多民族国家になる前の日本
リチャード・ゴードン・スミスをご存じだろうか。
おそらく、この名を知る者は滅多にいないだろう。なぜなら、彼は思想家でもなく実務家でもなく研究者でもない。ただ、イギリスで18年間連れ添った妻との結婚生活に嫌気がさして、当時流行していた「世界一周旅行」のパックツアーに申し込んで明治時代の日本を訪れたただの旅行者だからだ。
彼は、大英博物館から収蔵物の収集依頼を受けてはいたが、傷心旅行で日本にきた。しかし、几帳面な性格から、詳細な絵日記をつけていた。これを彼の死後70年以上たって子孫が発見して『Travels in the Land of the Gods: The Japan Diaries of Richard Gordon Smit』(神の国への旅行。リチャード・ゴードン・スミスの日本日記)として出版した。
この日記には、雌のキリギリスが夫を食べてしまう様子をみて「なんということだ。また夫を食べた」と嘆く様子などが記録され、彼のナイーブな心の様子が書かれていると共に、注目すべき記録もされていた。それは「多民族国家になる前の日本」である。
おそらく、この名を知る者は滅多にいないだろう。なぜなら、彼は思想家でもなく実務家でもなく研究者でもない。ただ、イギリスで18年間連れ添った妻との結婚生活に嫌気がさして、当時流行していた「世界一周旅行」のパックツアーに申し込んで明治時代の日本を訪れたただの旅行者だからだ。
彼は、大英博物館から収蔵物の収集依頼を受けてはいたが、傷心旅行で日本にきた。しかし、几帳面な性格から、詳細な絵日記をつけていた。これを彼の死後70年以上たって子孫が発見して『Travels in the Land of the Gods: The Japan Diaries of Richard Gordon Smit』(神の国への旅行。リチャード・ゴードン・スミスの日本日記)として出版した。
この日記には、雌のキリギリスが夫を食べてしまう様子をみて「なんということだ。また夫を食べた」と嘆く様子などが記録され、彼のナイーブな心の様子が書かれていると共に、注目すべき記録もされていた。それは「多民族国家になる前の日本」である。
神秘の国
スミスは、1897年のクリスマスイブに長崎へ到着した。
その「神秘の国」で、ことあるたびに感動した。たとえば、「高貴な日本のウェイトレスはお金を直接手渡されることを好まない。あくまで給仕に対する感謝のしるしとして、紙片を接着させた小さい袋にお金を入れて渡さなければ決して受け取らない」と、祖国イギリスと比較して日本人の民度の高さを称賛する。
中でも最大の驚愕が「金庫の不存在」である。ある日、趣味の狩猟に出かけるため、財布などの貴重品を旅館の金庫に預けたいと申し出た。旅館の女給が持ってきたのは、木製のお盆であった。女給はそこにスミスの財布をポンとのせて、誰でも通れる場所に置いたままさっさとどこかに行ってしまった。
スミスはこの「ふざけた対応」に不快感を示して「狩猟から帰ってきたとき財布がなくなっていたらどうしてくれようか」と思いながら出かけて帰ってくると、彼の財布はそのままあった。日本人の「所有していることを証明できなければ領得しない」という倫理的慣習のすばらしさに彼は驚愕し、感銘を受けた。
そして、その後も日本に通い詰めるのであった(同様の記述は大森貝塚を発見したお雇い外国人エドワード・モースの日記にもみられる)。
スミスが体験した「古き良き日本」は、多くの人々が慣習的に「倫理」を共有していたため、防犯意識も必要性がなく、情動を動機にした一部の殺人事件を除いて、治安はよく守られていた。それは、強大な警察権力によるものではなく、人々が幅広く倫理観を経験的に共有していたからであった。
その「神秘の国」で、ことあるたびに感動した。たとえば、「高貴な日本のウェイトレスはお金を直接手渡されることを好まない。あくまで給仕に対する感謝のしるしとして、紙片を接着させた小さい袋にお金を入れて渡さなければ決して受け取らない」と、祖国イギリスと比較して日本人の民度の高さを称賛する。
中でも最大の驚愕が「金庫の不存在」である。ある日、趣味の狩猟に出かけるため、財布などの貴重品を旅館の金庫に預けたいと申し出た。旅館の女給が持ってきたのは、木製のお盆であった。女給はそこにスミスの財布をポンとのせて、誰でも通れる場所に置いたままさっさとどこかに行ってしまった。
スミスはこの「ふざけた対応」に不快感を示して「狩猟から帰ってきたとき財布がなくなっていたらどうしてくれようか」と思いながら出かけて帰ってくると、彼の財布はそのままあった。日本人の「所有していることを証明できなければ領得しない」という倫理的慣習のすばらしさに彼は驚愕し、感銘を受けた。
そして、その後も日本に通い詰めるのであった(同様の記述は大森貝塚を発見したお雇い外国人エドワード・モースの日記にもみられる)。
スミスが体験した「古き良き日本」は、多くの人々が慣習的に「倫理」を共有していたため、防犯意識も必要性がなく、情動を動機にした一部の殺人事件を除いて、治安はよく守られていた。それは、強大な警察権力によるものではなく、人々が幅広く倫理観を経験的に共有していたからであった。
多文化共生の端緒
ところで、私たちは今、多文化共生と多様性を強く意識している。日本は単一民族ではなく、在日外国人を含めて「日本国」だとする意識が世を覆い尽くそうとしている。
しかし、実は多文化共生の端緒は、今に始まったことではない。実は、大日本帝国は1910年から大量の移民を受け入れた。それがどれほどの数であったか正確な統計は残っていない。ただ、女性皇族と異民族の婚姻を奨励するなど、移民たちは単なる労働者ではなく、同胞としての地位を得た。
具体的には、有権者として国政に参加して異民族の衆議院議員を当選させ、異民族の裁判官、異民族の伯爵や侯爵などの貴族、異民族の将軍を迎える社会となっていた。ただし、現代のように「日本語教育推進法」なる法律も存在せず、異なる文化を持つ人々との一体化を手作業で探っていた。明治の終わりに、日本は多民族国家になったのだ。
私がイギリスに留学していたころ、ちょうど移民受け入れ制限とEUからの離脱をどうするかという議論が活発な時期だった。そこで、多くのEU離脱派を支持するイギリス人が日本を称賛していたのを覚えている。それは、日本は移民を入れていないから治安が良く素晴らしい国だ……というものだ。
そのたびに私は、このとんでもない誤解を解いて回った。日本は1910年から35年間ものあいだにとてつもない数の移民を受け入れ、かつ参政権や爵位や官位を与えて一体化する努力を続け、1950年に近隣で大戦争が始まった後は、問答無用に押し寄せる難民を快く受け入れたことを説明した。そのおかげで、今も大量の移民の子孫が「日本人とは全く異なる利用率」で福祉にぶら下がっていることを説明すると、イギリス人たちは目を丸くして驚き、そして、共通して次の指摘をした。
「移民の将軍がいた? じゃあ、日本の軍隊は相当弱体化しただろう。イギリス軍も異民族の兵士を使うがあくまで兵士であって、しかも異民族だけの部隊で固めていたが、日本は混ぜたのか」
この指摘を受けて、私はある記録映像が脳裏をよぎった。それは、1945年2月に始まった硫黄島の戦いで、日本陸軍の地下要塞の建築に動員されていた「異民族の軍属」が、戦闘開始後すぐアメリカ軍に投降し、要塞の出入り口を指差ししてアメリカ兵に教えている「裏切りの映像記録」であった。
しかし、実は多文化共生の端緒は、今に始まったことではない。実は、大日本帝国は1910年から大量の移民を受け入れた。それがどれほどの数であったか正確な統計は残っていない。ただ、女性皇族と異民族の婚姻を奨励するなど、移民たちは単なる労働者ではなく、同胞としての地位を得た。
具体的には、有権者として国政に参加して異民族の衆議院議員を当選させ、異民族の裁判官、異民族の伯爵や侯爵などの貴族、異民族の将軍を迎える社会となっていた。ただし、現代のように「日本語教育推進法」なる法律も存在せず、異なる文化を持つ人々との一体化を手作業で探っていた。明治の終わりに、日本は多民族国家になったのだ。
私がイギリスに留学していたころ、ちょうど移民受け入れ制限とEUからの離脱をどうするかという議論が活発な時期だった。そこで、多くのEU離脱派を支持するイギリス人が日本を称賛していたのを覚えている。それは、日本は移民を入れていないから治安が良く素晴らしい国だ……というものだ。
そのたびに私は、このとんでもない誤解を解いて回った。日本は1910年から35年間ものあいだにとてつもない数の移民を受け入れ、かつ参政権や爵位や官位を与えて一体化する努力を続け、1950年に近隣で大戦争が始まった後は、問答無用に押し寄せる難民を快く受け入れたことを説明した。そのおかげで、今も大量の移民の子孫が「日本人とは全く異なる利用率」で福祉にぶら下がっていることを説明すると、イギリス人たちは目を丸くして驚き、そして、共通して次の指摘をした。
「移民の将軍がいた? じゃあ、日本の軍隊は相当弱体化しただろう。イギリス軍も異民族の兵士を使うがあくまで兵士であって、しかも異民族だけの部隊で固めていたが、日本は混ぜたのか」
この指摘を受けて、私はある記録映像が脳裏をよぎった。それは、1945年2月に始まった硫黄島の戦いで、日本陸軍の地下要塞の建築に動員されていた「異民族の軍属」が、戦闘開始後すぐアメリカ軍に投降し、要塞の出入り口を指差ししてアメリカ兵に教えている「裏切りの映像記録」であった。
「日本語教育」に費やした経費
多くの方が誤解しているが、日本人もよその地域に行けば異民族である。異民族の遺伝的・血統的定義はない。それは、単に「文化や習慣や帰属意識を共有できない人々」の総称である。
本来、文化や帰属意識や慣習というものは長い年月をかけて数世代、数十世代にわたる歴史の蓄積によって完成する。それを合理的思弁による「思い付き」で無理やりにでも合一化しようとすると、どうしても反発や「ひずみ」が生じる。その「小さな紛争」は必ずしも歴史的に記録されるものではないが、解消するには大きな手間となったであろう。
令和元年に施行された「日本語教育の推進に関する法律」では、外国人が日本社会で普通に生活出来るために必要な「学習時間」と、それをサポートする日本語教師の資格と役割について定めている。現代のようなシステム化された社会であっても、外国人が日常生活でトラブルを起こすことがない程度まで日本語を学習できるようになるまでは、莫大な時間とコストがかかる。
大日本帝国の時代に比べて日本語教育を必要とする人々の数は極端に少ない現代でさえ、これほどの手間がかかるのである。では、1910年以降、私たちは異民族との円滑な協力関係を構築するまで、どれほどの経費を要したのだろうか。ダム建設などのインフラ整備の経費は記録されているが、こうした細部の「日本語教育」の記録は一切ない。
そして、これらの「日本語教育」に費やした経費は、大東亜戦争という建国以来の大事業を合理的に遂行するにあたって、果たして有利に働いたのであろうか。不利に働いたのであろうか。その歴史的検証もいまだになされていない。
少なくとも言えることは、多民族国家となった大日本帝国には、もはやゴードン・スミスが感銘を受けたような「泥棒のいない世界」は消滅し、秩序を守る立場の軍隊の内部でさえ軍靴などの備品窃盗が多発して、もうどうしようもなくなっていたのである。
本来、文化や帰属意識や慣習というものは長い年月をかけて数世代、数十世代にわたる歴史の蓄積によって完成する。それを合理的思弁による「思い付き」で無理やりにでも合一化しようとすると、どうしても反発や「ひずみ」が生じる。その「小さな紛争」は必ずしも歴史的に記録されるものではないが、解消するには大きな手間となったであろう。
令和元年に施行された「日本語教育の推進に関する法律」では、外国人が日本社会で普通に生活出来るために必要な「学習時間」と、それをサポートする日本語教師の資格と役割について定めている。現代のようなシステム化された社会であっても、外国人が日常生活でトラブルを起こすことがない程度まで日本語を学習できるようになるまでは、莫大な時間とコストがかかる。
大日本帝国の時代に比べて日本語教育を必要とする人々の数は極端に少ない現代でさえ、これほどの手間がかかるのである。では、1910年以降、私たちは異民族との円滑な協力関係を構築するまで、どれほどの経費を要したのだろうか。ダム建設などのインフラ整備の経費は記録されているが、こうした細部の「日本語教育」の記録は一切ない。
そして、これらの「日本語教育」に費やした経費は、大東亜戦争という建国以来の大事業を合理的に遂行するにあたって、果たして有利に働いたのであろうか。不利に働いたのであろうか。その歴史的検証もいまだになされていない。
少なくとも言えることは、多民族国家となった大日本帝国には、もはやゴードン・スミスが感銘を受けたような「泥棒のいない世界」は消滅し、秩序を守る立場の軍隊の内部でさえ軍靴などの備品窃盗が多発して、もうどうしようもなくなっていたのである。
大局の視点を明らかに欠いた多文化共生社会
多文化共生社会とは、大局の視点を明らかに欠いている。
目先の賃金格差による薄利のみを目当てにし、治安の安定という本来ならば莫大な維持コストのかかるものを投げ捨てようとしている。この影響は、単に刑事事件だけの問題にとどまらない。やがて、秩序そのものに影響してくることだろう。
フランスの裁判官、国会議員、外務大臣を務めたアレクシ・ド・トクヴィルは、アメリカ合衆国の建国から成長の様子を分析した『De la démocratie en Amérique』(アメリカの民主主義)において、次のように重要な指摘をしている。
“人民主権の原理は隠されているものでもなく内容自体に空虚さがあるものではない。それは、習俗によって確認され、法律によって宣言されたものだ”(トクヴィル『アメリカの民主政治』井伊玄太郎訳)
民主化した社会では、それまでの封建的な権威をまとった勢力が一掃されて平等な社会となるが、人々は逆に一切の権威を拒絶するようになるものの、個々人の能力は違うわけであるから貧富の格差が拡大して相互不信が高まり、社会不信にあふれた社会となる。この「不信」を動機にした「民主主義の暴走」が強く懸念され、狂気の政策も多数派の合意があるということで執行されてしまう恐れがある中、この暴走を阻止する最大の要素が「幅広く受け入れられた習俗・慣習」であるとトクヴィルは述べている。
目先の賃金格差による薄利のみを目当てにし、治安の安定という本来ならば莫大な維持コストのかかるものを投げ捨てようとしている。この影響は、単に刑事事件だけの問題にとどまらない。やがて、秩序そのものに影響してくることだろう。
フランスの裁判官、国会議員、外務大臣を務めたアレクシ・ド・トクヴィルは、アメリカ合衆国の建国から成長の様子を分析した『De la démocratie en Amérique』(アメリカの民主主義)において、次のように重要な指摘をしている。
“人民主権の原理は隠されているものでもなく内容自体に空虚さがあるものではない。それは、習俗によって確認され、法律によって宣言されたものだ”(トクヴィル『アメリカの民主政治』井伊玄太郎訳)
民主化した社会では、それまでの封建的な権威をまとった勢力が一掃されて平等な社会となるが、人々は逆に一切の権威を拒絶するようになるものの、個々人の能力は違うわけであるから貧富の格差が拡大して相互不信が高まり、社会不信にあふれた社会となる。この「不信」を動機にした「民主主義の暴走」が強く懸念され、狂気の政策も多数派の合意があるということで執行されてしまう恐れがある中、この暴走を阻止する最大の要素が「幅広く受け入れられた習俗・慣習」であるとトクヴィルは述べている。
保守主義の責務を思い出せ
つまり、貴族の権威によって人民の自由が抑制された社会でもなく、また人民が民主主義の大義名分によって狂気の暴走を自由にできる社会でもなく、安定して自由な社会を維持するために必要な要素が、「慣習」を幅広く共有する人々の存在なのである。
この意味で、異なる習俗・慣習の人々を受け入れることは、単に治安の問題以前に、この異民族たちが結婚して子どもを産み、「旧来の日本人とは異なる価値観」で徒党を組んで日本社会に流入してきた場合、どうなるのだろうか。いや、それはもうすでに起きている。
異常な政策を主張するだけの特定の野党だけにとどまらず、普段は基本的人権の尊重を声高らかに主張している者が、中国共産党による深刻な人権侵害を見て見ぬふりし、大切な同盟国との外交関係に亀裂を入れつつある現実さえ起きている。トクヴィルが指摘した「民主制の暴走」すなわち多数派の合意があればどのような狂気も首肯されるという悪夢である。
しかし、まだ完全にダメになったわけではない。多数派ではないが、決して少数派ではない「生粋の日本人」の勢力は、衰えていない。そして、この生粋の日本人と価値観を共有できる「外国人」も少なからず存在する。
多様性とは、肌の色や目の色といった精神に影響しないあくまで外観的かつ表層的な要素で一切を判断して、排他的性格を持つことを許さない社会であって、倫理観の共有まで否定するものではない。なればこそ、この残された「慣習の芽」を絶やすことなく今以上に大切にし、日本を愛するすべての人々はその出自に関わらず日本の伝統に回帰しなければならない。それが、日本を救うのである。「財布をお盆においても盗まれない社会」を取り戻すのが、私たち保守主義の責務である。
この意味で、異なる習俗・慣習の人々を受け入れることは、単に治安の問題以前に、この異民族たちが結婚して子どもを産み、「旧来の日本人とは異なる価値観」で徒党を組んで日本社会に流入してきた場合、どうなるのだろうか。いや、それはもうすでに起きている。
異常な政策を主張するだけの特定の野党だけにとどまらず、普段は基本的人権の尊重を声高らかに主張している者が、中国共産党による深刻な人権侵害を見て見ぬふりし、大切な同盟国との外交関係に亀裂を入れつつある現実さえ起きている。トクヴィルが指摘した「民主制の暴走」すなわち多数派の合意があればどのような狂気も首肯されるという悪夢である。
しかし、まだ完全にダメになったわけではない。多数派ではないが、決して少数派ではない「生粋の日本人」の勢力は、衰えていない。そして、この生粋の日本人と価値観を共有できる「外国人」も少なからず存在する。
多様性とは、肌の色や目の色といった精神に影響しないあくまで外観的かつ表層的な要素で一切を判断して、排他的性格を持つことを許さない社会であって、倫理観の共有まで否定するものではない。なればこそ、この残された「慣習の芽」を絶やすことなく今以上に大切にし、日本を愛するすべての人々はその出自に関わらず日本の伝統に回帰しなければならない。それが、日本を救うのである。「財布をお盆においても盗まれない社会」を取り戻すのが、私たち保守主義の責務である。
橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。令和3(2021)年8月にワックより初めての著書、『暴走するジェンダーフリー』を出版。
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。令和3(2021)年8月にワックより初めての著書、『暴走するジェンダーフリー』を出版。