「兄唱妹随」というメッセージ

 トランプ大統領のコロナ罹患というニュースが世界を駆け巡った同じ日、北朝鮮が発表した1枚の写真が、世界の北朝鮮ウォッチャーに密かな衝撃を与えていた。
 その写真には、注意深い観察者だけに伝わる北朝鮮の重要なメッセージが埋め込められていただけでなく、金王朝の秘めたる真実を雄弁に物語っていたからだ。

 10月1日、金正恩委員長は洪水被害を受けた北朝鮮最南端の街を軍幹部を引き連れて視察した。韓国との軍事境界線に設けられた非武装地帯に接する地域だ。
 この視察を記録した写真が、翌10月2日に発表された。こうした金正恩の活動記録は、北朝鮮の独裁政党である朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」のホームページの「最高指導者の活動」という特設ポータルにアップロードされる。

 今回の発表写真は24枚。金正恩が現場を視察している様子や、新たに建設された分譲住宅のような建物が建ち並ぶ街並みが公表された。
 最も注目されたのが、1枚目の写真だ。恭しくメモを取る軍幹部とにこやかに談笑する金正恩。ありふれた視察風景だが、写真の左隅に1人の女性が写り込んでいる。最高指導者による現地指導の輪に加わることなく、離れた建物の傍らでひっそりとたたずむベージュのトレンチコート姿の女性はごく小さく写り込んでいるだけだが、その容貌から、かろうじて金正恩の妹・金与正だとわかる。
たたずむ金与正と思われる女性

たたずむ金与正と思われる女性

via 労働新聞(10/2日)
 しかし、この一見何ということはないスナップ写真には、決定的に不自然な部分がある。それは「金正恩が何を話しているか、距離的に聞こえていないはずの金与正が、まるで兄に同調するかのように微笑んでいる」という点である。
 こうした写真には、その時々に北朝鮮が伝えたいメッセージが写し込まれている。そしてそのために、人物と構図が周到に設定される。

 それでは、今回のこの写真には、一体どんなメッセージが込められているのだろうか。

 一番大きな手がかりとなるのが、人物の配置と写真の中での大きさだ。

 金正恩は画面のど真ん中で、カメラに正対して膝から上が写っている。これに対して、妹の金与正は左隅の、2人の人物を隔てた先の建物の脇でベージュのトレンチコートを着て佇んでおり、金正恩と比してその身長は遠近法によって3分の1以下に圧縮されている。

 次に構図だ。金正恩の指導を聞く軍幹部と見られる初老の男性3名は、金正恩から1メートル程度離れて立っており、この「ソーシャルディスタンス」によって、カメラマンが金正恩の「平民とは別格のオーラ」を演出している事は明白である。そして兄に比して、金与正の存在ははるかに小さいということも示している。

 そもそも、今回の発表写真24枚のうち、金与正らしき女性が写り込んでいるのは1枚目と、17枚目と18枚目のわずか3枚しかない。
 そして「金正恩と金与正の存在感」という観点で見ると俄然意味を持ってくるのが、17枚目と18枚目の写真だ。農地の畦道(あぜみち)を歩く金正恩一行の様子である。
畦道を歩く金正恩一行①(10月2日 写真17枚目)

畦道を歩く金正恩一行①(10月2日 写真17枚目)

via 労働新聞(10月2日)
畦道を歩く金正恩一行②(10月2日 写真18枚目)

畦道を歩く金正恩一行②(10月2日 写真18枚目)

via 労働新聞(10月2日)
 そもそも、北朝鮮の最高指導者の視察の報道で、移動中の写真が公開されることは極めて稀だ。
 金正恩は5月の工場視察の動画で明らかに足を引きずっていたことが確認されている。そんな足元不如意の最高指導者を、あえて足場の悪い未舗装の畦道で歩かせて、写真を撮った意図はどこにあるのか。
 金正恩の健康回復をアピールする意図もあったかもしれない。しかし、もっとはっきりしているのは、北朝鮮内部での序列を視覚化する意図だ。

 17枚目の写真を見ればわかるように、最後尾の人物は党や軍の幹部ではなく、ノートテイカー(事務方の記録係)だ。すると、18枚目の「畦道行列」の7人のうち、党や軍の幹部は前の6人ということになる。そして、両手を後ろ手に組んで堂々と一行を率いて歩く金正恩に比べて、朝鮮式お辞儀である「コンス」の要領で両掌を前で組んだ金与正の佇まいは、あくまで謙虚だ。

 こうして一連の写真を精密に分析して初めて、1枚目の写真で金与正が見せた「謎の微笑」に込められたメッセージがクッキリと浮き彫りになる。

 すなわち、
「最高指導者である金正恩に比べて、金与正の北朝鮮での地位は依然として低いままである」
「金正恩の圧倒的なリーダーシップに、金与正は完全に同調している」
 ということをアピールしているのである。

 それでは、なぜ北朝鮮は今こんなメッセージを内外に発信する必要があったのだろうか。

北朝鮮が写真に込める「意味」

 金与正の現在の肩書きは、「朝鮮労働党第一副部長」と「党中央委員会政治局員」である。
 北朝鮮の権力序列という意味では、党中央委員会での肩書きと列記される場合の順番によって、その人物が何位にいるのかが類推できる。

 頂点の金正恩を含む5名で構成される中央委員会政治局常務委員会が、中国の「チャイナセブン」に比すべき、朝鮮労働党の最高権力者会議だ。この構成メンバー5名が、いわば「朝鮮ファイブ」という事になる。この下に常務委員ではない政治局員14人がいて、その下に10人程度の政治局員候補が控えている。

 金与正は「政治局員(ないし「政治局員候補」)」と見られていて、どちらにしても新任だから、彼女の序列順位は高々20位程度ということになる。
 折しも「畦道視察」の5日後の10月6日、政治局会合の様子が写真付きで発表された。

 巨大な円卓には、金正恩(らしき人物)を含む28人の人物が着座している。そして、今回の発表写真は9枚あるが、金与正の顔面をとらえた写真は1枚もない。

 ところが、3枚目の写真の左端に、他の老齢の男性に混じって、若い女性が1人だけ、非常に小さく写り込んでいる。頭部を真横から撮っているので、右こめかみと右目右眉が部分的に写っているだけで、これでは誰だかわからない。
 また、8枚目の全体写真は、同じ人物を真後ろから撮っている。顔は見えないが、長い黒髪や骨格から見て、これが金与正である可能性は極めて高い。
政治局会合の模様①

政治局会合の模様①

左端の女性が金与正か?
via 労働新聞(10/6日)
政治局会合の模様②

政治局会合の模様②

後方の背を向けている女性は上記写真の女性と同一人物
via 労働新聞(10/6日)
共産主義国家では、こうした時の着座位置は厳格に序列に従う。金正恩の両隣が最高位の2人で、あとは左右交互に順位が下がっていく。
 金与正らしき女性は、金正恩の右から11番目、左から17番目の位置に座っている。すると、高位の者から左右交互に座るという法則に当てはめれば、金与正の党内序列は21位前後ということになる。

 政治局員の序列は基本的には着任順で、新任者は最低位になるのが通例だ。とすれば、金与正は政治局員として最近新任され、序列21位前後にいるという情報とぴったり符号する。

 一方で、ここで大きな疑問が浮かぶ。なぜ北朝鮮は、明らかに金与正とわかる写真を1枚も公開しなかったのか。


 その理由は明白だ。要するに、最近の金与正は目立ちすぎたのだ。今年に入ってから金与正の果たす役割は、序列をはるかに上回るものとなっていた。
 特に外交分野では金正恩に比肩するような発信を繰り返しており、実質的なナンバーツー兼外務大臣とみなしてもいいような立場にまで駆け上ったのだ。

存在感を増しすぎた……金与正

 金与正がその強烈な個性を外交分野で初めて披瀝(ひれき)したのは、今年の3月3日の夜だ。

 この日、韓国・文在寅政権を痛烈に批判する外交談話を発表したのを皮切りに、金与正は強烈な談話を次々と発表し、対南外交の責任者として振る舞った。そして彼女は常に文在寅を罵倒し、南北共同連絡事務所を爆破し、さらなる軍事行動を予告するという、「最強硬派」の立ち位置を堅持した。
 こうした金与正に対して、金正恩は文在寅に親書を送ったり、軍事行動を中止させたりして、あたかも「対南宥和派」であるかのように振る舞い続けたのである。
 
 そして7月10日、金与正は今度は米朝関係に関する談話を初めて発表した。その長文の談話の中で金与正は「個人的な意見」と断った上で、

①年内に米朝首脳会談を開くべきではない
②金正恩は違う判断をするかもしれない
③首脳会談はアメリカを利するだけ
④完全な非核化などあり得ない

 と繰り返し強調した。
 全てが重い意味を持つ談話だか、長年北朝鮮を見つめてきた者にとって最も衝撃的だったのは②だ。

 北朝鮮という国は、金日成に繋がる系譜をもつ最高指導者だけが国を領導する権利と資格を持つ、と規定する特異な国である。最高指導者の判断に異を唱えることは絶対に許されず、実際多くの幹部が処刑・粛清されてきた。
 ところが、金与正は「金正恩がどう判断するかは別として、年内の米朝首脳会談には反対」と明言したのである。最高指導者でない人物による、前代未聞空前絶後の談話である。

 あまりに異常な事態だけに、専門家の間でも受け止め方が分かれている。
「兄と妹が『北風と太陽』のような役割分担をして、アメリカを揺さぶっている」という解説や、「金正恩の健康状態に重大な不安があり、最高指導者の権限を委譲する段階に入っている」と推測する者も少なくない。

 後者の「金正恩健康不安説」「死亡説」は、未だに世界を揺るがしている。その最大の論拠の一つが「金正恩の肉声」だ。これまで幾度も演説の風景を音声付きで公表してきた金正恩が、今年に入ってからは一度も肉声を公表していないのだ。

 トランプはこれまで3回金正恩と会い、言葉を交わしている。たとえ、そっくりの影武者による視察映像で最高指導者の健康状態を偽装したとしても、偽者をトランプに会わせるわけにはいかない。声紋やDNA鑑定によってすぐバレてしまう。だからこそ「金正恩の代理人として金与正を立てる必要に迫られている」というのが、「金正恩重篤説」を唱える者の推察なのだ。

 ハッキリしているのは、北朝鮮が金与正に対して、「外交責任者」としての箔付けを行っているということである。
 実際先月来、「金与正が特使としてアメリカを訪問する」という情報が浮かんでは消え、消えては浮かんでいる。

 もし重篤な兄に成り代わって妹を対米外交の最前線に立たせるなら、これまでの「党第一副部長」や「政治局員」という肩書きでは圧倒的に不十分だ。

・国内での序列を急速に上げ、
・最高指導者に準ずる発言をし、
・内外に外交責任者としての地位をアピールする

 という準備段階があって初めて、トランプ大統領やポンペオ国務長官と向き合う事が出来るのだ。

 こうした「箔付け」作業の過程で、金与正は対外強硬路線を前面に打ち出しすぎた。しかし水面下の米朝交渉が佳境に入り、「『太陽』役を担って来た金正恩の宥和路線を強調すべき局面に入った」と北朝鮮指導部が判断した、と解釈すれば全ての事象がすっきりと説明できる。

 だからこそ、金正恩はコロナ罹患のトランプを最大限の言辞で見舞った。

「1日も早く全快することを心から願う。あなたは必ず打ち勝つだろう」

 こうした経緯を踏まえると、10月2日と10月6日の一連の写真に込められたメッセージは明確だ。
「最高指導者の金正恩は外交の全権を依然として掌握しており、対米強硬派の金与正も兄に抗(あらが)うことはできない」
「北朝鮮は米朝首脳会談を何とかして実現させたい」
 という本音を、一連の写真でトランプに図解してみせたのだ。

 この北朝鮮のメッセージを、ホワイトハウスに戻ったトランプがどう受け止めるか。
 10月10日には、朝鮮労働党創設75年の軍事パレードが行われる。

▷金正恩が肉声を発するか
▷金与正は雛壇のどこに座るか
▷最新型ICBM(大陸間弾道)は登場するか
 
 今回のパレードは、米朝と東アジアの今後を占うのに極めて重要なイベントとなる。そして、北朝鮮が発表する一見何気ない視察写真を事前に詳細に分析しておくことによって、軍事パレードなどの大きな事象が示す、本当の意味が見えてくるのである。
 (3007)

山口 敬之(やまぐち のりゆき)

1966年、東京都生まれ。フリージャーナリスト。
1990年、慶應義塾大学経済学部卒後、TBS入社。以来25年間報道局に所属する。報道カメラマン、臨時プノンペン支局、ロンドン支局、社会部を経て2000年から政治部所属。2013年からワシントン支局長を務める。2016年5月、TBSを退職。
著書に『総理』『暗闘』(ともに幻冬舎)がある。

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この記事へのコメント

おしり 2020/11/30 02:11

だから尹が近づいたのか、、、記事を見て納得したわ。

kurenai 2020/10/11 09:10

なるほど。絵解き、なわけですね。プロフェッショナルだけが解読できるのですね。

ねこママ 2020/10/9 17:10

大変わかりやすく、また、非常に確度の高い情報と存じます。山口さんのご胆識を賜る事が出来るのも、ひとえに編集部の皆様の並々ならぬ御尽力の賜物と深謝申し上げます。

あずさ 2020/10/9 12:10

山口敬之先生の解説は本当に明確です

北朝鮮のメッセージに、緊迫した米朝交渉がくっきりと浮き彫りになっています

なぜ日本のメディアは、こんな大切な事を報道しないのでしょうか?

pao 2020/10/9 12:10

なるほど、腑に落ちる解説をありがとうございます。
アメリカ大統領選挙の行方次第で状況が様々に変化すると思います。
今後とも宜しくお願い致します。

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