中国自由化への道筋― 第1部:その歴史と中華思想

中国自由化への道筋― 第1部:その歴史と中華思想

はじめに

 2020年(令和2年)7月、香港に「国家安全維持法」が施行されたことから、世界中の国々が「中国共産党と中国という国」に大いなる疑念を抱き、その動きを阻止する方向に舵をきった。遅ればせながら、世界中がこの国の欺瞞性と危険性に気がついたということだ。それに加えて、2020年11月に実施されたアメリカ合衆国の大統領選挙は、その過程と結果を巡って大混乱に陥っている。これには、中国共産党が介入しているとの説もあるのだ。

 古来、この国には「水に落ちた犬を叩く」「羊頭を掲げて狗肉を売る」という諺がある。弱い者いじめが当たり前のように横行し、国中に嘘が満ち溢れているのである。周辺国のチベットやウイグルを侵略して蛮行を繰り返し、欧米列強には猫を被り善人面して擦り寄っていく。アメリカ合衆国ではオバマ政権の8年間、そしてEU諸国ではドイツ、イタリアなどが完全に騙されて、その横暴に目をつぶってきた。ようやくにして世界各国がこれに対応し、中国包囲網を形成してこれを排除すべく動き始めた。一方の中国は台湾併合を狙い、それを阻止する自由主義諸国との戦争の危機が囁かれている。だがしかし、そのような武力衝突は避けて平和的に共存することが問題解決の本質なのだ。

 今日、自由諸国の課題はこのような国と如何にして共存していくかの方策を探ることにある。その手順として、

「中国はなぜ、こんな国になったのか?」
「それを是正し、自由主義諸国と共存できる国へと変身させるためにはどうすべきか?」

要するに、本稿の目的は

「かの大陸から共産党を排除して民主的な政権を新設し、自由主義諸国の一員として共に歩む国に再生する方法を探る」

ということになる。

 それには、「中国」という国の本質を正確に認識する必要があるのだ。それは、この国の歴史から解き明かし国民性を突き詰めて理解することから始まる。本稿ではこうした手順を追って書き進めるが、これが「中国という国」のより良い国への再生の一助となれば甚だ幸いである。

 なお、本稿は都合上3部作となり、第1部、第2部、第3部で構成され、本稿第1部では中国の歴史と中華思想の成り立ちを中心に見てゆきたい。

「中国」という国名と「支那」という呼称

中国自由化への道筋― 第1部:その歴史と中華思想

中国自由化への道筋― 第1部:その歴史と中華思想

歴史は長いが…
その起源
 かの国はおよそ100年前には「清」と自称し「支那」とも称されていた。彼らが「中国」なる国名を名乗り、それが地球上に広く認識されるようになったのはつい最近のことなのである。

 だがしかし「中国」という国名は、はるか昔にはこの日本を指し示す呼称であったのだ。『古事記』によれば、大国主命が作り上げた出雲国を俺によこせと天照大神が迫りくる。国譲り伝説として広く知られた話だが、その出雲国すなわち日本のことを「葦原中国」と呼んだのである。さらに言えば、「中国」という呼称は日本では古くから用いられ、今でも「中国地方」と言えば今日の広島県、岡山県あたりを指し示している。

 日本を真似たのか日本から盗んだのか、いずれにしても彼らの得意技ではあるが、一体いつから「中国」を自称するようになったか。調べてみれば、1689年に清国が帝政ロシアと結んだネルチンスク条約が最初とされる。交渉に際し、清朝の外交使臣がその身分を称する時に「中国」という言葉を満州語で使ったというのだ。また、その国名が近代的な主権国家の概念で使用されたのは、1842年に阿片戦争の敗北で清朝がイギリスと結んだ南京条約において、清国側の漢文で書かれた条約文が最初とされている。「中国」という国名の国際デビューというわけだ。今日では「中華人民共和国」と称しているが、いずれにしてもその意味は「中央の華」「世界の中心」ということであり、自国を美化し他国を見下しているのである。
「支那」と「中国」の違い
 前述のとおり、かの国ではつい100年ほど前には「清国」「支那」を称していた。「支那」という呼称は、この大陸を最初に統一した「秦」によるとされる。周辺国でその国名は「シーナ」「チーナ」と発音され、明の時代にこの国を訪れたキリスト教宣教師たちが「China」と記述したことによるのである。また、以下の様にも定義されている。

「志那という国名は漢民族とその土地・文化等に用いられる。王朝や政権の変遷を超えた国号としても使用可能な通時的な呼称」

 このように調べてみると、その国名に関しては現在の「中国」と呼ばれる隣国を表現する場合、「支那」とするのが妥当であって「中国」は別の意味として使い分けることにしたいのだ。「中国」と呼んでひとくくりにすると、その真実が覆い隠されてしまうのである。その違いだが、現在の政権(王朝)を指すときには「中国」と呼び、古来よりあるあの地域とそこに住む人々を総称するとき「支那」あるいは「支那人」と表現するのである。このような観点に立てば、その大地は支那大陸と呼ぶべきであろう。

 令和の今日、日本人の中には「支那」という呼び方は「中国」に対する蔑称だと誤解している人もいるが、決してそうではない。当の本人たちが、その国名である中国すなわち中華人民共和国を英語では「People's Republic of China」と称しているのだ。彼ら自身が自分の国を「China」と呼び、そのChinaを日本式に発音すると「シナ」となって漢字では「支那」と表現するのである。したがって、英語での国名表記を日本語で書くならば「支那人民共和国」とすべきだろう。我が国の「日本」という国名に相当するのが「支那」なのだ。その具体的な根拠は、尖閣諸島周辺の日本国領海に侵入する中国の沿岸警備艇(中国海警)の船体に「CHINA COAST GUARD」と表記していることにある。直訳すれば「支那沿岸警備隊」となるのだ。なお、日本の海上保安庁の警備艇には「JAPAN COAST GUARD」と明記してある。

 さらに言えば、その時代の政権の所在地に応じて日本では奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代などと呼称している。支那もまたその時代によって漢、隋、唐、宋、明、清、中華民国、中華人民共和国などと称しているが、このような呼称はすべてがその時代限りの王朝名なのだ。そうした王朝を全てひっくるめて支那というのである。支那という国は、武力で国を統一した皇帝が独裁的に国を支配してきた。そして、未だかって民主的な選挙によって選ばれた政権は存在しない。いずれにせよ、それらはその時代限りの呼称なのだ。このように考えれば、「支那」でありながらも中国(中華人民共和国)などと自称しているということは、間もなく消滅して他に取って代わられることを自ら認め宣言しているようものなのだ。これは歴史的事実に基づく将来予測でもある。今日、香港はじめ中国に住む多くの人々は支那共和国とでも改名し、それにふさわしい国になることを期待している。民主的な選挙によって誕生した政権を待ち望んでいるということだ。結局のところ、

「その昔には漢とか唐と称し、今日では中国と美称する支那という国」

 ということだ。
国名の意味
 さて今日、彼らが「中国」という国名にかくも拘る理由だが、それはかの大陸、すなわち支那大陸には中華思想と儒教の教えがしみ込んでいることにある。

 中華思想とはこの国の王朝こそが宇宙の中心であり、その文化と思想が神聖なものであると自負する考え方で、漢民族が古くから持ち続ける自民族中心主義の思想である。自らを夏、華夏、中国などと美称し、王朝の庇護下にはない周辺の辺境の異民族を文化程度の低い蛮族とみなして、東西南北の四方にある異民族について四夷という蔑称を付けていた。日本など東方に位置する国は東夷と呼んで貉扱いし、西域と呼ばれた国は羊を放牧する人という意味で西戎と呼び羊と同類視した。

 北方に位置する匈奴・鮮卑・契丹・蒙古などは北狄と称し、犬の仲間としていた。そして東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人などを南蛮と呼んだ。これは虫けらという意味の蔑称だ。もう一方の儒教は、簡単に言えば「長幼の序列意識」「親孝行」「形式の尊重」「学問の尊重」「男女有別」を説く教えだ。これは現在の中国、韓国そして日本でも基本的に同じだが、支那と朝鮮では、長幼の序列意識、親孝行、男女有別が徹底され、親や年長者は尊敬して従うべき存在で、子や年少者は絶対服従と言えるほど徹底していた。また、女性を不浄視し奴隷同様な扱いをしてきた。それで支那では女性を家に閉じ込めたりしていたのである。

 その支那にできた国々の歴史はと言えば、中華思想と儒教の影響で異民族を見下して常に自国の領土拡大を狙い、弱者を徹底的にたたいてきたことに他ならない。王朝が入れ替わり国名に変化があろうとも、2000年以上にわたってその内実は変わらないのだ。

儒教と中華思想の歴史

 支那の大陸を最初に統一した男がいる。紀元前247年の戦国時代に秦の第31代君主に即位し、紀元前221年に大陸を統一して秦始皇帝と称された趙政という男だが、彼は紀元前210年に没した。その秦は、始皇帝の死をもってわずかに11年で幕を閉じる。
中国自由化への道筋― 第1部:その歴史と中華思想

中国自由化への道筋― 第1部:その歴史と中華思想

西安郊外の兵馬俑
漢の武帝 
 その後、王朝が入れ替わり「前漢」の時代になって、皇帝の「武帝(劉徹)」が出現する。その在位期間は紀元前141年~87年の54年間とされる。そして、この時期に「中華思想」の概念が芽生え、儒教が正式な国教とされたのである。その儒教では、天命によって天から選ばれた天子(皇帝または王)を頂点とした徹底した序列による秩序を唱えた。それに加えて、他の非儒教圏を蕃(未開もしくは野蛮)とし悪としてきた。こうした考え方をさらに選民思想へと発展させることにより「中華:華の内側にあって文明圏を意味する」と「夷狄:華の外で蛮地を意味する」とに分ける考え方が生まれ、周辺民族(非支配地域や非儒教圏)への恫喝に暴行そして殺人行為、さらには侵略や戦争などあらゆる蛮行を肯定したのである。かくなる状況下、各地では盗賊が横行し反乱が相次いだ。これに頭を抱えた武帝は、後に酷吏と呼ばれる法律至上の官僚を要職に就け各地で取り締まりに当たらせた。酷吏たちによる厳罰主義は、

「とにもかくにも罪人を捕らえて処刑することが官吏の職務」

 という風潮を生みだした。その反面では、困窮する民衆への対応が軽視されたため、犯罪や暴動そして農民の流民化が相次いだ。業を煮やした武帝は、反乱や盗賊が発生した地方の長官を厳しく罰することにした。だが、処罰を畏れた地方の長官たちは盗賊の横行や反乱を隠蔽し、朝廷に報告しないまま放置していた。

 こうした中で武帝は東北地域を領土とし、朝鮮半島に暮らす民族を従属させた。儒教(中華)を信奉する武帝は、彼らを「穢」(わい:穢れの意味)や「貊」(ばく:獣のようなもの)と名づけて蔑視したのである。ちなみに武帝以来の朝鮮半島は、1910年(明治43年)に日本が大韓帝国を併合するまでのおよそ2000年の間、その多く期間を薄汚い獣として扱われてきたということになる。昨今、チベットやウイグルに対する侵略と迫害が国際的な問題となっているが、朝鮮半島に住む人々は中華思想に染まった宗主国から、それよりもさらに過酷な扱いを受け続けてきたことは想像するに難くない。
異民族支配による中華思想の衰退
 時が進んで「後漢(西暦25年~220年)」も末期になると、夷狄側からの侵犯と略奪が繰り返されるようになった。さらには、魏、呉、蜀の三国時代から、晋(西晋、東晋)を経て「五胡十六国」の時代に入ると、異民族側(羌、匈奴、鮮卑など)の反攻と侵略が顕著になった。だがしかし、分裂し他民族の侵略を受け続けたこの国(大陸)は、仏教を国教とした鮮卑族の王朝である隋(581年~618年)によって統一された。だが、それも束の間、第2代煬帝の失政により衰亡していった。そして、隋から禅譲される形で同じく鮮卑族の李淵が唐(618年~907年)を建国し再度統一された。その過程でこの大陸にも仏教が浸透し、旧来の漢民族の概念は消滅して儒教と中華思想は衰退したのである。
中華思想の復活
 再度「中華思想」が頭をもたげてきたのは、漢民族の王朝とされる「宋」の時代(960年~1279年)に入ってからだ。その代表的なものが司馬光の『資治通鑑』(1084年)である。背景には儒教の1つの流派である「朱子学」の存在と、宋の置かれた屈辱的な歴史にある。宋は新興勢力である契丹族の「遼」に苦しめられて1004年に「澶淵の盟」を結んだ。その内容は、

・「宋」が兄となり、「遼」を弟として遇する
・十万両の銀と20万匹の絹を、毎年「遼」に対して朝貢する

 というものであった。かくして「宋」は、異民族である「遼」を正統なる王朝(皇帝)と認めなければならなくなったが、この時代を「南北朝時代」と称する。その後、「宋」はさらに満州人(女真族)の「金」によって都の開封を追われた。1126年のことである。こうした悲惨な現実と儒教という選民思想とのはざまで揺れ動く宋の人々は、新しい儒教として朱子学(宋学)を創り出した。中華、夷狄、尊王、攘夷といった言葉を使って、自らの優位性を主張し支配権を正当化する必要があったのである。

 その後、金と宋(南宋)は滅亡し、モンゴル民族によって「元」が建国される。彼らもまた自らを中華と称し、皇帝支配に都合のよい朱子学を体系化して利用していた。

 「元」以降の支那大陸は、「明」「清」「中華民国」「中華人民共和国(中国)」と国名(王朝名)を変えて現在に至っているが、その内実は中華思想に染まりと儒教に毒されたままなのである。

支那における官吏の悪行

 日本には公務員全般を称するに「官吏」という言葉がある。だが、歴代の支那国王朝においては「官」と「吏」では雲泥の差とも言えるほどにその違いは大きかった。「官」とは科挙に合格した国家公務員であるが、「吏」とは正式には「胥吏(しょり)」と呼ばれる無給の地方公務員であったのだ。このように明確に区分された「官」と「吏」は、この国を創り上げるにあたり如何なる役割を演じたのであろうか。今日に至るまで、その悪影響は計り知れないものがある。
科挙により登用された国家公務員
 古くは、漢の時代の武帝が酷使と呼ばれる官僚を地方に派遣し圧政を敷いたとされる。それ以降の支那国の王朝では、貴族として生まれた者たちが政府の役職を独占する時代が続いた。だが、隋朝に至り、賢帝として知られる楊堅(文帝)が「科挙」なる制度を初めて導入したのである。

 科挙とは支那国において598年~1905年にわたって、すなわち、隋から清に至るまでのおよそ1300年の長きにわたり連綿として受け継がれた官僚登用試験のことである。家柄や身分に関係なく誰でも受験できる公平な試験で、才能ある個人を官吏に登用する制度は当時としては世界的にも極めて革新的であった。だが、科挙によって登用された官僚たちは、次第に「士大夫」と称される支配階級を形成し、地位・名声・権力を一手に握り大きな富を得るようになっていった。

 科挙に合格して官僚となることは、その宗族にとっても非常に重要な意味を持っていた。「官本位」と呼ばれる権力中心の中華王朝社会では1人の人間が官僚となり政治権力の1部となることは本人だけでなくその宗族に莫大な名誉と利益をもたらした。そのため宗族は「義田」という共同財産を提供し、「義塾」を開いて子弟の教育を行った。そんな一1人が官僚となり政治権力の1部を握ると、宗族に対して便宜を図り多大なる貢献を期待された。当然ながら、本人もその期待に応えていく。官僚を辞めて地元に戻った後も、有力者として王朝の中央や地元の官僚への影響力を持っていた。宗族にとって、1人でも科挙に合格して官僚になれば、在任中と引退後を合わせて半世紀は安泰と繁栄を約束されたのである。

 このような試験偏重主義による弊害は、時代が下るにつれて増幅されていった。官僚たちは、詩文の教養のみを君子の条件として貴び、現実の社会問題を俗事として賎しめ、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能で無関心であることを自慢する始末であった。だが、19世紀になって欧米列強がアジア各国を侵略すると、科挙による官僚制度は時代遅れの存在となり清朝末期の1904年に廃止された。
「官」と「吏」の実態
 かくして、中華思想そのものの「官」と、庶民を食い物として賄賂にたかる「吏」がその国を食い物にしてきた。科挙によって登用された官僚たちが中華思想を振りかざし、名もなき地方公務員は当然の権利として賄賂を要求し暴利をむさぼる。その傲慢さとあくどさの実態は、21世紀の今日「共産党が支配する中国」においても何ら変わることはない。いや、さらに輪をかけて悪化しているとも言える有り様だ。それは時代を経るとともにさらに悪質化しており、各地で抗議運動や暴動が頻発しているのだ。それに加えて、今日では他国の指導者まで恫喝している。

 「14億人の中国人を敵に回した。重い代償を支払わせる。」

 2020年9月、台湾を公式訪問したチェコ議員団に対する中国からの威嚇で、自己を上位とし相手を見下した言い草である。

 なお、次回第2部ではその地に住まう人々の有りようと、中国共産党の実態について記したい。
矢板佳大
時事評論家。日本人に生まれたことを誇りとして、皇居での新年祝賀に日の丸の小旗を手にして参加し、伊勢神宮や靖国神社に参拝している。大和魂と八紘一宇の精神に目覚め、自由と民主主義を守るため真実と正義を追及している。自動車メーカーにて乗用車を開発し、高専機械工学科の教壇に立つ経験を持つ。

関連する記事

関連するキーワード

投稿者

この記事へのコメント

コメントはまだありません

コメントを書く