"精子提供出産"の落とし穴

 昨年末、不妊治療をしていた三十代の日本人女性が「精子提供」で詐欺にあったというニュースが巷を騒がせた。この女性は、夫とのあいだに第一子を出産したあと十年以上妊娠できず、ツイッターで知り合った「京都大学卒で生命保険会社勤務の三十代男性」の精子提供を受けて無事妊娠したところ、実は精子提供者は中国人でかつ学歴詐称をしており、しかも既婚者であったというものだ。女性は精神を病んだために育児能力を喪失したとして、生まれた子を児童相談所に引き渡して事実上の棄児としたが、中国人男性に損害賠償請求を申し立てることと、報道各社の取材を受ける能力は有していた。

 女性は「精子提供の法整備が必要」と訴えるが、よく報道内容を精読してみると、女性は精子提供の事実を夫には内緒にしており(朝日新聞報道)、また提供方法も病院など医療施設ではなくホテルでの通常の性行為であったという(週刊女性記事)。精子提供とは配偶者の同意を要件とするから、この女性は不倫を精子提供と自称しているだけであり、実際の不妊治療とは何ら関係ないものである。しかし、この事案の是非はともかくとして、「生まれた子供の帰属(する国)」という視点から見たとき、大変重要な問題が含まれていることが分かる。


 というのも、現在の国籍法は「精子提供出産」といったことを全く想定しないまま、法制化されているのである。つまり、このまま国籍法を放置すると、「どこのだれかわからない精子でつくられた子ども」を日本人女性に産ませて、子どもに日本国籍を取得させた後、精子提供者が親として名乗り上げれば「日本人の児童を養育する」という在留資格が生じて、永続的に日本国内で生活することが法制上認められてしまう、ということだ。現在、精子提供で出産した児童は毎年1万人以上にのぼるという。それも集計できた数であり、「ツイッター経由で中国人から精子提供された分」などを政府が把握する手段はない。果たしてこのままで良いのだろうか。
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様々な出産形態が存在することから、時代にあわない「国籍法」は見直すべきだ―

日本国籍を有する条件とは

 「何が日本人か」という定義は、大日本帝国時も現在も日本国も法律によって決まる(日本国憲法第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。大日本帝国憲法第十八條 日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル)。よって、国民の定義を決める重要な変更であっても、憲法とは違い議会の裁量で決めることが出来る。

 日本は、1984年まで「父親が日本人である者が日本人である」という定義を明治以来一貫して採用していた。これを国籍血統主義という。しかし、他国では国籍出生地主義といって、その国で生まれた場合のみ国籍が付与されるという国籍法を持つ国も少なくない。このため、1980年代になって国際結婚が活発化すると、アメリカ人の父親と日本人の母親が日本国内で出産すると子供が無国籍となってしまうケースが生じた。こうした事態を解決しようとして、「父親が日本人の場合は日本人」から「父または母が日本人の場合は日本人」だと、日本人の定義を1984年に変更したのである。(※なお、立憲民主党の議員で二重国籍を指摘された者が”私は生まれた時から日本人”と主張していたが明確な虚偽である。1984年以前に生まれた者は父親が日本人でなければ生まれた時に日本国籍は絶対に無い)
 さて、これで一件落着かと思えば、そうではない。「日本人の定義」を拡大した目的は、父親が出生地主義国の国民である児童が無国籍となってしまうことを救済することであったが、この目的外でも制度は当然利用され、「父親が血統主義国の国民=中韓など」の子どもが、日本人女性から生まれることで自動的に日本国籍を追加取得して議員や公務員に任官できる「二重国籍問題」が発生したのである。

 更に言えば、「中国人男性と日本人女性がアメリカで出産」した場合、その子供は日中米と三重国籍となり、「中国人男性がフランス人女性の卵子で日本人女性に代理母をさせてアメリカで出産」をすれば、子供は四重国籍になるなど、もはや「国籍」の定義が極めて不安定化しているのである。これらも全て、国籍法が「精子提供」や「受精卵移植の代理母」や「内密出産」など、近年の医学的進歩による新しい形での出産に何ら対応していない「立法権の不作為」によって生じていると考えられる。

 現行の国籍法のように、「父または母が日本人なら子は日本人」という「日本人の定義」をこのまま続けると、実は名乗り出ていないだけで(届け出をしていないだけで)、明治時代に相当数の日本人がボリビアやコロンビアなど南米に移民しているのであるから、祖先に一名でも日本人がいたら(例え死亡していたとしても日本人としての事実・実体があるならば法の遡及が為されているため)その子孫は日本国籍取得条件を満たし、「日本人」の人口は既に三億人を超えていても不思議ではない。現状、自らの祖先に日本人がいると知らないために届け出をしていない数多の人々が、ある日突然その事実に気づいた場合、何が起きるのか想像されたい。実際、そうした理屈で相当数の「日系人」が日本に来ている。しかし、それで良いのだろうか。
私は反対だ。
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本来はめでたいはずの結婚も、「国籍取得」のために利用する人が絶えないことを忘れてはならない。
 では、どうすればよいだろうか。現行の国籍法を改正して「日本人の父母から生まれた時、日本国籍を取得する」に変更すべきである。例外的な事例は「父母いずれかが出生地主義を採用する国民であり、やむを得ない事情で外国人の父または母の国で出産できず、子がいずれの国籍も得られない無国籍となるとき、日本人の父または母の国籍を継承する」とすることで解決すべきだ。

 つまり、現在の国籍法が「父または母が日本人なら日本人になる」と改正された目的は、あくまで「無国籍児童」を救済する目的であり、父または母が中韓国籍であるから既に自動的に中韓国籍を取得している児童に、あえて日本国籍を追加して与えるべき合理的理由はないのである。

「国籍」が必要な理由

 ここで、何故「国籍」の定義を限定しなければならないのか説明したい。

 保守主義の父、エドマンド・バークは主著『フランス革命の省察』において、次のような理由で自然権(人が生まれながらな持つ権利)と市民権(社会的に獲得する権利)は両立し得ないことを説明した。

 それは、人が自然権を持つこと自体は否定しないが、原始時代から社会契約を取り交わして国家を設立した後も、なお自然権を主張することの矛盾である。つまり、自然権には、人が他人から侵害されない基本的人権を有すると同時に、自己を守るために他人の生命財産を侵害する権利も同時に含まれる。そうして人は原始時代で生活をしてきた。しかし、社会契約によって国家が成立したならば、国家によって人は権利を保障される機会を得たと同時に、任意に他人を殺傷する自然権も消滅したのである(仇討ちの禁止など)。にもかかわらず、基本的人権だけは神聖不可侵とされて、様々な慣習を伴う社会契約の成立後も存在するというのでは、理屈が合わない、というものだ。以下にバークの言葉を引用したい。

 “もしも、市民社会が人間の利益のために作られるのであれば、このとき作られた目的である諸利益のすべてが人間の権利となる。人間はこの規則に基づき生きる権利を有し、正義に基づく裁判を受ける権利を持つ。働いたならば利益を得る権利を持ち、両親から得る相続財産の権利を持ち、自らの子どもを養育して教育する権利を持つ。そして、教育を受ける権利や、死亡時には慰藉される権利を持つ。人は、他人を害さない範囲で行い得る権利を持ち、社会がその技と力を結託させて提供し得るすべての事柄を公正に受け取る権利を持つ。(中略)もし、市民社会が契約の産物ならば、この契約が法となる。この契約は憲法を限定的なものにして補完する。立法、司法、行政の各権力はすべてこの契約から生まれているため、契約以外の事由によっては存在する理由がない。このため、市民社会が契約していないものがどうして認められるのだろうか。人間は、契約によって、契約以前の基本的な権利の一切を手放した。人は自己を唯一の統治者とする権利を手放した。当然、自然法で得る権利の多くのを手放した。人は市民社会によって得た権利と、それ以前の自然権による権利を同時に得ることは出来ない”(エドマンド・バーク『フランス革命の省察』 著者による翻訳 一部改訳)
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保守主義の父と言われるエドマンド・バーク
via wikipedia
 つまり、バークは「自然権」と「市民権」は両立し得ないと述べ、ただ生まれたからという理由で人が権利(商売的な権利を除き)を獲得して、国家の運営や指揮に参画することは許されず、あくまで人は獲得した慣習に基づく社会的な貢献度合いなどに応じて社会的な権利を獲得すべきだと説明する。「可哀想だから」との事由でみだりに国籍を付与することはまさに自然権と市民権の混同にあたる。

 こうした視点から現在の国籍法における「日本人の定義」をみたとき、どうなるだろうか。先人たちが積み上げてきた社会契約上の利益(たとえば、国家の信用、パスポートの信用など)に対して、何か貢献したというのだろうか。父母から慣習を引き継ぎ、それに基づいて社会発展に寄与できるだろうか。ただ、「基本的人権があるから」という大義名分によって私たちの築き上げた社会に参入して利益配分を受ける資格が当然あるという理屈には納得できない。

日本の価値観や慣習を継承する者を「日本人」とすべき

 両親ともに日本人であれば、日本人としての価値観や慣習は当然父と母から継承する。そのほかの慣習は継承しない。しかし、父母の一方が他国の者であった場合、当然他国の慣習や倫理が教育によってその者の慣習となるわけである。祖先の一人に日本人がいたということで、他国の親から得た慣習に染まっていながら(特に家庭内で支配的な地位となりやすい父親が他国の慣習を持つ場合などでも)、日本社会に参加する資格を当然に得るのである。私たちの日本社会に何ら貢献せず、また日本社会についての知見や受け入れられてきた慣習も身に着けず、他国の慣習に染まりながら日本人としての権利を行使するのである。

これでは、一見すると日本社会に貢献しているようでもその実体は既存の慣習を体得できる術がないのであるから、異なる倫理・慣習を日本社会に注入して、内部より破壊しかねない事態も起きうる。それは実際に起きている。例えば、国家運営をする国会議員は全員「日本国」に魂の髄までその忠誠が向けられていると誰が断言できるだろうか。

 「父母のうち一名でも日本人ならば日本人だ」という理屈は、「女性皇族から生まれた子ならば皇族だ」という理屈にも似る。父母からの正当な慣習の継承を経ることなく、かつ他国への参加権を二重国籍としてもったまま私たちの社会へ当然に参加する権利を生まれながらして持つという厚かましさをこれ以上尊重すべき理由がどこにあるというのだろうか。そのような者が果たして私たちの社会に寄生するのではなく貢献するのだと、どうして断言できるのだろうか。それこそ差別である。
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日本の価値観、伝統を継承する人をまずは日本人とし、例外は限定して考えるべきであろう―
 冒頭で述べたように、ツイッターで中国人から精子提供を得て出産したものの棄児として孤児院送りにされた中国籍を有する者が自然権である基本的人権を大義名分に日本国籍も更に得て「日本人としての慣習」を身に着けて「日本社会に貢献できる」とは筆者にはどうしても思えない。そして、このような事例は氷山の一角ではなく、今後大規模に増加するものと予想され得る。そのとき、現在の社会を私たちは維持できる保障がどこにあるというのだろうか。

 以上の理由から、日本人とは、「契約である認知もしくは婚姻した日本人の父母から生まれた者」であるべきだ。父母の一方のみが日本人であることは帰化の理由にすべきである。何故ならば、出生自体が契約に由来しないのに、契約によって成立した国家に参画する利益を得る理由が無く、生まれながらにして二重国籍となる場合は、その外国の国籍(慣習の体得)を尊重すべきであり、これに日本国籍を追加すべき理由は無いからである。
※下線は編集部

 例外的な救済措置として、子が外国人の父または母いずれの国籍も継承できないやむを得ない理由が父母の意思とは無関係に生じたときに限り、日本人の父または母の日本国籍を子が継承するように国籍法を改正すべきである。
橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。令和3(2021)年8月にワックより初めての著書、『暴走するジェンダーフリー』を出版。

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