弁1_1:小児愛者差別ガーーーーーーーーーー!!!
 詭弁2:フリーセックスガーーーーーーーーーー!!!
 詭弁3:キリスト教ガーーーーーーーーーー!!!
 詭弁4:子供の自己決定権ガーーーーーーーーーー!!!
 詭弁5:伝統文化ガーーーーーーーーーー!!!
 詭弁6:文化人モーーーーーーーーーー!!!


 ――以上のような感じでしょうか(ちなみに「ガーーーーーーーーーー!!!」とか「モーーーーーーーーーー!!!」とかいうのはヒステリックに反論する様子を揶揄(やゆ)したネットジャーゴンです)。

 まず「詭弁0」は主にフェミニストによるものです。幾度かお伝えしていますが、フェミニズムによれば「異性愛」そのものが男性によって女性に強制された文化的虚構であり、女性を抑圧するためのもの、それゆえに否定されるべきものなのだ、とされます。そんな悪しき「異性愛」に比べれば、「小児愛」の方がまだマシ……何とも奇妙なリクツですが、とにもかくにもフェミニズムはそこまで異性愛を(つまり男性を)憎むものなのです。

 当然、「詭弁1」も、そのバリアントと言えます。『薔薇族』の編集長、伊藤文学氏は長年、少年愛者と子供とのセックスを肯定し、称揚し続けてきた人物なのですが、フェミニストが同氏を擁護した(そうした問題人物であることを、いかに指摘されようと頑迷に否定し続けた)ことは以前にもお伝えしました(「ジャニー喜多川さん報道を通じて見えるフェミニストたちの真情」)。
 フェミニズムとLGBT運動家は思想的にも政治的にも非常に近しく、両者は「異性愛」というこの世のスタンダードを否定したいという、非常に強い情念に支えられています。
 もちろん、「同性愛」と「小児愛」は全くの別物としか言いようがないのですが、少年を性対象にしたケースである場合、これを批判すると一定層の人たちが「同性愛者への差別だ!」と言い立てます。デヴィ夫人の言も、これと同様なのではないでしょうか。

 また、「詭弁1_1」はそのさらなるバリアントと言えましょう。フェミニストの柴田英里氏やネット論客である青識亜論(せいしき・あろん)氏、白饅頭(御田寺圭)氏は小児愛者を自らのセクシュアリティに苦悩し、偏見と差別に晒(さら)されたマイノリティとして擁護します(一応、お断りしておくと子供とセックスしていいと明言しているわけではありません。ただ、「罪を犯していない小児愛者を差別するべきではない」との一般論には頷けるものの、それをことさら強調しようとする様子がいかにも不自然なのです)。
 しかし、その主張に正当性があるとは、とても思えません。というのも第一に、一般的な男性に比べて小児愛者がそこまで苛烈な差別に晒されているとも思えず、第二に小児愛者には子供とのセックスを正当化する傾向があり、そこまで内省深い人たちばかりではないからなのです。
 これは以前にも指摘したことですが(「フェミを推進したいあまり、トンデモ性愛までを許容するヤバい人たち」)、柴田氏は以下のような(さっぱり理解ができない)発言をしています。

《だいたい、異性愛再生産と小児性愛どちらが「まとも」かだって怪しいものです。個人的な趣味判断から言えば、前者の方が醜いと思っていますが、私はわざわざ前者に該当する人を罵(ののし)って回るようなことはしませんよ(数も多いのでやりあったら負けますし)》

 ここからは1と同様に「異性愛強制社会」を否定したいという情念が、はっきりと見て取れます。
 また、青識氏や白饅頭氏はオタクの代表といった立ち位置を持っており、ならば「我々オタクはあくまで2次元の美少女が好きなのであって、現実の幼女を好むペドフィリアとは別だ」と主張する方が政治的に好ましく、また実情にも近いはずなのですが、なぜだか彼らはそうしません。

 彼らは(正確な年齢などは存じ上げませんが、まだ若く思われるのにもかかわらず)見ていて明らかに、古株の左派の人たちの影響が著しいように思われます。以前にも申し上げたかと思いますが、出版業界の、ことにエロ関連には左寄りの人々が多く、ことにエロ漫画関係の業界には全共闘運動崩れといった人が多く紛れ込んでいました。
 彼らの言にはそうした、オタクを利用しようとする左派の思惑(セクシャルマイノリティに準ずる者として、政治の駒にしたい)を感じないわけにはいかないのです。
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柴田英里氏のツイート

解放されるべき「ヘンタイ」?

「詭弁2」のフリーセックスとはヒッピームーブメントなどと連動して起こった性の解放運動で、婚前交渉や恋愛と切り離したセックスを肯定するなど、カウンターカルチャーとしての性格を持っていましたが、同時にSMや同性愛などのいわゆる「ヘンタイ」を称揚する傾向をも併せ持っていました(ちなみに今、「フリーセックス」で検索すると、おしゃれっぽい女性向けサイトがやたらと出てきて頭がクラクラしました)。
 そうした解放されるべき「ヘンタイ」の中に、小児愛をも含めようとする人がいたのです。「ジェンダーは構築物であり、虚構だ」と唱え、フェミニズムに強い影響を及ぼした(が、後にその主張を支える実験が虚偽であったとバレた)ジョン・マネー博士もフリーセックス信者で、被験者の子供にポルノを見せたり、セックスの真似ごとをさせたりしておりました。

 さて、そうしたフリーセックスの婚前交渉への志向、同性愛者への共感などもキリスト教道徳への反発によるところが大であり、結局は「詭弁3」とつながることになります。もちろん、同性愛への禁忌(きんき)と小児愛へのそれとは全く話が違うと言わざるを得ないのですが、そこを混同し、子供とのセックスを否定することはキリスト教的価値観という悪への帰順である、と短絡する人たちもいるのです。

「詭弁4」もそうで、左派はやたらと子供の主体性を重んじる傾向がありますが、当然、同時に子供が大人から庇護(ひご)されるべき存在である、との視点を忘れるわけにはいきません。しかし子供を手懐(てなづ)け、懐かれたことを「子供がセックスを求めた」と解釈する傾向の強い小児愛者も当然、子供の決定能力を過度に見積もる存在であり、この詭弁を吐く傾向があるのです。

 ――以上を見ていくと、左派は西洋文明の「キリスト教の抑圧性への憎悪」を無批判に直輸入し、それへの反発で異端の存在に肩入れしている……とそんな傾向が見えてきます。そこにはもちろん、理に適った面もありましょうが、小児愛を肯定することには、どう考えても理はありません。

 その意味で、「詭弁5」は極めて象徴的です。
 このロジックをが使われる場合、よく持ち出されるのは「古代ギリシャには少年愛の伝統があったぞ」といったもの。言わばこれは、「キリスト教というワルモノに汚染される前の清浄なる世界」というものを仮想し、そこに過剰な幻想を見ているわけですが、当時は少年奴隷など大勢いたわけで、それを好ましいことのように言われても困ります。
 これはまた、小児愛者もよく使う論法で、和風に翻案し、戦国時代などのお稚児さん愛好を称揚するところなどにも、よくお目にかかります。
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小児愛を肯定することには、どう考えても理はない(画像はイメージ)

「逆襲」を受けている

 こうなると左派に見られる小児愛の肯定は、現実を否定するために過去の価値観をカウンターとしてぶつけるという、アバウト極まるスタイルの果てになされているものだ、ということがおわかりいただけたのではないでしょうか。

 もっとも最後の「詭弁6」だけは、いささか異なります。ここで挙げられるのは稲垣足穂であり、江戸川乱歩といった文豪。オスカー・ワイルドやルイス・キャロルが持ち出されることもあります。いずれも少年愛に深く関連した(キャロルは少女愛の)人物であり、サブカル文化人の中にはそれを担保に小児愛を擁護しようとする人々がいます。彼らはそうした文豪も実際に少年と関係を持っていたようなことを言うのですが(それが本当なのかどうか、ぼくにはわかりかねますが……)、仮にそうだったとして、文学的な業績は変わるものではないけれども、子供への虐待があったとすれば、それは批判されねばならないことは、ジャニーと同じでしょう。

 左派は漫画などのポップカルチャーを「反体制」の道具にしたがる傾向が大ですが、意外に文学などハイカルチャーに類するものも自らの権威づけに利用します。
 そうした偉大な芸術家は凡人と違うのだ、と誇ることで、既存の価値観を否定したい――彼ら彼女らの言動から透けて見えるのは、そうした政治的な思惑です。
 デヴィ夫人がジャン・コクトーとジャン・マレーの件を持ち出したのも、これと同様なのではないでしょうか。

 先にも述べたように夫人は必ずしも左派寄りの人ではないでしょうが、凡人とは異なる偉大な芸術家の理解者となることで、自らもそれと近い存在であるかのように錯覚するのは、さぞかし気持ちがいいことでしょう。そうした(イデオロギーを問わず)誰もが陥りがちな心理に、夫人もとらわれてしまっていたのではないでしょうか。

 ともあれ、詭弁の1~5は「キリスト教以前」の世界に正義を求めていたわけですが、この6は「芸術家」といった「現代の異端」へと正義を求めようとする態度であるということができます。
 政治経済界といった「一般的な権威」に対し、芸術というオルタナティブな権威を持ち出し、カウンターとしてぶつけるという戦略を採ったはいいが、さすがに小児愛となると擁護は無理筋過ぎる、しかし本人たちは感覚が麻痺(まひ)していて、そこに気づけない……とそんな裏事情が、ここからは透けて見えてきます。
 これは言ってみれば「小山田圭吾炎上」と構造が同じです。小山田氏は障害者に殺人未遂と言っていい凄惨(せいさん)な虐待を加えつつ、「権威」をからかうトリックスターという自己イメージに酔い、しかも若気の至りならまだしも、加齢に伴いしっかりと地位を得て、しかる後に過去の自分のブーメランが突き刺さるという道化を演じてしまいました。

 さらに言えば、この滑稽(こっけい)な振る舞いは、今までトランスを政治の駒にし続けてきたフェミニストが、トランスに女性スペースに立ち入られるという形で「逆襲」を受けていることとも、同じ構造を持っていると言えます。
 左派は自らを「反権力」であると自己規定しますが、非常に往々にして極めて権威主義的な態度を取り、「弱者」に寄り添うと自称しつつ、非常に往々にして弱者にとても冷酷な仕打ちをしてきました。
 その矛盾が、とうとう、誰の目にもわかる形で、明らかになりつつあるのです。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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