「正しい保守」のLGBT法案考――"自然体"でLGBT...

「正しい保守」のLGBT法案考――"自然体"でLGBTと向き合ってきた日本の歴史を見落とすな【橋本琴絵の愛国旋律㉞】

「保守」を名乗れば何でもアリか?

 3年前の平成29年7月、自民党の杉田水脈議員が月刊誌『新潮45』に寄稿した内容が世間の話題となった。

 この寄稿文中に含まれる「LGBTは生産性がない」という文言に注目が集まった。

 これについて、私は賛成も反論もない。何故ならば、「生産性」の目的が経済活動であればLGBTの方々に生産性があると言える一方、あくまで生殖活動に限って言えば子供をつくらないためだ。

 さて、最も重要であると考えられるのは、杉田水脈議員の「生産性」主張に対する、稲田朋美衆議院議員のコメントである。稲田議員は「(LGBTについて)多様性を認め寛容な社会をつくることが保守の役割だ」(発言抜粋)と主張した。

 近頃は、立憲民主党の枝野議員や蓮舫議員までもが保守を自称している。もちろん、「保守主義」であると名乗れば良いと思われている風潮自体は肯定的に見ることが出来るが、独自の解釈で「保守」を定義することは、保守政治の根幹に係る問題であると考える。

 稲田議員の前掲主張も「自己の主張を保守主義であるとのオブラートに包みこめば良いのではないか」といった考えがあるように思える。

 しかし、果たして本当に「保守主義」という政治思想の在り方に、彼らが言うような多様性や寛容が関係するのであろうか。改めて、その点を探っていきたい。
橋本琴絵:「正しい保守」のLGBT法案考

橋本琴絵:「正しい保守」のLGBT法案考

昨今はLGBT問題だけでなく、女性権利に関する発言も目立つ稲田氏

「保守」の概念とは

 保守主義とは、個人の思い付きやその場限りの「アイディア」を忌み嫌う。イギリスに端を発した保守主義には厳格な定義があり、容易に「保守」という器へ様々な概念を投げ込めるといった性質のものではないことを先ず強調したい。

 そこで、「LGBTは生産性がない」といった類の主張を保守主義の立場から考察を加えると、どのような評価となるのだろうか。

 保守主義の父エドマンド・バークはその主著『フランス革命の省察』で次のように述べている。

 「個々人が自分一人の理性に従って行動するよりも、偏見に従って行動する方が賢明である。またその偏見は、より永く続き、より広く普及しているほど良い」

 ここでいう偏見とは、一個人のみが持つものではなく、歴史的経験則によって多くの人々が時代を経てもなお共有している概念を言う。偏見とは、例えば「うなぎと梅干しは食べ合わせが悪い」といった類のものから、「北枕は縁起が悪い」というものまで幅広くある。

 個々人が個別的に物事を考えるよりも、民族や国家といったマクロな主体の中において、歴史的経験則によって形成された偏見とは、一人の人間が人生の短い期間内で考えたものではなく、幾世代にも渡る無数の世代の人々が考えたことまたは経験したことの集大成であるためにその精度は正しく、保守主義はその偏見を尊重するという考え方である。

 バークはこの伝統的偏見を「正しい偏見(just prejudice)」と表現した。

日本の歴史に見るLGBT

 では、LGBTの方々へ対して、私たちはどのような「偏見」をもっているだろうか。

 例えば、人気タレントのマツコ・デラックスさんのように、陽気で面白いイメージがある。いわゆる「オネエ系」と言われる人々はトランス女性が多く含まれ、社交的で明るく、多くの人々を楽しい気持ちにさせてくれるという「偏見」があるのではないだろうか。

 また、同性愛者男性が小さな男の子に性的な行為を強要した犯罪の報道もありながら、歴史的には、戦国大名と若い小姓の秘め事、封建時代の春画から同性愛やトランスジェンダーをテーマにした演劇や出版物などが、長いあいだ我が国では受け入れられ続けてきた事実もある。

 しかし、公共の場で女装した男性を嘲笑する観念も存在し、戦前から戦後に制作された映画やアニメーションでも「おかま」という呼称で小馬鹿にした表現が数多くみられ、いわゆる「ノンケ」(同性愛ではない男性)に何らかの性的行為を求める様子などを「危険視」した描写も散見出来る。そうかと思えば、女性が男装した場合、例えば「男装の麗人」として有名な川島芳子(愛新覚羅家皇女)のように、肯定的に記録される人々もいる。
橋本琴絵:「正しい保守」のLGBT法案考

橋本琴絵:「正しい保守」のLGBT法案考

「陰間茶屋」「男色」が浮世絵のテーマになるなど、日本は昔から同性愛におおらかであった。
via wikipedia
 これらの事実に共通する事実を抽出すると、どうなるであろうか。

 それは「LGBTであること自体は秘匿されるべきではないが、LGBTの性的嗜好に基づいた実際の性行為は公にされるべきではない」といった印象に要約されるのではないだろうか。

 ここで、重要なことに気づかされる。日本にはLGBTだからといって教育の機会を奪われ、公民権が停止され、追放され、あるいは刑務所に収容され、死刑判決を受けるといったことは全く存在せず、観念として入り込む余地もないという客観的事実である。つまり、基本的人権の概念が無かった封建時代でさえ、性的嗜好や性自認を理由に処罰され、あるいは異性愛者の人々と同等の身分・処遇を得られなくなるといった「排斥」の思想が我が国には全く見られないのである。

 それどころかむしろ、戦後、愛国的な主張で有名な文豪三島由紀夫が「薔薇刑」という男性同性愛者を意識した写真集を出版しても尚、愛国者としての地位に疑義を容れる意見が皆無であるように、「性的嗜好」と「排斥」が全く無関係である事実がある。これが、非常に重要なのだ。

LGBTが忌み嫌われた欧米

 しかし、ヨーロッパや中近東は全く違う。

 イギリスでは1980年代(※)まで、ドイツでは1990年代までLGBTであることは犯罪であると法律上定義され、実際に多くのゲイの方々が刑務所に収容されて刑罰を執行された。ナチス時代では同性愛者は強制収容所に入れられ、処刑された。
※イングランド・ウェールズは1967年、スコットランドは1980年、北アイルランドは1982年まで

 アメリカでは1980年代まで、精神医学診断基準書(DSM3)において同性愛は「精神障害である」と医学上定義され、多くの同性愛者が「治療」と称してホルモン注射を受け、あるいは精神病院に収容された。

 イスラム教を国教とする国々では、今現在もLGBTは処刑されるべき凶悪犯罪だと定義する国があり、イランでは実際にLGBTを処刑している。また、死刑には至らなくても、懲役刑を定めている国々はアフリカ・中近東に少なくない。繰り返すが「いま現在」もである。

 このような社会事情や歴史的背景があった上で、欧米諸国では「LGBT差別をやめよう」という現在の潮流がある。

「正しい保守主義」から導き出される、日本のLGBT対応とは

 これに対して、日本にはLGBTへの迫害の歴史は一切ない。こうした経緯を考え日本において、「LGBTへの特別の対応」は果たして本当に必要であるか検討したい。

 結論から言えば、私は必要ないと考える。

 私は、LGBTの方々が、性的嗜好によって公民権を停止され、収容されるなど刑罰の執行を受けることがこれまでの日本と同じく絶対に無いようにするため、LGBTの人々がそうではない人々と同じ権利を持つことを守る。それが、保守主義の政治思想から導き出された答えであり、我が国の歴史的経験則に反して性的嗜好に対して、何らかの迫害を加えることは絶対に許されない。それと同時に、性的嗜好を理由にした特権の付与もまた同時に許されないと考える。

 また、LGBTの性的嗜好が保護され否定されないことと同じく,LGBTに生理的嫌悪感を覚える人々の感情や、自身の考えを公に表明する権利も保護するに値し、否定されるべきではない。

 特に、同性愛パートナーシップを自治体が承認することは、近親婚や児童婚や多妻婚など、ほかの「社会的に承認されない婚姻」を望む人々に対する差別政策になることが明白であるため、同性婚のみに特権を付与することは、法の下の平等を定めた憲法の精神を潜脱するものであり、是認される理由が無い。
橋本琴絵:「正しい保守」のLGBT法案考

橋本琴絵:「正しい保守」のLGBT法案考

「同性愛パートナーシップの法制化」は、他の形態のパートナーシップも同様に認めない限り、逆に差別的と言える。
 日本においては昔から「LGBTであることは公にして差し支えないが、性行為については公の場でするな」といった価値観がある。これは同性愛に限定した話ではない。異性愛も同じであり、公衆の面前で何らかの性的行為をし、それに類似した表現を露わにすることは、同性愛・異性愛の区別を超越して、誰であっても忌避されて然るべきとの価値観を尊重すべきである。これには、同性愛をテーマにした広告を公共交通機関に表示し、放送することも含まれる。LGBTの性的嗜好への理解を教育内容に含めるなど、特別な予算を組むことも、保守主義の立場から反対するものである。

 以上から、単に「多様性や寛容」という語句を用いて、一個人・一世代で考え出された思い付きを、厳格な経験則による縛りのある保守主義の政治観に含めることは、不勉強という以前に「保守主義」という政治信条の不正利用にあたり、容認できない。

 その多様性の尊重が歴史的に多くの世代を通じて支持されてきたならば保守主義であり、寛容性の対象物が同じく歴史的に長く支持されてきたならば保守主義に値するが、新しく出てきたものであり、歴史の審査を経ていない概念や事情を気軽に保守すべき対象に含めることは、大きな錯誤であり、許されるものではない。

 私はこの「正しい偏見」を保守主義の立場から尊重したいと考える。
橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。日本会議会員。

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