許されざることを放置し続けてきた

 本年3月7日、イギリス公共放送BBCが、ジャニーズ事務所の創業者である故ジャニー喜多川による少年たちへの性的虐待について報じました

 メディアではにわかに多くの人たちが本件について、眉間に皺(しわ)を寄せながら論じていますが、実のところこの件は以前から有名な話で、ジャニーズのファンなら誰もが知っていたことです。いえ、それに留まらず、かつてより元ジャニーズのタレントからたびたび暴露本が出され、また、東京高裁でも2004年、「事実」と認定されていました。これはずっと本件を告発していた『週刊文春』がジャニーズから訴えられた名誉毀損(きそん)裁判において、被害者の少年たちの証言が認められたというもので、性的虐待そのものが扱われたわけではないのですが、ともあれ、高裁が虐待の事実を認めているわけです。

 今まで『文春』など例外的なメディアを除いて、この件に触れようとする者はありませんでした。
 そんなことから、今回の炎上では「こうした許されざることを放置し続けてきた我々の罪は云々」的な語られ方も目立ったように思います。

 しかしでは、なぜ、ぼくたちは「放置」を続けたのでしょうか。
 もちろんマスコミ的には「ジャニーに楯突いて、タレントを起用できなくなったら大変だから」といった理由が一番大きいでしょう。
 でも、それより、ぼくたちが「放置」し続けてきた根源的な理由があります。
 フェミニズムのせいです。
 さすがにそれは……と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、順を追ってご説明しますので、どうぞしばしおつき合いください。

 まずは『ユリイカ』の2019年11月臨時増刊号、「総特集日本の男性アイドル」を見てみましょう。同誌は近年、いわゆるサブカルチャーについての特集が多く、執筆陣を見てもサブカル系フェミニストが目立ちます。本特集でも以前「オタクの味方という立ち位置のフェミニスト」としてご紹介した柴田英里氏が「新緑のアクアリウム――ジャニー喜多川の少年愛」と題された論文を書いており、一行目からこの問題に言及しています。

《ジャニー喜多川が同性愛者・少年愛者であり、彼の事務所に所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているというウワサは、一九六〇年代から散発的に報道されてきた》(226p)

 以降は先にも書いた「暴露本が出された」「裁判で認められた云々」についての記述が続くのですが……その後で、以下のように続けるのです。

《ゆえに、ジャニーが所属する男性タレントに対して猥褻(わいせつ)な行為を行っているというウワサは、荒唐無稽なデマとはいえない。と同時に、人間は記憶を都合良く書き換える生き物であり、能動と受動、同意と不同意は明確に線を引けるものでもない。すでにジャニーがこの世を去った今、真実は藪の中であり、ウワサはあくまでもウワサである》(227p)

 いくら何でも裁判所の判断までが「ウワサ」とは、この人の感覚はどうなってるんだという感じです。
 もちろん、ファン心理として事実を認めたくないという気持ちもあるのでしょうが、そればかりとも言えません。
 そもそも柴田氏は「異性愛」を激しく憎み、「異性愛再生産と小児性愛どちらが「まとも」かだって怪しい」などと「小児性愛」に親和的な発言を度々していることは、以前もお伝えした通りです(「フェミを推進したいあまり、トンデモ性愛までを許容するヤバい人たち」)。
 同稿は今回の件と深く関わるものなので、未読の方は是非ご覧いただきたいのですが、ここではNAMBLA(【North American Man/Boy Love Association】)という少年とのセックスを合法化するために活動している団体に賛同するフェミニストが多いことについても、ご説明しています。

 柴田氏もまた、『欲望会議』という鼎談本の中の、《「ペドフィリア=絶対悪」が表すもの》というよくわからない節タイトルがつけられた箇所で、やはりNAMBLAを(その活動目的などを全く説明しないままに)肯定的に採り挙げています(239p)。
 同書ではゲイの哲学者、千葉雅也氏も柴田氏に唱和し、ペドファイル擁護を繰り返しているのですが、しかし『薔薇族』がずっと少年愛を称揚し続けていた歴史があることを思えば、驚くには値しないのかもしれません。
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AmazonPrimeにアップされている「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」(画像は一部加工)

たまげた話

『薔薇族』といえば、日本のゲイ雑誌第1号。少年愛者に肩入れしていたのは編集長の伊藤文学ですが、ただ、一応のお断りをしておきますと、伊藤氏本人は異性愛者で(あるとされていま)す。氏の少年愛擁護はすさまじく、先に述べたジャニーの暴露本も当然、全否定です。
 
 氏の著作(基本、『薔薇族』で書かれたエッセイをまとめたものが多いのですが)を見てみましょう。
『薔薇を散らせはしまい―『薔薇族』と共に歩んだ22年』には「なんとも、いまわしい本が出たものだ!」と題されたエッセイがあります。1988年にジャニーズ初期のアイドルグループメンバーがジャニーから受けた性的虐待についてを綴った『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』が出版されているのですが、伊藤氏はそれを「いまわしい本」と切って捨てるのです。

《この本を読んで、一番嫌だったことは、同性愛が汚らしいこと、罪悪であるということを前提にして書かれているということだ》(346p)

《たとえ事実だとしても、世間には男と女の関係ではよくある話ではないか。新人の女性タレントを売り出すためにはプロダクションの社長、それを売り出すためにマスコミの人に抱かせるというような話はよく聞く話だ。
 それが、なぜ男と男だといけないのか? それが不思議ではある》
(347p)

 何しろ30年以上前のことですから、性的倫理は今とは異なるでしょう。しかしそれにしても、女性ならば(強制があろうと)よかったわけではないでしょうし、少年への性的虐待を「同性愛差別」にすり替えるとは、たまげた話です。
 同書の「僕の子供がホモだとしても」では教師らしき人物が伊藤氏宅を訪ねてきた時のエピソードが綴られています。この教師は「何十人もの少年の写真のコレクション」(裸のもの)を伊藤氏に見せたというのですが、この恐るべき性犯罪者について書いておきながら、氏は「ぼくの子供がホモだとしても驚きはしない(大意)」などと、とぼけたことを言うのみ。
『薔薇族』の人々 その素顔と舞台裏』の「少年愛者の孤塁を守り通した――稲垣征次」では以下のように書いています。

《その中でもうすぐ七〇歳に手が届くという人の話は感動的だった。
(中略)
なんと現在、小学六年生の男の子と付き合っていて、この子とは五年生のときにゲームセンターで知りあった》
(243p)

《ずばり少年とのセックスのことを聞いてみたが、最初はあったそうだが、今では精神的なもので、本当の息子のようにかわいがっている》(244p)

 小学生とのセックスは「感動的」なのだそうです(念のために言っておきますと、この老人と名前の出ている稲垣氏は別人です)。
『薔薇よ永遠に―薔薇族編集長35年の闘い』においては、やはり少年の《よほど大人を信頼していなければ、到底取れないような写真》(117p)を撮り続けてきた人物の話が語られます。この人物は少年が小学1年の頃から中学2年の頃までの写真を伊藤氏に宅配で送ってきたのですが、この少年はこの人物の男の愛人が引き取っていた子供であり、その子とは性交渉まで重ねていたというのです。

《その子は小学校の高学年になってくると、ひとりで彼の住む部屋にも訪ねてくるようになる。そうなれば当然のこと、子供と性交渉を持つようになっていくのは、自然のなりゆきだった。
 十歳年上の男(註・つまり、この男の愛人であり、少年の伯父)もゲイだから、二人の関係についてはとやかくは言わない。お母さんも理解してくれている》
(117p)

 家族ぐるみで小学生の少年に性的虐待を加え続け、性的な写真を撮影し続けたあまりにもおぞましい一家を、伊藤氏は肯定するばかりです。

フェミニストは、なぜ少年愛者が大好きなのか

 ――さて、しかし、ここで大急ぎでつけ加えなければならないのですが、(LGBTのゴリ押しなどは不快とは言え)同性愛そのものは、悪いことではありません。翻って小児愛はそもそも、実行することが即、犯罪につながります。
 つまり同性愛と小児愛を同一視すること自体がまず、大きな間違いなのです。少年愛者となると確かに同性愛者というカテゴリの一つに数え得るわけですが、少女の好きな異性愛男性、いわゆるロリコンに近い存在であると考えた方がいいように思います。実行しなければ犯罪ではないということをも含み置いた上で、実行する者については断固たる態度を取るというのが、正しいあり方ではないでしょうか。

 事実、伊藤氏は本当にことあるごとに少年愛者について言及し、彼らの肩を持っているのですが、『薔薇族』のスタッフや読者が必ずしもそれに賛同していたわけではなく、たびたび「もう少年愛者を取り上げるのはやめてくれ」といった声は上がっていました。

 しかし、そうした良識派の同性愛者たちの危惧(きぐ)とは裏腹に、伊藤氏は今も「ゲイ解放に尽力した偉人」としてのみマスコミに扱われ、批判の声はどこからも聞こえてきません。
 いえ、それどころかフェミニストたちは、ぼくの伊藤氏への批判を頑迷に否定し続けました。上に挙げたような伊藤氏の発言をいかに示しても彼女らはそれを一蹴し、それでもぼくが黙らないとなると恫喝(どうかつ)、支離滅裂な論理による個人攻撃、わけのわからない思い込みをもとにしたデマの流布(るふ)を繰り返しました。今までもお伝えしてきた通り、フェミニストにとって「事実」が好ましくないものである場合、それは変幻自在に「改変」されるべきものなのです。

 しかし、一体全体どうして、フェミニストはここまで少年愛者が大好きなのでしょうか。
 一つにはいつも申し上げる通り、LGBTやゲイの解放運動がフェミニズムに多大な影響を受けており、フェミニストにとってゲイは利用価値の高い政治運動の駒だからです。その「駒」の頭数は多いほどよいとのリクツから、少年愛者をも「無辜(むこ)で清浄なるマイノリティ」の一人としてカウントしたいとの考えがあるのでしょう。

 しかし、そうしたリクツ以上に、その奥には感情的な理由が横たわっているように思えます。
 フェミニストたちは(フェミニズムに心酔している男性はより以上に)本当に、中世の迷信深い人々が神を崇拝し、その祟(たた)りに畏怖(いふ)するかのごとくに、ぼくの目からは病的と形容するしかないほどにゲイを伏し拝みたがる傾向があります。
 言うまでもなくフェミニズムにとって「男性性」は全て悪であり、ことに女性への性的加害はその最たるものであると考えられます。しかしゲイは絶対に(というか原則論的に)女性へ性的な加害を加えない。まさに「神」にも匹敵する存在というわけです。

 そうした人たちの「ゲイ崇拝」を見ていると、一方では「ゲイを理解する先進的な自分」を振りかざし、「低劣なヘテロセクシャル男性ども」を見下したくて見下したくて仕方ない、卑しい心性をも感じます。
 しかし当然、ゲイもヘテロセクシャル男性と同様の単なる人間であり、中には悪いことをする者もいる。ことに少年愛者となると、その比率が高いと考え得る(気の毒な話ですが、正当に自らの欲望を発露することが犯罪につながるのですから、それを思い留まるには普通の人以上の自制心が必要となりましょうから)。

 しかし「ゲイは神」との非現実的な妄想に囚(とら)われた彼ら彼女らは今さら、その暗部を認めるわけにはいかなくなっているわけです。それをしてしまえば「ゲイの理解者」たることで保たれていた自らの価値までが、否定されることになるのですから。
 そんな事態を回避するためであれば、子供が何百、何千、何万と性的虐待の犠牲になろうが、彼ら彼女らにとっては一切、どうでもいいことなのです。
gettyimages (13265)

フェミニストは、少年愛者が大好き!?(画像はイメージ)

「子供への性的虐待」が内在

 ――いえ、フェミニストたちが少年愛者を守るのには、もっと積極的な理由があるかも知れません。
 これについては上にも挙げた「フェミを推進したいあまり、トンデモ性愛までを許容するヤバい人たち」でも述べているので、ごく簡単にまとめたいと思いますが、まず、これも上に挙げた『欲望会議』から、もう一度、柴田氏の発言を見てみましょう。

《清岡純子さんでレズビアン・フェミニズム史を書くとしたら、ペドフィリア(小児性愛者)の欲望というのを入れざるを得ないからです。
(中略)
彼女は、レズビアン指南書など、ハウツー本も書いているんですよ》
(130p)

 何やら清岡純子という人物について熱く語っているのですが、この清岡氏、一部では有名な幼女ヌード写真家です。80年代には『わたしはまゆ13才』や『プチトマト』といった写真集が話題となりました。
 もちろん、それそのものはポルノ的なものではないのですが、いずれにせよフェミニズムの中でもレズビアンフェミニズムという一派、さらにその中でも少女が好きな人たちは、NAMBLA的な運動と親和的なのです。
 異性愛を憎悪する柴田氏がこうした発言をする意味は、大きいと言わねばなりません。
 もう一つは近年のトランスの運動です。
 やはり以前、《海外のトンデモ「LGBT教育」は対岸の火事ではない》でご説明しましたが、彼らは自分たちの存在を人々に受け入れてもらおうと、幼い子供に露骨に性的なコンテンツを見せるなどしています。中には10歳の子供にフィストファックとアナルセックスの教育がなされたとの、信じがたいニュースもありました。

 トランスの中に小児愛者の運動のイデオロギーが流入しているかについては、ぼくにも判断がつきかねますが、ともあれ彼ら彼女らには子供たちへと早期LGBT教育をする(ことで、子供たちが異性愛という悪しきものに目覚めるのを食い止めようという)動機がまずあるわけです。
 結局フェミニズムの理念の根本に「子供への性的虐待」が内在されているとしか、表現のしようがありません。

 何度か書いていますが、フェミニズムの根幹には「異性愛」そのものが男性が女性を支配するために発明された装置であるとの、「強制的異性愛」という考えがあり、それを前提するならば、上の人々の言動は全て、「正義」であるとしか言いようがないのですから。

 先のBBCのドキュメンタリーの記者、モビーン・アザー氏は取材のたびに相手が(一般の人々もジャニーの関係者も共に)ジャニーを崇拝し、犯罪についてはスルーを決め込んでいることに戸惑い、憤り、番組を「ジャニー喜多川氏は他界してもなお守られています」との言葉で締めくくりました。

 しかし、伊藤文学氏にまつわる評価についても、これは全く変わらないのです。
 伊藤氏は2011年、『薔薇族』の編集長を勇退していますが、いまだ存命であり、偉大な文化人として崇拝され続けています。
 そして大変残念なことですが、その評価はこれからも変わらず、そしてきっと「他界してもなお守られ」続けることでしょう。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ「兵頭新児の女災対策的随想」を運営中。

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