【山口敬之】菅総理訪米は米国・対中政策の「当て馬」か

【山口敬之】菅総理訪米は米国・対中政策の「当て馬」か

日米首脳会談~総理の決意表明

 日本時間の15日午前7時。アメリカの有力紙ウォールストリートジャーナルのオピニオン欄に、一つの寄稿が掲載された。「日本が目指す太平洋の成長と安定」というタイトルの記事の署名は、肩書抜きの「菅義偉」。16日現地時間午後に行われる予定の日米首脳会談に向け、日本の首相として何を重視しているか、バイデン大統領とアメリカ国民に伝える、いわば首脳としての「自己紹介文」だ。
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 日本の総理大臣は近年、外遊に先立って訪問先の主要紙に寄稿という形で意見表明する事が増えた。

 日本の総理大臣にとって、自分の意見を思うままに発信する機会は、実はそう多くない。予算通過や緊急事態宣言など、司司(つかさつかさ)で行われる記者会見と、総理官邸を出入りする際に記者の問いかけに応える「ぶらさがり会見」、そしてごく稀に新聞やテレビの単独インタビューに応じるくらいだ。

 中でも長い間総理発信の主力だったのが「総理会見」だが、これは最高権力者とマスコミとの暗闘の歴史でもある。佐藤栄作首相が辞任会見で、偏向報道を理由に新聞記者を会見場から追い出したのは有名な話だ。

 最近は、記者が自説を長々と開陳したり、対決姿勢をアピールする事だけを目的とした質問が繰り返されたりするなど、官邸で行われる会見の変質・劣化が著しい。そして、総理が国民に伝えたいと考えて推敲した「冒頭発言」の内容ををほとんど報道しない大手メディアも増えた。

 一方、総理が入邸・退邸時に記者の呼びかけに応じる「ぶらさがり」は、首相のカジュアルな発言や立ち居振る舞いを紹介する事で、政権と国民との距離を縮める効果を期待して、小泉政権以降の歴代政権が多用してきた。

 あらかじめ首相がぶら下がりに応じるとわかっている時は、テレビ局の総理番が各社のマイクを束ねて「代表質問」をする。しかし、こちらも最近は悪質な印象操作に使われることが増えた。ぶら下がり会見が終わって立ち去る総理大臣の背中に「逃げるんですか!?」と叫んだ記者もいた。

 こうした経緯から、近年の日本の総理大臣は、「会見」と「ぶら下がり」以外に、月刊紙のインタビューに応じたり、大手メディアの単独取材に応じるなど、自身の意見を国民に伝える新たな機会を模索している。菅政権も、官邸にメディア担当の専門家を置くなど苦労の跡が滲むが、「国民に伝えたい最低限の事すら、大手メディア経由では伝わらない」というフラストレーションが深い。
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印象操作に利用されることもある「ぶらさがり会見」
 しかし、日本の外交と安全保障の根幹にかかわる日米首脳会談前の発信となると、「真意が伝わらない」などと言って愚痴ってはいられない。

 特に今回は新任大統領との初の首脳会談だけに、日米関係に関する菅首相自身の基本姿勢を、バイアスなくアメリカ側に伝える必要があった。だから、菅首相自らの名前で論点を整理したのである。そういう視点で今回の寄稿を読むと、極めて興味深い事実が浮き彫りになる。

 訪米直前のアメリカの主要紙への寄稿となれば、菅首相が独りで書き上げるわけではない。官邸と外務省の外交担当者の腕の見せ所となる。そして「何を強調するか」と同じ位注目されるのが、「何に触れないか」である。

 今回の寄稿では、菅首相はまず「日本は転機を迎えている」と冒頭で言い切った上で、パンデミック後の最重要課題を「景気回復」と「国際経済における日本の強いリーダーシップの発揮」の2点に絞った。

 官僚に任せていたら、こんな割り切りはできなかっただろう。首脳会談に先立って最も重要な準備が、「アジェンダ・セッティング」という作業だ。外交・安全保障・経済・通商・文化交流など、ありとあらゆる分野の2国間関係と国際情勢について、何を議題とし、何を成果として発表するか。官邸と外務省の担当者が、アメリカのホワイトハウスと国務省側と何度もキャッチボールをして、精密に事前調整する。時には数十もの議題がリストアップされ、双方の重要度に応じてランク付けされる。

避けられた「人権」問題

 その数限りない課題の中から、今回寄稿の柱として菅首相が選んだのが「景気」と「国際経済」。すなわち菅首相は、今回の日米首脳会談に際して「自分は経済に一番力点を置いている」と立場表明をしたわけだ。

 経済問題を重視する理由について、菅首相は寄稿の中で丁寧に説明している。「日本は少子高齢化に加え硬直化した官僚システムや既得権益の弊害と闘っている」のであって、こうした宿痾を打ち破る方策として、「環境重視の諸政策」「デジタル化」「TPPなどの自由貿易圏」を突破口とすると解説した。

 ここまで読み進めて、極めて内向きな日本の国内課題をなぜアメリカの新聞に書き連ねたのか不思議に感じたが、続く段落でその疑問は氷解した。

A strong Japan is a prerequisite  for a well-functioning alliance with the U.S. and the foundation for Indo-Pacific peace and prosperity.
(「力強い」日本こそ、緊密に連携した日米同盟とインド太平洋の平和と繁栄のための、「大前提」です)
 ※著者訳。以下( )内も同様

 prerequisiteは、「前提条件」「必須条件」を意味する非常に強いニュアンスを持った言葉だ。日本の抱える数々の問題を列挙した上で、「日本経済がしっかりしないと、アメリカも困るでしょ?」というわけだ。なかなか巧妙なロジックではある。

 ここで重要になってくるのが、菅首相が「書かなかった事」である。今バイデン政権が重視しているのが、「人権」と「環境」だ。バイデン政権は3月22日、ウイグル人弾圧を理由に中国への制裁を断行した。元々バイデン大統領の所属しているアメリカ民主党は、人権と環境については「一歩も譲らない」のが党是だ。菅首相もその事は重々承知しているからこそ、「環境」についてはこの寄稿で繰り返し言及している。

 ところがもう一つの柱である「人権」については、菅寄稿ではなかなか言及がない。ようやく最後のパラグラフで、こう触れた。

 I look forward to the opportunity to fortify our alliance, which represents the universal values of freedom, democracy, human rights and the rule of law,
 (「自由」「民主主義」「人権」「法の支配」を代表する日米同盟を強化するチャンスに期待する)

  これは、歴代首相のみならずあらゆる次元の日米会談、日米交渉で繰り返し使われる決まり文句のようなもので、政策的な意味はない。

 要するに菅首相は、バイデン政権の二枚看板が「人権」と「環境」であるのを知り尽くした上で、「環境」では全面的に歩調を合わせる立場を表明したのに対して、「人権」については一切の具体的言及を避けたのである。

米国メディアの容赦ない指摘

 菅寄稿を公開した10時間前、ウォールストリートジャーナル紙は菅訪米に関するもう一つの記事を掲載していた。

 Biden’s China Rhetoric Makes Japan Uneasy
 (バイデンの対中強硬姿勢が日本を悩ます)
 ※有料記事

 菅首相が寄稿であえて避けた、人権問題に焦点を当てたものだった。副題では、菅首相の対中政策がバイデン政権よりも宥和的であると言い切っている。

 Prime Minister Suga is first foreign leader to meet president in person and brings less confrontational tone on Beijing
 (バイデン大統領の最初の首脳会談の相手となる人物は、中国に対してあまり毅然とした姿勢を示していない)

 本文の書き出しはもっと露骨だ。

 Asked about China at his first press conference last month, President Biden forecast stiff competition and said the U.S. would be unrelenting in telling the world about Beijing’s human-rights abuses.
 (バイデン大統領は先月就任後初めてとなる記者会見で中国について聞かれ、厳しい競争を予想しているとし、米国は中国政府による人権侵害を容赦なく世界に伝えていくと述べた)

 A week before that, Japanese Prime Minister Yoshihide Suga was asked a similar question at a press conference of his own. He said Tokyo and Beijing have various issues between them, and left it there.
  (その1週間前、日本の菅義偉首相は記者会見で同じような質問を受けた。菅氏は「日本政府と中国政府の間にはさまざまな問題がある」と述べるにとどめ、それ以上踏み込まなかった)

 ここで注目されるのは、バイデン大統領が使った「unrelenting」という単語だ。relentとは、「緩和」とか「容赦」など、物事が和らいでいく事を示す単語だが、単体で使われることは滅多にない。「relentress」「unrelenting」というように、否定の接頭辞や接尾辞をつけて、「情け容赦ない」というように使われる。民主党の党是、「人権問題では絶対に譲らない」という姿勢を表現するのに相応しい、極めて強いニュアンスを持った言葉である。

 ウォールストリートジャーナルは、「中国を追及する」というバイデン大統領の立場をunrelentingという強い言葉で表現する事で、同じに質問に対して明確に答えなかった菅首相の消極姿勢をうまく際立たせた。
gettyimages (5609)

人権問題では中国に譲れない?
 この解説記事の正しさを図らずも裏付けてしまったのが、10時間後の菅首相の寄稿である。環境を強調する傍らで人権問題には一切踏み込まなかった文面から、中国批判に二の足を踏んでいる菅首相の立ち位置がはっきりした。

 菅首相の「弱腰」を最もよく象徴しているのが、解説記事の中で使われた1枚の写真だ。

 日米首脳会談の事前調整のため来日したアメリカの国防長官と国務長官が、16日に総理官邸を「表敬」訪問した際の写真だ。直立している大柄なオースティン国防長官に対して、菅首相だけが小柄な体躯をさらに小さくして深々とお辞儀をしている。

 この写真を撮ったのは、キム・キュンホンというAFP通信のカメラマンだが、数ある写真の中からこれを選択したのは、ウォールストリートジャーナル紙だ。官邸が公表した写真の菅首相は、オースティン長官と向き合っていて、頭は垂れていない。菅氏の低姿勢を強調するような構図の写真を、アメリカの有力紙があえて選んだ意図はどこにあるのか。
首相官邸ウェブサイト (5600)

写真は首相官邸ウェブサイトに掲載のもの。WSJには、この前後に菅総理が深々とお辞儀をしている写真が掲載された。
via 首相官邸ウェブサイト
 まず思い浮かぶのが、中国の人権問題に対して、日本も毅然とした姿勢を取るよう「アメリカが日本に指導する」という構図だろう。しかし、国際政治の駆け引きはそんな単純なものではない。

 アメリカ国務省の関係者は、「このタイミングで中国批判に踏み切れない菅首相と会談する事は、バイデン大統領の対中外交の選択肢を増やす」と解説する。

 元々バイデン氏は、副大統領時代に息子のハンター・バイデン氏を伴って訪中し、大きなビジネス案件をまとめ上げるなど、中国との「近さ」が噂されていた。それだけに、中国に妥協的な姿勢を示すことができない。

 そんな十字架を背負ったバイデン氏にとって、対中強硬姿勢を打ち出せずにいる菅首相の訪米は渡に船だ。「同盟国の意向を尊重する」という形をとることによって、中国との交渉の余地を残しておけるというのである。

中国を選んだジョン・ケリー特使

 これを如実に証明しているのが、バイデン政権で気候変動問題を担当するジョン・ケリー米大統領特使(気候変動問題担当)の動きだ。
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ジョン・ケリー米大統領特使
 ジョン・フォーブス・ケリーは、1985年からマサチューセッツ州選出の上院議員を務める民主党の大物政治家で、オバマ政権で国務長官を務めた他、上院で外交委員長も務めた。ケリーの気候変動担当特使就任は、バイデン体制の組閣の中でも目玉人事と言われた。

 そのケリー氏が、まるで菅首相と入れ替わるようにアメリカを発ち、15日から中国を訪問しているのだ。

 菅首相が寄稿で最初に触れた具体策が、気候変動問題だ。バイデン政権が日米一致してこの問題に取り組んでいくつもりなら、菅訪米のタイミングで担当特使がアメリカを離れるはずはない。バイデン・菅・ケリーの三者で、気象変動問題についてのしっかりと意思統一を行ってから、中国に行く方がはるかに効果が高い。

 ウイグル、チベット、内モンゴル、香港の人権問題で中国に甘い顔を見せられないバイデンにとって、気候変動は数少ない「中国と議論がかみ合う」議題である。菅訪米のタイミングでケリーを中国に派遣した事で、バイデンは中国との全面対決を選択したのではなく、歩み寄りの余地を模索している事が明白になったとも言える。

米国・対中政策の「当て馬」となるな!

 このままでは、菅訪米は、アメリカの対中政策の「当て馬」にすぎないという事になる。
 
 バイデンが副大統領を務めたオバマ政権では、似たような事が何度もあった。日本側から繰り返し首脳会談を打診しても応じないのに、国連外交で行き詰まると唐突に日米首脳会談を求めて、日本の力を借りにくる。オバマの独善的な「オレ様外交」には、日本のみならず多くの各国首脳が手を焼いた。
 
 今回も、アメリカ側は一旦4/9に設定した首脳会談の日程を一方的に延期した。一部では、ケリー特使の外遊日程に関する調整ミスと噂された。もしケリーという、閣僚級とはいえ一特使の日程を優先して、日米首脳会談を延期したのだとすれば、それは外交儀礼上極めて非礼な行為である。
 
 ところが、当のケリーは、蓋を開けてみれば日米首脳会談ではなく、中国訪問を選択した。
 
 そもそも「バイデン大統領の最初の首脳会談の相手に選ばれた」と喜んでいる段階で、アメリカ側に「菅政権御し易し」と値踏みされている可能性すらある。

 磐石と表現される日米関係ですら、国際社会の駆け引きは面妖かつ複雑怪奇で、一筋縄ではいかないものだ。菅首相の訪米も、アメリカにとっては自国の外交を有利に運ぶツールに過ぎないのだ。
 
 菅首相の初訪米の背景を見れば見るほど、国際社会における「新米首脳」のポジショニングの難しさが浮き彫りになる。

 しかし、菅首相にも存在感を示すチャンスはある。バイデン大統領との個人的な信頼関係を築く事だ。忙しい首脳がわざわざ出向いて首脳会談を繰り返すのもこのためだ。

 オバマ政権の8年間、打ち解けない首脳関係から何度も煮え湯を飲まされた日本だったが、次のトランプ大統領と安倍首相は正反対に非常にウマが合った。首脳が特別な信頼関係を作り上げた事で、この4年間日米両国は様々な局面でガッチリとタッグを組む事が出来た。

 官房長官として首脳間の信頼関係がいかに大切か肌身で感じてきた菅首相である。バイデン氏と個人的な信頼関係を築く事が、「当て馬」から脱皮する唯一にして最良の方策である。
山口 敬之(やまぐち のりゆき)
1966年、東京都生まれ。フリージャーナリスト。
1990年、慶應義塾大学経済学部卒後、TBS入社。以来25年間報道局に所属する。報道カメラマン、臨時プノンペン支局、ロンドン支局、社会部を経て2000年から政治部所属。2013年からワシントン支局長を務める。2016年5月、TBSを退職。
著書に『総理』『暗闘』(ともに幻冬舎)がある

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この記事へのコメント

山口敬之 2021/4/18 23:04

マリステル様、

ありがとうございます。

外交を理解するために不可欠なのが「前例」と「流れ」です。大手メディアの報道だけでは把握しにくい、国際政治の底流のようなものを、今後もご説明していけたらと思っています。

マリステル 2021/4/17 08:04

菅義偉首相の訪米についての解説が全く見当たらなかったのでありがたいです。一筋縄ではいかないことは想像できますが、アメリカも大統領が変わったばかりで本当に読めなくなりました。菅首相も色々と深い考えで駆け引きをするでしょうが、アメリカの民主党の精鋭達がどのような戦略を練っているのか…丸め込まれないで欲しいです。続報をお待ちしております。

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