大人気漫画に「ポリコレアフロ」の異名が
言ってみれば女性向け『ゴーマニズム宣言』、女性向け『美味しんぼ』みたいな漫画です。
どうしてあれ、決まって三白眼でタラコ唇、長いまつげのいかにも「女性サークルのボス」といった風格の女性が無表情に眠そうな目でタバコをふかしつつ、一方的に語るんでしょう。
きっと、そのキャラに作者の自己主張を代弁させているんです。
だからそうしたキャラは、作者の願望を具現化したクールビューティ。
大体において、そうした漫画では聞き手はただ圧倒されるばかりで、何も言い返さない。
そこには「対話」がないんです。
もっと……対話がなされるようになるといいと、ぼくは思います。
久能整君というのは田村由美先生による女性向け漫画『ミステリと言う勿れ』の主人公。
本作はウィキペディアによると電子版を含めた単行本累計発行部数が2021年12月時点で1300万部を突破、2021年7月には1か月の電子版の売り上げが小学館の歴代最高を記録。本年1月10日よりは菅田将暉主演でドラマが放映されるという人気作。また『このマンガがすごい! 2019』ではオンナ編の2位に選ばれるなど、「業界人気」も圧倒的です。
内容は特徴的な髪型の大学生、久能君が事件に巻き込まれては推理するというミステリ。
ただ……この久能君、ネット上では「ポリコレアフロ」なる名前を頂戴してもいます。
本作、一応ミステリではあるのですが、この久能君が推理の合間合間に(概ね事件には一切関係のない)ポリコレを説き、とにもかくにも男は悪、女はそのために苦しめられている無辜の被害者、日本は海外に比べて遅れている、恥ずかしいと結論するのです。
本作を「お説教漫画」、「女版ポルノ水戸黄門」などと形容する人もいます。要するにポリコレを水戸黄門の印籠のように突きつけ、男たちを黙らせることこそが本作の売りであり、女性にポルノ的快楽を与えている、というわけですね。
男女平等を説き、警察署に感謝される容疑者
まず、とある殺人事件で、久能君は容疑者として警察にしょっ引かれます。
久能君が慌てもせず沈着冷静なのは主人公のお約束として、読んでいて奇妙なのは事件と関係のない演説ばかりしていること。
若い男性刑事が夫婦喧嘩中であることを言い当て、「家事をちゃんと手伝え」とお説教、それに従って嫁の機嫌がよくなったと感謝されたり、中年(男性)刑事に「家庭から逃避せず家族と向きあえ」と説いたりで(海外の父親は家族に向きあっていて偉いのだそうです)、殺人犯と疑われつつ、署内の人心を掌握することしきりですごいなあ、コミュ障で友だちもいないという設定なのに、という読後感を持ちます。
「おじさん、特に権力者サイドにいる者たちは徒党を組んで悪事を働く。しかしそこに女性が混じっているとやりにくくなる」。
いや……まず、彼が「おじさん」をとにもかくにも悪者として扱うことに嫌悪感を覚えますが、そこは置くとしても、女性がいることで悪事を妨害できるのならば、この数十年で汚職の類いは激減したはずであり、「第三の性」など必要ないのでは……と思っていると、「しかし女性は団結して立ち上がらない」のだと言います。
また、随分女性を侮辱した物言いだな……と思っていると、その女性刑事に「あなたの存在価値はそれ(おじさんを見張ること)だ」などと言い出します。
全くもって、わけがわかりません。
男性への抑止力として「第三の性」が必要なのか、「女性」がそれをなすべきなのかが、はっきりしない。
おそらく作者としてはこの久能君こそをその「第三の性」に設定しているのでしょうが、(彼は幼児期に父親に虐待を受けていたことが語られ、また恋愛経験がない、トイレでは座って小を足すといった具合に、意図的に中性的なキャラクターとして造形されています)描いているうちに論理が混乱してしまったのではないでしょうか。
しかしそんな偏見の塊で穴だらけの理論に、女性刑事は感銘を受けます。本作では常に、人々は久能君の主張に言いくるめられてしまうのです。そう、冒頭で書いた「作者の分身である女性が一方的に語る漫画」同様、ただただ自分の意見が受け容れられて終わり、という図式なのですね。
女性になることは「暴行・監禁・強姦」されること?
前者は久能君がライカという美女(恋愛経験のない彼の、彼女候補的な人物)と共に犯罪者集団に軟禁される話。恵まれぬ育ちを持つ犯人(もちろん男性)がいきなりライカに「女は楽でいい」と言い出すのですが、彼女は「ならば女になって暴行され監禁され、強姦され殺害されろ」と一喝。いや、そんな極端なことを言われても困るんですが。
犯人は「男の方が殺されている、戦争で死ぬのは男だ」と反論します(戦争に限らず、殺人事件の女性被害者の数は男性の3~4割といったところです)。この辺り、即ち男性側の「反論」が織り込まれている辺りに、いかにも近年のネットの影響を感じるのですが、しかしそれに対する「再反論」は極めてお粗末なモノ。ちょうど、以前お伝えしたことのある、「弱者男性」の主張に対する左派寄りの文化人たちのそれとそっくりです。
ライカ様によれば「戦争は男が同性同士で好きでやっていることであり、異性にレイプされることとはわけが違う」のだそうです。
なるほど! 戦争って必要もないのに男たちが好きでやっていたんですね!大戦末期に特攻隊となって死んだ若者たちも、きっと好きで死んだんですね!戦時下は女性たちもノリノリで戦争を支持していたなんてことは、絶対になかったわけですよね!!
すごいですねえ。本作も欧米に輸出されたら「黄色人種のアフロは文化盗用だ」と言われると思うので、久能君には丸坊主になってもらいましょう。
「痴漢は冤罪ばかり騒がれる」という不思議な論理
???
冤罪で人生を破壊された男より、第三者の女性の怒りの方が大きいのだそうです!
久能君は「こと痴漢については冤罪ばかりが騒がれる、どうしたことだ」と説きます。しかし、本当にそうでしょうか?例えば、駅の構内で「痴漢撲滅」を旨とするポスターは日常的に見かけますが、「冤罪撲滅」ポスターはぼくの体験上見かけたことがありません。
男性が「痴漢」されることより「冤罪」をより恐れるのは当然です。当たり前ですが、痴漢を行うことは自らの意思でその実施・不実施をコントロールすることができます。ところが痴漢冤罪に関しては、(満員電車に乗らない、電車では女性の近くに行かないなどの選択肢はあるにせよ)自分の意思ではコントロールできません。つまり、「天災」に近い事態にもかかわらず社会的生命を絶たれる危険性があるわけです。久能君は痴漢の被害の方が重篤だと断言しますが、しかし上にもあるように、この作中の件でも冤罪被害者の男性は人生を破壊されるところ(或いは既に破壊された後)だったのです。
言うまでもないことですが、日本は世界でも驚くほど性犯罪の少ない国であり(レイプの件数はアメリカの1/18ほどです)、相対的に(おそらくは交通事情なども重なり)痴漢がクローズアップされることになっているわけで、安全性という意味では欧米とは比較にならないくらいに高い。しかしそれにもかかわらず、久能君はひたすら海外を持ち上げ続けます。
逆効果の「フェミニズム漫画」
前回、ぼくは「うっすらフェミ」との言葉をご紹介しました。「女性は誰しもが、うっすらとフェミニストなのだ」といった意味あいの言葉です。
ぼく自身は従来より、「フェミは一般の女性とは相容れない」としてきました。フェミニズムは結婚も異性愛も否定する思想なのだから、当たり前のことです。
しかし本作の人気を見るに、「うっすら」な人たちは確かに増えているのかも知れません。
「うっすら」な人たちは(否、おそらくは学者などのプロのフェミニストたちすらも)そうしたフェミニズムの反社会性や女性にも不利益を生む部分を見ずに、表面の糖衣の甘さだけに心を奪われ、結果、カロリーの摂取のしすぎで肥満化しているのであり、本作もそんな、女性に甘言を弄して不幸にするだけの作品である、といえましょう。
あるいは、「娯楽作に文句をつけるなど野暮だ」といった反論があるかも知れません。「男性向けにだって反社会的な作品はある、それをも否定するのか」との反論も考え得るかと思います。
しかし本作はそれらとはちょっと性質が異なるように思います。
実は本作の第3巻では、久能君が誤ったデータを引きあいに出して「おじさん」を批判する下りがあり、話題となりました(ただ、作者や出版社は即座に過ちを認めて謝罪をしており、それは大変に誠意ある対応であったと思います)。
次回はその辺りをご説明すると共に、上の問題についても掘り下げていきたいと思っております。
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。