【日下公人】本当の「民間活力」とは【繁栄のヒント】

【日下公人】本当の「民間活力」とは【繁栄のヒント】

 戦後初めての総選挙の思い出は今も生きている。しかし、その思い出はもう無用になりかけているので、有用なうちに少し書いておこう。

 総選挙は昭和21年に行われた。 

 社会党の議員に女性がたくさん当選して日本は明るくなった。友人の父親や母親がその中に含まれていたので、まだ高校生だった私は国会議事堂へよく遊びにいった。

 国会議事堂は昭和11年に完成したもので、まだ新品だった。〝赤いじゅうたん〟の上を歩くのが嬉しくて、たくさんの新米議員が上下左右を見ながら歩いていた。

 大部分は地方出身で、国会議員は国鉄の切符が貰えると言って喜んでいた。それから食堂にゆくと、外食券を出せば食事ができたのが特権だった。

 新しく国会議員になった人は選挙区の人を連れて歩いていた。国会のお土産はいろいろあって、まずは議事堂を中心にして桜や菊の花が満開のバッジやネクタイが地下の売店にはところ狭しと並んでいた。
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「名所」だった国会議事堂
 それらが割と早く下火になったのは民間経済が発展したからで、それは高度成長としてひとくくりにされた。

 どうして高度成長という表現が学者の世界にまで愛用されたかは不思議だが、まず官庁が発行する「経済白書」が世に流布したからだろう。本当は民間が先行して日本「経済」のあり方を考え、それを文章にすべきだったと思う。

 しかし、それは民間にも官庁にもできないことだった。

 〝ヤミ経済〟とは書けないくらい強力な「自由経済」の大成長がホントの日本経済の復興だったが、それはあふれる進駐軍や旧軍の放出物資が日本経済の一部を押しのけて、まずはヤミ市に姿を現した。それから戦災をくぐりぬけた工場や化学プラントや発電設備などが統制外を装いつつ稼働しはじめて、有無相通じる〝日本経済〟をつくりかけていた。

 官庁も通産省などは双眼鏡、カメラ、ミシン、玩具などに特別輸出品の扱いを設け、検査と許可を独占しようとした。が、民間に負けて短命に終わった。

 石炭が原料として豊富にあったので、それは国鉄を中心に、運輸業の復興に直結していた。貨物船が北海道まで往復する利益で「北海道炭鑛汽船」という会社が急成長して、社長は日本の政治まで左右する勢いだった。
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終戦後、「ヤミ市」などを経て民間経済は強く復活した
via wikipedia
 国鉄には白衣の傷痍軍人が乗り込んできて、アコーディオンを弾きながら義援金を集めていた。親方がいて、それをさらに集金していたが、大阪へゆく客が客車の足下まで座りこんでいて「えぇ儲けやな」とか「もうじき終わりや」とかいろいろ言うので、白衣の傷痍軍人の方が別の車輛へ移っていった。

 そのうち国鉄の人が切符を一人ずつ調べにきたが、「不正乗車を一人みつけたらいくら貰うねんや」「二百円くらいならこっちが出すで」とかいうので、これも早々に引きあげていなくなった。

 〝大阪の人には敵いまへん〟を実感したが、これがホントの民間活力である。

 心斎橋の大通りは二重駐車は禁止だったが、誰しもところ構わず停めていた。ヤクザが飲み屋からいい気分で帰るのだが、それでも秩序があって、二重駐車はあったが三重はなかった。それから深夜の不法駐車もなかった。

 それは市役所のゴミ集めの車が早朝にやってきて、三重に駐車している車には遠慮なくぶつけていくからだった。汚い車の方が勝ちで、市役所の清掃車が違法駐車まで清掃してゆくとは…と感心した。これも一種の民間活力である。

 ヤミ市では警官が遠慮がちに露店の品物をひとつだけ失敬して挙手の礼をしていった。彼も空腹なのだが、道路整理のために働いている形を守っていた。店の人も警察や暴力団やアメリカ兵をバランスよく利用していた。
 〝平和はいい〟〝民間はいい〟とみんな思っていた。それ以前が乱暴だったから、平和になれば日本は民度の高さが表面に出てきた。

 国会では議員だけの特別扱いがお手盛りでいろいろできたが、それはみんな新しくなった国会議員がお手盛りでしたことだと保守勢力の人が教えてくれた。なるほどそうだった。たとえば議員宿舎、議院の事務所等々。

 だから総選挙をするたびに、新勢力は減少してとうとうゼロになってしまった。
日下 公人(くさか きみんど)
1930年生まれ。東京大学経済学部卒。日本長期信用銀行取締役、㈳ソフト化経済センター理事長、東京財団会長を歴任。現在、日本ラッド監査役。最新刊は『日本発の世界常識革命を! 世界で最も平和で清らかな国』(ワック)。

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