キレイなモデルが「苦痛」を与える

 女子中学生を対象にしたファッション誌『ニコラ』が、「美の多様性」を標榜する団体、「as I am」によるネット署名運動の標的にされています。

 『東京新聞』の伝えるところによると、「as I am」の代表は元読者の女子大生、Wakako氏。その主旨は「同誌のモデルは判で押したように細身で色白であり、コンプレックスを刺激されて苦痛だ。見た目に優劣はなく、ありのままで美しいとのメッセージを発信してほしい」というもの。

 考えてみれば海外では既に、そうした傾向が出てきています。やたらと太った女性がモデルを務めている写真などを、どこかで見たことがないでしょうか。彼女らは「プラスサイズモデル」と呼ばれ、「ありのまま」であることが好ましいと称揚されているのです。
兵頭新児:女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセル...

兵頭新児:女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセルカルチャー

「キレイ」なモデルを見るのが苦痛…?
 今まで何度か、キャンセルカルチャーについてご報告させていただきました。

 「お母さん食堂」のようなブランドから「戸常梨香」といった萌えキャラまで、フェミニズムはとにもかくにも「女性性」そのものをキャンセルすることを、目的にしています。
 
 ネット論客の青識亜論氏(戸常梨香騒動でもフェミニストへの抗議で中心的な役割を果たしたオタク左派、ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶ人たちの代表的な人物ですが)は「キャンセルカルチャーにはエンカレッジカルチャー(※編集部注:応援文化的な意味)で立ち向かおう」といった主張をしています。つまり、愛するコンテンツに対するキャンセル運動には、買い支えることで対抗しよう、といった提言です。もちろんそれはそれで決して悪いことではないのですが、果たして、それだけで問題が解決するのでしょうか。
 例えば、前々回の記事でご紹介した『スーパーマン』がバイセクシュアルになった、との話題。

 これは「キャンセル」ではなく、言ってみればLGBTへの、多様性への「エンカレッジ」であり好ましい、と考える人も多いかも知れませんが、しかしそれは決してそうではない。そこには市場性を無視した、イデオロギーのごり押しの匂いを感じますし、この世のあらゆる多様性を認めることが不可能である以上、どうしてもキレイゴトの域を出ないわけです。

人の価値観を攻撃

 先日、本件に極めてよく似た騒ぎが起きました。

 タレントの小島瑠璃子さんのツイッターでのつぶやきが批判されたのです。

 バチェラーに出てる女の人、ひとりも太ってる人いないわぁ??えらいなぁ。


 『バチェラー』とはamazonプライムで配信されている恋愛リアリティ番組であり、「リアリティ番組」とは台本を用意せず、その場で起こっていることをそのままドキュメンタリーのように伝える番組だ――とのことですが、その辺りの真偽は論旨に関係がないので、置きます。

 ともあれ、いかに有名人とはいえ、こんなつぶやきがニュースになること自体が馬鹿馬鹿しい、というのが多くの人の率直な感想ではないでしょうか。

 もちろん、これは「痩せていること=偉い」とする価値観こそが、批判されたのです。この「事件」を伝える『FRIDAY DIGITAL』の記事のタイトルは「小島瑠璃子「太ってる人いない えらいなぁ」発言は炎上狙いか」というもの。同氏は上のツイートの前に最近太ってしまったことを嘆く旨のつぶやきをしており、女性心理としてどう考えてもごく普通のものとしか思えず、それを「炎上狙い」というのは言いも言ったりというか、一般家屋に放火しておいて「木造なのが悪い」と居直っているようなものではないでしょうか。

 以下も同記事にはダイバーシティだ、ポリコレだとよくわからないカタカナが並び、件の発言は不祥事扱いです。
兵頭新児:女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセル...

兵頭新児:女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセルカルチャー

"炎上"した小嶋氏のツイート
via twitter

一方の応援は、他方の排除につながる

 何だか、『ニコラ』の件と小島氏の件はよく似ていないでしょうか。

 一方は「痩せていないモデルを使え」とのエンカレッジを目的としたものですが、それは同時に従来のモデルのキャンセルを意味する。

 一方はタレントさんの発言をバッシングする、極端に言えば表現規制という名のキャンセルです(現状では小島氏は発言を撤回していませんが、仮にツイートを削除する、謝罪するなどがあったらこれはまさしくキャンセルでしょう)。しかし『FRIDAY DIGITAL』に問い質したら、「いや、同記事の趣旨は多様な体型の女性をエンカレッジしようとするところにある」との答えが返ってくるのではないでしょうか。

 つまりキャンセルカルチャーとエンカレッジカルチャーとは決して相反するものではなく、一つの現象の表裏でしかない。世の中のリソースが有限である限り、何かのエンカレッジが同時に何かのキャンセルであるのは当たり前であり、「多様性」信者はそこを見ていないのです(想像ですが、自分たちは当然エンカレッジされる側、と無邪気に信じているんじゃないでしょうか)。

 それより、重要なのはその「キャンセル」なり「エンカレッジ」なりに、果たしてどんな意図が潜んでいるかです。
多様性は大事としても、その価値観を押し付けないでほしい―

多様性は大事としても、その価値観を押し付けないでほしい―

 こうなると、先の『ニコラ』に対する運動も「一見、エンカレッジだが、そこに肯定しにくい意図が潜んでいる」のと同様、例えばですが渡辺直美さん人気などについても、疑問が生じてくるのではないでしょうか。

  いえ、ぼくも渡辺氏自身には何の恨みもないし、今検索して「お笑いタレント」と初めて知ったくらい、芸能には疎いのですが……それでも彼女の存在を「多様性の象徴であり、素晴らしい」と手もみしてみせる類いの言説には、疑問を感じずにはおれません(お笑いの人なんだから、「面白いから素晴らしい」以外に誉め言葉はないはずでしょう)。

 正直、お笑い系にはあまり美人とは言いにくい女性が多く、そのネタは女性に向けた、女性のネガティビティを嗤う種類のものが多いように思います。

 こうした不美人のお笑いタレントの役割は、オブラートに包んだ言い方をするならば「頑張っている女性たちの肩の荷を降ろしてあげる」こと、ぶっちゃけた言い方を許されるならば「自分より下の女性を演じて安心させてあげる」ことにこそあるように思われます。

 渡辺直美さんにもそうした需要、つまり「太った女性をエンカレッジする」面がないのかとなると、大いにあるのではないでしょうか。

 近年ではテレビドラマなどもそうしたもの(不美人や年配の女性が年若いイケメンといちゃつくといったもの)が多いように思えます。

 いえ、そもそも「キャンセル」というのであれば、男性に受けるタイプの女性タレントが女性のバッシングで消えるという状況はずっと続いていることです(二十年近く前、伊集院光さんがそうした趣旨の発言をしているのを、ラジオで聞いたことがあります)。

「多様性」という無敵ワード

 先のWakako氏は摂食障害などに触れ、自身の目的を健康被害の阻止にあるかのようにも語っていますが、同時に「as I am」のサイトを見ると、以下のように謳われており、運動の根源にはポリコレ的なイデオロギーがあることが窺えます。

 as I amは、代表のWakakoが美の多様性を広めるための署名キャンペーンを始めたことをきっかけに立ち上げた学生団体です。

 「美の多様性」とはまた、格好のいい言葉ですが、市場原理に介入し、消費者の意に反して「多様性」を押しつけようというこの運動、敢えて茶化した言い方をしますが、「不美人解放運動」とでも称するべきではないでしょうか。

 しかしここで、特に女性の方に考えていただきたいのですが、この「不美人解放運動」は、果たして女性の幸福につながるのでしょうか。

 それこそ「(ちょっと)ぽっちゃり(しているだけの)タイプ」ならともかく、渡辺直美さんのような体型に、望んでなりたいものでしょうか。デブでモテないよりスマートでモテた方がいい、というのが一般的な考え方であり、『ニコラ』に痩せ型のモデルが登場するのも、そうした少女たちの願望が反映されているからこそでしょう。
兵頭新児:女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセル...

兵頭新児:女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセルカルチャー

自らの価値観を強引に押し付けないでほしい
 フェミニズムは女性の社会進出を推し進め、結果、非婚化が進行しました。
 
 女性にとっても経済力を手にすること自体は不快なことではなかったでしょうが、結果、男性の経済力が相対的に下がることで、結婚へのハードルを上げてしまったのです。
(一応、念のために申し上げておきますが、フェミニズムは結婚も異性愛も根源的に否定する思想であり、これは彼女らの狙い通りにことが進んでいることを示しています)

 先の「不美人解放」もまた、これに近いのではないでしょうか。

 フェミニズムは「ジェンダーフリー」を志向し、女性が社会に進出すれば多くの女性管理職が出現すると期待しましたが、現実はそうなりませんでした。女性の多くはやはり、社会での昇進より幸福な結婚を望んでいたためです。職業を持つ女性よりも主婦の方が幸福度が高いことは、様々なデータとして実証されているのですから。
主婦の幸福度が高いことを示すデータ

主婦の幸福度が高いことを示すデータ

via 男女共同参画局データ
 そしてまた、フェミニズムの世界観では「美」の基準そのものが男性によって作られたものなので、「不美人解放運動」が成就すれば、どんな女性でも一律に美しいと評価されることになる……はずなのでしょう。

フェミニズムの浸透で女性が総「お局さま」化

 しかし、毎年男女共同参画局に何兆円という予算を投じながら、上のデータが示すとおり、ジェンダーフリーは挫折したとしか思われません。

 同様に、「不美人解放」もまた成就されないのではないでしょうか。例えばですが、テレビに不美人ばかりを出すことで男性の審美眼を下げ、相対的に自分の美貌の価値を上げる……といった効果は期待できなくもないかも知れませんが、男性が美人を求める限り、結局それはネットなどまた別な媒体で需要を満たすことになり、それをもキャンセルしようといったイタチごっこになるだけでしょう。

 いずれにせよこれは「若いOLがちやほやされるのを妬んだお局様がやたらと文句をつける」ような行為であり、不健全としか言いようがありません(この「お局様」といった言い方自体、ポリコレに反するとして、使用がためらわれる表現ですが、そうした風潮こそが、やはり不健全なのです)。
女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセルカルチャー

女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセルカルチャー

私が正しい!
 ネットにおける、いわゆるアンチフェミの界隈では、「うっすらフェミ」といったワードが囁かれています。これは「女性は誰しもが、うっすらとフェミニストなのだ」とでもいった意味あいであり、一面の真理です。自分が男性に対して不利に陥った際、「女性差別!」と叫べば相手を敗退させられるとなれば、ついつい言ってしまいたくなるのが人情でしょう。「セクハラ!」も、近年では「ミソジニー!(女性嫌悪)」も、そうした内実を問わない「攻撃呪文」として扱われる局面が多々あることは、否定できません。

 その意味で、女性は誰もが「フェミニスト」となる可能性を秘めている。

 しかし同時に「フェミニズム」とは、食べ過ぎるとたちまち太ってしまう高カロリーのお菓子であり、極めて強い副作用を持った麻薬でもある。フェミニズムは「社会進出」、「不美人解放」によって女性たちに一時の快を与えたかもしれませんが、それは女性全体の非婚化、不美人化を招きました。そして、そうなった不幸な女性たちは、いよいよ自分たちの不幸を社会の責に求めるため、フェミニストと化してしまう。
 
 いわばフェミニストとは吸血鬼的なものなのではないでしょうか。一般の女性に「フェミニズム」を注入し、自分たちの仲間に加えてしまうことこそが目的としか思えないからです。
 
 女性たちは恵まれた他の女性を引きずり下ろすことで、一時の快を与えてくれるだけの「お局様の文句の種」を捨て、自分の人生を幸福なものにすることを考えた方がいいのではないでしょうか。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。

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