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小野田紀美議員のプロフィールを覗いてみると……

BLと政治的スタンスは別もの

 高市内閣で経済安保相の任に就いた、小野田紀美議員。共生社会推進担当も兼任し、就任記者会見では「ルールを守らない方々への厳格な対応や、外国人をめぐる情勢に十分に対応できていない制度の見直しを進める」と述べるなど、早速、気を吐いています(『日本経済新聞』)。

「初の女性総理」が大きな話題になるのは当然ですが、実のところ、小野田議員は「初の腐女子議員」でもあり、もともとBLコンテンツの制作にもかかわっていた人物。一応ご説明しておきますとBLとはボーイズラブの略で、美少年同士の恋愛を描く漫画や小説のことであり、腐女子とはそうしたコンテンツを好むオタク女子のこと。つまり、彼女は筋金入りのオタク議員で、クールジャパン戦略担当相を担っているのも伊達ではありません。
 ぼくも同じオタクとして親しみを感じますが、ところが残念なことに彼女もまた、炎上に巻き込まれています。
 きっかけは彼女が「腐女子のくせに」同性婚にやや否定的な見解を示したこと。同性愛が好きなら、LGBTに理解があって当然、というわけです。

 少し前、ぼくは腐女子があまりに身勝手なフェミ的主張をしていることについて、批判的にご紹介しました。確かに、腐女子にはフェミニストが多い。しかしこれはぼくがいつも「オタクの上の世代、サブカルなどは左派的価値観を強く持っているが、若い世代(といっても40代くらいからでしょうか)はノンポリだ」と言っているのと同じで、まさにアラフォーである小野田議員にはフェミの影響は少ないと思われるのです。

 一方、アンチフェミ的なスタンスの人たちの中にはLGBTをある種、腐女子を叩く棒、ポリコレ棒として使っている――と言いたくなる人もいます。そこでは「神聖にして清浄なるゲイ様を性的に搾取(さくしゅ)するけしからぬ腐女子」との図式がテンプレート化されがちですが、しかしそれはフェミの主張する「ポルノは女の性を搾取している」との論理と重なってしまい、理があるとは思えません。そもそもLGBTのイデオロギーはほぼフェミニズムと重なり合うものと言ってよく、これでは「フェミをもってフェミを制す」になってしまうわけです。
 BLはあくまでファンタジーです。ファンタジーを楽しむのは自由だし、しかしそれと政治的スタンスとは別、とすべきでしょう。

「フィクトロマンティック」とは?

 本件については、「どんな性のあり方でも、フェアに生きられる社会」の実現を目指すという一般社団法人fair代表理事、そしてシスジェンダー・ゲイの(つまり普通の男性ジェンダーを持つ同性愛者である)松岡宗嗣氏もXにおいて、以下のように述べていました。

《BL好きなのに同性婚には反対という件、小野田大臣はBL好きで過去にBLに関する仕事もしていたとのことだけど、BL好きで同性婚には反対というのは、男性同士の恋愛は消費したり利用したりするけど、現実の差別は温存し続けたいという考えでグロテスクだと思う。BLはファンタジーだからという言い訳は通用しない》

 同氏は近年のLGBT関連で影響力のある人物ですが、正直、傲慢(ごうまん)な考えだと思います。
 またポストの前半で、同氏は以下のようにも言っています。

《小野田大臣はフィクトロマンティックであることを明言しているようだけど、まずフィクトロマンティックの人が必ずしもアロマンティック(かつアセクシュアル)とは限らないと思う。(中略)現実の人間と架空のキャラなどに対する恋愛的・性的な惹かれとそのアイデンティティをどう考えるかはその人次第だけど、現状では小野田大臣を「アセクシュアルを公言している議員」とは言えないのでは。

 いずれにしてもフィクトロマンティックという、性的マイノリティであることを公表している人が閣僚になることに意義があるのでは、という点についてはそう思う》


 また「フィクトロマンティック」だ、「アロマンティック(アセクシャル)」だとよくわからないカタカナが出てきて頭が混乱しますが、前者はアニメや漫画のキャラなどに恋愛感情を抱く人のことを指し、後者は恋愛感情、ないし性的欲望を持たない人のことを指します。

 実のところ小野田議員は現実の男性に興味ない旨を言明し、確かにフィクトロマンティックであると自称してもいます。要するに、彼女はアニメや漫画の美少年にのみ萌(も)えている、オタクの鑑というわけですね。ただ、それならば対象が二次元とはいえ「アロマンティック(アセクシャル)」、つまり恋愛感情や性的欲望のない人物とは言えない。その意味で松岡氏の指摘は間違ってはいないのですが、そもそも彼女のセクシュアリティをLGBT用語を持ち出してああでもない、こうでもないとカテゴライズしようとしていること自体、「腐女子なら同性婚に賛成すべき」といった発想と同じく彼女を政治的に利用しようとする、ある意味でさもしい振る舞いではないでしょうか。

LGBTがオタクを政治的搾取している

 先にもBLはファンタジーだと述べましたが、これはそもそも思春期の少女たちの、自らの性に対するある種の「こじらせ」が生み出した表現であり、そこに描かれる美少年はあくまで少女たちの理想像であり、現実の同性愛者とは何ら関係はないと言っていいのです。
 ゲイの間で好まれるポルノは筋骨隆々としたマッチョな男同士が絡むというものが多く、往々にして「ノンケだってかまわないで食っちまう」ホモが登場し、これはノンケへの性的搾取なので発禁にしてほしいところですが(笑)、それに対し、BLは例外はあれ多くの場合、線の細い美少年がスマートな青年に愛される、という図式を持ち、性質が異なります。

 BLにおいては愛する側を「責め」、愛される側を「受け」と称し、これはそのまま男女の性役割をなぞったものなのですが、この「受け」にこそ、腐女子は感情移入していると言える(つまりレディースコミック、そして男性向けのポルノに登場する女性を「受け」の美少年に置換したものがBLと言えるのです)。あくまでヘテロセクシャルの女性があくまで漫画の少年たちに萌えて生み出した、現実の同性愛者とはどこまでも乖離した表現、それがBLなのです。
 そこを「ゲイへの搾取だ」と言うのはフェミニストが萌え美少女のお色気描写に「私への搾取だ」と言っているのと同様、申し訳ないけど「あんな美少女(少年)と自分とを同一視するなんて、随分図々しいなあ」との印象を持ちます。

 同じようなパターンでレズビアンを自称するフェミニストが、やはり萌え系のアニメやアダルト系のコミックで「百合(要するにレズ)」描写があるのを「レズへの差別だ」とするのは古典的な、大昔からある批判です。確かにオタク系の表現には百合的要素も大きく、これはオタク文化黎明期の1980年代には特に顕著でした。
 しかしこれらはオタク文化が、どちらかと言えばモテないタイプの少年少女によって生み出されたというバックボーンを持つからと言えましょう。だからこそ男の子は女性を愛する主体として男性を描くことに屈折があり、百合を描いた。女の子も愛される主体を女性にすることがためらわれ、BLを描いた。こうした「萌えキャラ」たちはいずれもオタクたちの内面から立ち現れた存在と言えるのです。そうした心理を見ようともせずただ差別だとしたり、そこで生み出された表現が現実のLGBTに対して何らかの責任があるかのように言うことに、ぼくは強い嫌悪感を覚えます。

 だってこれって、思春期の少女にとって極めて普遍的な自らの性に対するとまどいを利用して、「あなたもトランスだ」と自分たちの派閥に誘い込もうとしている、トランスのインフルエンサーにそっくりではないでしょうか。

 少し前、『トランスジェンダーになりたい少女たち』が話題になりました。当初、『あの子もトランスジェンダーになった』というタイトルでKADOKAWAからの出版が予定されていたものが脅迫に屈して頓挫(とんざ)、産経新聞出版から改題の上、出されたものなのですが、欧米ではトランスのインフルエンサーが少女たちをトランスに誘導、爆発的にトランスが増えているとの、おぞましい実態の暴かれた本です。思春期の少女が自らの性に揺らぎを覚えるのは、ごく普通のことだと思うのですが、トランスインフルエンサーはそんな少女たちに、YouTubeで「あなたは男の子かもしれない、性を変更することは可能なのだ」と囁(ささや)きかけるのです。

 それと小野田議員のセクシュアリティを云々し、自分たちのイデオロギーのどこに位置づけようか思案する松岡氏の言とは、そっくりではないでしょうか。
 もちろん、別に松岡氏は小野田議員に何かを強制しようとしたり、誘導しようとしたりしているわけではありませんし、また、そもそも小野田議員も下手に「フィクトロマンティック」であると自称しなけりゃよかった……とも思うのですが、結局本件における「BLはゲイへの性的搾取」というリクツは著しく疑問である一方、むしろ、これは「LGBTがオタクを政治的搾取」しようとしている場面なのではないかと、ぼくには感じられるのです。

小野田議員は裏切りもの?

 もうちょっと、この「フィクトロマンティック」について検討してみましょう。実のところ「小野田議員がフィクトロマンティックである」という考え方自体、いかにご当人が自称しようと、ぼくにはいささか疑問なのです。
 アニメの美少年、あるいは美少女が好きな者が普通の人間を恋愛対象とする者と異なったセクシュアリティを持っているとは思えません。確かにオタクたちは「現実の女(男)に興味はない」と自称することも多いのですが、それは多くの場合、自分はモテないという自虐を伴って冗談半分に言われることで、どこまで本当かは疑わしい。

 確かにミス・インターナショナル・ミス・ワールド日本代表のファイナリストになったこともある小野田議員が非モテかとなると、それもまた疑わしく、彼女が本当に現実の男性に興味がないとなれば、それは本気度が高いと言えるかも知れません。
 とは言え、仮にそうだとしてもアニメや萌えキャラが一般化し、それほどディープなオタクでなくとも萌えグッズを持つことが普通になった現代の状況自体が、フィクションのキャラクターに性的欲望、恋愛感情を抱くことがある種、普遍性的であることの証拠であろうし、逆に萌えキャラにハマる男女の多くは、普通に生身の異性に興味を持っていることでしょう。言うなら、アイドルのA子ちゃんのファンである男性が「A子ちゃん以外の女に興味はないぜ!」と言明していても、そのほかの女性に性的な反応を示さないかとなると極めて疑問だ、というのとまったく一緒です。

 つまり、この「フィクトロマンティック」そのものが、ぼくにはLGBTの仲間に組み込むべき、特殊なセクシュアリティであるとは思えないのです。
 そもそもこのフィクトロマンティック、あるいはフィクトセクシャルとかいった言葉は何とはなしに専門用語っぽいだけで、学問上で定義された言葉ではありません。この言葉が誰を発祥とする言葉かは不明ですが、恐らくは「初音ミク」と結婚式を行ったことで話題となった近藤顕彦氏が元祖なのではと思われます。

 が、別に同氏は学者でも何でもなく、エンターテイメント表現の自由の会の編集委員、そして一般社団法人フィクトセクシュアル協会の代表理事を務めている人物。ミクちゃんとの結婚式では参議院議員の山田太郎や大田区議会議員の荻野稔など、オタク界の表現の自由を守るために運動する、「表現の自由クラスタ」がスピーチをしており、要は近藤氏のこうした振る舞いそのものがLGBT運動に「乗っかる」ことで何か政治的、ないし経済的な意図を達成するためのパフォーマンスなのではないかと、ぼくには見えてしまうのです(ところが近藤氏自身、ブログで「女性に嫌われたトラウマでフィクトセクシャルになった云々」と言っています。つまりこうなると同氏自身が「普通の女性が好き」と告白したも同然で、「フィクトセクシャルという独自のセクシュアリティがあるのだ」との主張と齟齬(そご)を来しています)。
 
 要するに、この言葉自体がLGBT側の、「自分の仲間が増えてほしい」という情念、ないしそれに「乗っかりたい」と思っている側の政治的意図に支えられて広まったものであり、概念としてどこまで成立するか疑わしい。今回の小野田議員の炎上はそうした人たちの、「仲間だと思っていたのに裏切りやがって」との党派性に端を発しているようにしか、見えないのです。
 そしてそれは、高市総理が「女のくせに保守派に与する裏切り者」としてフェミにバッシングを受けている光景と、「完全に一致」しているように思われます。

党派制だけでものを考える人たち

 最後に、「ではそもそも、そこまで同性婚とは、景気対策や外交問題に優先されるべき喫緊の問題なのか」についても、ちょっと検討しておきましょう。

 2007年、オープンリー・ゲイの(つまり自身を同性愛者であるとカムアウトしている)石坂わたる氏は東京都中野区議会議員選挙に立候補、1091票獲得で落選しています。何でも中野区は「東京で一番、ホモがたくさん住んでいる町として知られてい」るとのことですが、そこでこの結果は惨憺(さんたん)たるもの。
 中野区のサイトによれば2007年の成人人口は262481人。LGBT団体などの喧伝(けんでん)することを信じるなら、人口の1割くらいはLGBTのはずで、(仮に票を投じたのが全員LGBTだとしても)その4%くらいにしか支持されていなかったことになります(もっとも、同氏は2011年には当選しています。ただこれは性的マイノリティ以外も票田と見込んだ戦略が大きいようです)。
 もちろんこれはホンの一例ですが、本当に市井の同性愛者が同性婚に代表される権利獲得を真剣に願っていたとしたら、この結果はちょっと疑問なのではないでしょうか。

 高市総理はフェミニストの切なる願いと異なり、女性、中でも若年層には91・7%と圧倒的な支持を得ています。それとLGBTの思惑と違って、市井の同性愛者がそこまで同性婚について強い関心を抱いていないこと、この二つの傾向はぴたりと重なるのではないでしょうか。
 結局、彼ら彼女らの思想は、普通に生活を送る市井の人々の気持ちや考えを、一切反映していないものだったのです。

 そしてもう一つ。
 2006年、麻生さんがアキバで演説しただけで、オタクは麻生の手先として叩かれました。これもまた、オタクの上の世代の人たちの「オタクのくせに裏切りやがって」に端を発したものでした。
 小野田議員についても、これからまた近しいことが起こるのは火を見るより明らかですが、オタクもそうした党派制だけでものを考える人たちに瞞(だま)されないよう、気をつけていかねばなりません。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中

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