情勢安定の源は、安倍晋三前首相と麻生副総理の存在だった。所属議員96人という最大派閥の清和会を事実上率いる安倍氏と、55人の第二派閥、麻生派のトップである麻生氏が菅首相続投支持を明言している以上、総裁選で番狂わせが起こる可能性は限りなくゼロに近かった。
ところが、国会が閉じて都議選が終わり、東京に緊急事態宣言が出され、オリンピックの無観客開催が決まると、潮目が変わった。磐石だったはずの「菅続投路線」に、今や黄色信号が灯っている。
潮目を変えた東京五輪「無観客」
そして、閉会中審査や所属部会の会合がある時に上京し、その機会をとらえて所属派閥の領袖や先輩議員に、地元の選挙情勢を伝え、選挙応援などの支援を懇願する。
特に今年は、秋までに必ず総選挙がある事がわかっているという、政局的に極めて珍しいパターンである。
本来総理大臣は任期満了のかなり前に解散総選挙に打って出るのが永田町の常道だった。解散するだけの体力がない総理がズルズルと時間を浪費して選択肢を失い、ギリギリで解散に打って出ても「追い込まれ解散」という受け身の選挙となり、惨敗の憂き目に遭ったケースは枚挙にいとまがない。
今年はコロナ禍とオリンピックという異常事態で、菅首相の選択肢が大幅に狭められ、解散総選挙に打って出る事が出来ないまま、自民党総裁任期が2ヶ月後に迫るという、極めて異例の展開を見せている。
要するに、現在の永田町の自民党本部には、各議員と公認候補が全力で収集した全国の有権者の声が、前代未聞の濃密さで集積されている。
菅首相では選挙は戦えない―
こうした悲鳴にも似た声が、今自民党には満ち満ちている。複数の自民党関係者は、潮目が変わった直接のキッカケは、
▶︎都議選の都民ファーストの善戦
▶︎東京への緊急事態宣言発布
▶︎オリンピックの無観客開催
▶︎西村康稔大臣の飲食店への圧力発言
と分析している。
菅首相は、従来は「政局にも政策にも強い男」という印象を持たれていた。第二次安倍政権の発足に当たっては、安倍氏本人も逡巡していた総裁選への出馬を強く進言したのは菅氏だったし、コロナ禍のワクチン接種をここまで迅速に実施できたのも、菅氏の力量あればこそだ。
ところが、都議選に始まる一連の事項は、
(1)小池百合子都知事の狡猾な作戦に翻弄され
(2)無観客五輪で多くの日本人を落胆させ
(3)西村大臣の度重なる上目線の問題発言を即座に修正しなかった事で、国民の気持ちのわからない首相という強い印象を与えてしまった。
要するに「政局にも政策にも弱いじゃないか」という、疑念が国民に拡散してしまったのである。
特に(2)については、オリンピック期間を通じて菅政権に大きなダメージを与え続けると危惧されている。
大谷翔平選手が大活躍している大リーグや、テニスのウィンブルドンといった世界中の耳目を集める大イベントの観客席がノーマスクの群衆で埋め尽くされる光景を見てしまった多くの日本人は、「なぜ東京オリンピックだけ無観客なんだ」と落胆し憤っている。
オリンピック期間中を通じて空っぽの観客席がテレビ画面に映し出されるたびに、熱狂のない舞台で戦わされるアスリートへの同情が高まり、菅首相の無為無策が強く印象付けられてしまう。
そして、今怒りの声を挙げている有権者の多くが、本来鉄板の自民党支持だった保守層だという。
さらに、蓄積していた保守派の怒りの導火線に火をつけてしまったのが、二階幹事長である。
愛想を尽かしはじめた保守層
松木氏が問題にしたのが、自民党の二階俊博幹事長が、韓国の国会議員に対して文在寅大統領の訪日を要請した事だ。
松木氏は、「慰安婦問題」「徴用工問題」で、韓国は度重なる約束違反や国際法違反を繰り返している事。韓国政府の支援する団体が海上自衛隊の正式な旗である「旭日旗」を戦犯旗と貶める活動をしている事などを挙げ、「日本は名誉と誇りにかけて、韓国に毅然と反論し反省を求めなければなりません」と主張。
そんな中で自民党幹事長が韓国側に大統領の訪日を「懇願」するなど、言語道断だと切り捨てた。
松木氏には、私も何度かお目にかかった事があるが、平素は温厚かつ理知的な紳士だ。だからこそ、今回の「絶縁状」の文面の激しさが際立つ。
松木氏は、こう続けた。
「最近の自民党は、夫婦別姓やLGBT法案など、左翼政策が目立ち、本来の保守党の姿から大きく逸脱してしまいました」
「リベラル票の取り込みという目先ばかりを追いかける愚策によって、自民党のコアの支持者が元も子もないのではありませんか?」
「我々真の保守派は、自民党に裏切られた思いであります」
こうした意見は、松木氏だけのものではない。これまで自民党支持という意味では微動だにしていなかった日本会議や神社本庁など保守系団体の中にも、昨今の自民党のリベラル展開に不快感を感じている組織は少なくない。
見えない菅首相の立ち位置
官房長官時代の2013年、武力衝突で治安情勢が悪化する南スーダンに展開中の陸上自衛隊が、韓国軍に対し小銃の銃弾1万発を無償で提供した。
この際菅官房長官は公明党などとの調整に奔走し、韓国軍の緊急要請に全力で応じた。ところが、その後韓国外務省は、「日本には要請していない」と言い始めた。
これに対して菅氏は「国連と韓国の要請を受け、政府は人道的、緊急的措置として徹夜で応えた」「危機的状況で緊迫しているとの韓国の要請があった」と述べた。
困っている韓国軍に、善意で提供した弾薬について、感謝するどころか事実と異なる説明をする韓国政府に、菅氏は呆れ果てたという。
その後も自衛隊機へのレーダー照射など、現場の暴走では説明がつかない韓国側の異常な行動とその後の詭弁に、菅氏は官房長官として、繰り返し煮湯を飲まされてきた。
だから、総理に就任して以降も、菅氏は文在寅政権に対して「戦略的無視」を貫いている。
しかし、菅首相はあまりこうした事を発信しないので、韓国についてどういう基本認識を持っているのか、一般の国民にはほとんど伝わっていない。
だからこそ、二階幹事長が文在寅大統領の来日を「要請した」という媚び阿るような報道が、保守派の強い反発を惹起するという事を予見し、首相として何らかの対応をすべきだった。
私が知っている菅氏は、こうした点で、抜かりのない周到な政治家だった。今回の沈黙が、自民党にどのようなダメージを与えるか、わかっていないのだろうか?
好むと好まざるにかかわらず、あと3ヶ月以内に選挙があるこの段階で、菅氏に絶対的に必要なのは、離れつつある保守層に対する、目配せと説明だ。
そんな中で、
「反日勢力の五輪反対論に押し切られ無観客開催という妥協をし」、
「韓国に阿る二階幹事長に鈴を付けられず」、
「コロナ禍でもLGBTや夫婦別姓に邁進する党内左派ばかりが目立つ」
という、自民党が一番大切にしなければならない保守派が不信感を募らせるような事案が続発している。
自民党内では、「安倍晋三という保守の『重し』が取れた事で、党内の左翼と媚中派・媚韓派が跋扈し始めた」として、「菅氏では、保守政党たる自民党をまとめきれないのではないか」という懸念が高まりつつある。
自民党の衆議院議員にとっては、「国民の保守層と保守団体の信頼回復」が、解散総選挙に勝ち抜く大前提であり、だからこそ「菅下ろし」のマグマが地表近くまで上がって来ているのだ。
ポスト菅は高市早苗?
この意味では、稲田朋美氏も今や同じだ。これまでは「保守のジャンヌ・ダルク」などと持ち上げられ保守層の期待も高かったが、今年5月にLGBT理解増進法を保守派の反対を押し切って成立させようとした事をきっかけに、保守層の期待は一気に萎んだ。
これまで稲田氏を熱烈に支持していた保守団体や保守論壇からは、「稲田氏はもはや保守政治家とは呼べない」と、距離を置かれる事態となっている。
そんな中で、次期総裁選の有力候補として急速に注目を浴びているのが、高市早苗元総務大臣(60)だ。
高市氏は第一次安倍内閣で内閣府特命担当大臣を務めていた時に現職閣僚としてただ一人靖国神社に参拝したほか、選択的夫婦別姓にも反対の立場で、姓変更の不利益を緩和する措置を打ち出すなど、保守政治家としての立ち位置を確立している数少ない女性議員である。
例えば、外国人参政権を巡っては、2010年の国会審議で「1951年段階での在日朝鮮人61万人のうち徴用労務者はわずか245人で、在日朝鮮人は自分の自由意思によって日本に留った者または日本生まれであり、日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もいない」として、強制徴用を外国人参政権導入の根拠とすることに異議を唱えた。
ここまで明確に国会で強制連行に関するデマを否定してみせる政治家は少なく、こうした発言が保守派の高市支持の源となっている。
「菅首相のままでは足元の保守層が総崩れ」「しっかり保守、しかも女性という新しいリーダーの元で、次の総選挙で『保守再生』を打ち出すべき」というのが、高市擁立論者の主張だ。
菅首相が打つべき手
現段階で表立って高市擁立論を唱えているのは、基本的には党外の保守系団体であって、自民党の現職議員が具体的に高市擁立に動いているかどうかは定かではない。
また、高市氏は今は無派閥だが、かつて所属していた安倍氏の清和会との縁が深い。安倍氏が菅首相続投支持の姿勢を堅持している限り、高市氏が総裁選出馬に必要な20人の国会議員の推薦人を集めることは難しいだろう。
しかし、菅首相が「保守層離反」に歯止めをかけるべく目に見える手を打ち、「政局にも政策にも強い首相」というかつての定評を取り戻さない限り、「菅さんの元では解散総選挙は戦えない」として、高市擁立に動く現職の「地殻変動」がいつ表面化しないとも限らない。
そんな菅首相にも、出来る事はある。
・緊急事態宣言発布の根拠を丁寧に国民に説明した上で、早期に蔓延防止措置に格下げし、
・西村大臣の暴走にケジメをつけ、
・二階氏の媚韓発言と、自身の立場の違いを明確に説明し、
・バッハ会長の「出来れば有観客で」との発言を奇貨として、オリンピックの東京都内での有観客開催競技を増やすなど、
これまで保守層が「ガッカリ」した事案を、一つ一つひっくり返していくことだ。
最も重要なのは、無為無策のまま菅首相が総選挙を率いたら、都議選の比ではない大惨敗の可能性が高いという危機感を持つ事だ。
菅氏に、首相を担うだけの怜悧な分析力と、現状を打破する突破力があるか。昨年9月に緊急リリーフ登板した菅氏が、本当の意味で自立した首相になれるか。非常に厳しい、審判の日が近づいている。