魯迅―中共に操られた「傀儡(かいらい)」

魯迅―中共に操られた「傀儡(かいらい)」

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中国知識界「個人崇拝」への反旗

 魯迅は誰なのか?
 魯迅は、中国大陸ではかつて毛沢東と並ぶ神聖不可侵犯の文化「聖人」であった。1949年から1990年代まで、中国では「古代の孔子、現代の魯迅」ということば通り、聖人、偶像として神壇に祭られた批判不可の偉大な巨人。

 全世界の中でも1人の文人(作家)がこれほど神格化された前例はない。日本の国民的作家の夏目漱石も魯迅のように偶像化されたことはご存じのようにない。韓国近代文化の招いた李光洙は「親日派」として政治的に埋葬されてしまった。

 東アジア文化圏の中でも、魯迅は中国の政治によって祭られた稀有の「聖人」でもあったし、反対に利用された「傀儡(かいらい)」でもあったといえる。このような「神聖不可侵」の偶像魯迅は、いま叩かれる存在となった。

 なぜだろう?
 魯迅は毛沢東と並ぶ「個人崇拝」のシンボル的人物であった。この事実を理解すれば、疑問はたやすく解くはずだ。個人崇拝は、中国では政治的、思想的「禁錮」として自由・民主・法治・個人の独立をダメにした象徴的装置であった。
 知識人たち、中でも独立と自由を熱望する明哲な知識人たちによる「アンチ魯迅」が始まったのだ。

 現在、習近平は毛沢東式の「個人崇拝」を自ら仕掛けている。習氏の大胆かつ愚かな毛式の「個人崇拝」はさすがに中国知識層の顰蹙(ひんしゅく)を買っている。

 しかし、公にその本音を吐露するのはできない中、毛沢東と並ぶ「聖人」魯迅への批判は、一種の指桑罵槐(しそうばかい/強者が弱者を屈服させるときに警告する方法)的反抗であろうか。

なぜ魯迅は叩かれるのか?

 現在魯迅は、中国知識界でも聖なる神壇から降ろされ、叩かれる「凡人」に戻りつつある。

 2000年から、中国知識界における「魯迅批判」と「アンチ魯迅」は著しく、空前の白熱化状態に入ったと言って過言ではない。著名な人気作家王朔は、「私が見た魯迅」で魯迅は偉大な思想家でも、偉大な文学家でもない、系統的思想体系もなければ、彼自身の創作才能を示す長編小説もないと指摘する。また、魯迅は単なる優れた短編小説の小説家であるが、その数多い雑文は文学とはいえないと率直に言う。

 文学批評家の同済大学教授張閎は、「近付けない魯迅」という文章で魯迅の仙台における文学に転向したというスライトを見たという「神話」は、つくられた神話であり、魯迅研究界の「魯迅性格神話」づくりを喝破する。張氏は魯迅の偏狭で不寛容、攻撃的性格は魯迅研究界によって美化された事実を指摘する。
 気鋭の文学批評家で上海大学の教授葛紅兵は、「20世紀中国文学のための追悼詞」の中で、20世紀中国文学界には本物の大師(巨匠)が存在しないと指摘しながら、魯迅も西洋の文学巨匠たちと比べたら、人格、テクスト、思想の分野で魯迅は浅薄な作家に過ぎないと批判する。

 鋭い批評で有名な批評家朱大河は、「植民地魯迅と怨恨政治学の崛起」の中で、魯迅の暗い性格と怨恨と暴力言語に満ちた彼の怨恨政治学は、毛沢東的言語に一脈相通ずるものがあると指摘する。

 これらの批判の内容の詳細は後述にゆずるが、とにかく魯迅への反旗を上げる中国知識界の魯迅叩きは、ポスト毛沢東時代の文化界に最大なセンセーショナルを起こしたのは事実である。

「魯迅叩き」は、3つの現状への挑戦である。
 1つは、毛沢東政権による魯迅の神聖化であり、もう1つは、魯迅の死後、特に50年代以来中国魯迅学界の魯迅神話づくりへの反発。
 3つめ、本当の魯迅を宣伝する意味合いである。

魯迅「聖人化」の本当の内幕

 魯迅は、毛沢東と中共体制に祭られた神壇の「聖人」偶像である。新文化運動時期、魯迅は近代文学を招いた「狂人日記」「阿Q正伝」など小説を発表したが、知名度においては同時代の胡適、陳独舌、周作人や銭玄同などにも及ばなかった(高旭東)。

 その後、魯迅の人気は創造社、太陽社及び有名文人との論戦の中で段々と高くなってきたのは疑問の余地すらない。ところが、なぜ魯迅は中共体制の文化的「聖人」に祀られたのか?

 それは、一言でいえば毛沢東神聖化の需要からであった。政治、軍事上、毛沢東はまぎれもなく最高統括者だったが文化の面では最高権威者ではないことを毛氏は自覚していた。しかも文化面からいえば、中共が国民党政権を勝てるのに軽視できない戦線であった。

 そこで中共指導者毛沢東、周恩来などは得失をいく度もはかり、魯迅を選んだのだ。その時間は1928年。当時魯迅は上海に移り住んで間もない時期であったが、創造社、太陽社との戦いで論陣をはった時期であった。この2つの文学団体は、中共上海地区の党組織の指導下にいたが、中共の指示によって魯迅に対する攻撃を中止した。もちろん魯迅も、中共のこの決定に対し励快に受け止めた(韓石山)。

 赤色ソビエト時期や延安時期の中共は、魯迅に対する攻撃を禁止したばかりでなく、馮雪峰、胡風などを派遣して魯迅を中共革命の陣営に入営させた。中共と手を組んだ魯迅の文章や性格は急激的になり、論敵への人身攻撃は度を過ぎていくのであった。

毛沢東と魯迅

 魯迅の死後の毛沢東の魯迅評価はあまりにも有名である。

 1938年「魯迅論」の中で、
「中国における魯迅の価値は、私から見れば中国の第1聖人である。孔子は中国の封建社会の聖人であれば、魯迅は新中国の聖人だ」

 1940年の「新民主主義論」の中ではかの著名な「3つの偉大論」を打ち上げる。
「魯迅は、中国文化革命の主将であり、彼は偉大な文学者のみならず偉大な思想家と偉大な革命家である。……魯迅は文化戦線において、全民族の大多数を代表して敵陣に向かって進撃する最も正確で、最も勇敢で、最も堅決で、最も忠誠で、最も情熱的な空前の民族英雄である。魯迅の方向こそ中華の新文化の方向である」

 絶対神的な毛沢東のこれらの言葉は、魯迅を没後偶像化、神聖化を決定付けた。ここから中国における魯迅崇拝の長い道がスタートするのである。

 生前、この2人の「聖人」は直接出会ったことはないが、確かに心が通じるものがあったはずだ。毛沢東は死ぬまで常に魯迅を言及してきたことは毛氏の全集を開けばわかる。1966年7月8日は妻江青への手紙の中で、毛氏は「私の心は魯迅と通じ合う」と告白している(『文化大革命研究資料』)。

 魯迅は毛沢東の律詩を読んで、毛氏の詩の中には「山大王」の気概があると述べた。馮雪峰を通してこれを知った毛は喜びの大笑をしたことがある(陳琼芝 『中国現代文学研究竺利』第3集)。

 毛は生前常に中国人民に「魯迅を読め」と強調しただけでなく、自身も魯迅の本をよく読んだ。最晩年の1975年8月、眼科手術で復明した毛は大活字本の『魯迅全集』を読んで傍線を書いたとされる。

 一方魯迅は晩年上海時期には、共産主義に共鳴し、毛沢東、スターリンの同じ立場に立って階級立場と政治立場を表明した文章が目立つのだ。

 毛沢東と魯迅は、人民大衆の化身を演じしかもその指導者として君臨したつもりである。当時胡適、陳独舌、周作人など新文化運動の巨匠たる人物の中でも唯一魯迅が毛沢東とつりあう心の道があったのは否定しがたい。

「傀儡」はいかに祀られたのか?

 中国大陸には「魯迅研究界」という膨大な学界が存在する。
「魯迅の作品の1文字ごとに1人の研究者がぶらさがっている」という表現さえあるくらいだ。また、魯迅研究の学者に対して中国では、「魯迅飯を食う人」という言葉もあるように人数が多いだけではなく、魯迅に対して崇拝、偏愛する者が多数である。

 筆者は近年、数人の魯迅研究者と交流があるのだが、ほとんど魯迅への絶大的敬愛心を持ち、魯迅を批判、避難は固く反対しており、その点が印象的だった。一言でも魯迅の不利な話を述べたらすぐさま反論した。

 さて、魯迅はいかに歪曲、神格化され神壇に祭られたのか? 山東大学教授の高旭東はこう述べる。

「魯迅死去後、特に1960年代以後魯迅研究学者たちは最高指示(毛沢東の指示)の下で、魯迅を簡略化、神格化する〝偉大なプロジェクト〟に投身しはじめた。……これで魯迅の後期は、偉大な無産階級革命の戦士に変貌させ、そのすべての言行は性格たる光を発した。そして魯迅は大衆の代表者、大多数人民の代弁者、敵陣に向かって突撃する勇敢な英雄、そして革命的人民にひたすら全力を尽くす黄牛になった。魯迅の気骨は最も頑丈で階級制は最も鮮明で闘争性は最も強く、立場は最も確固たり、覚悟は最も高尚だ。魯迅は現代世界の聖人であり、革命思想の神様であり、文化進歩の明るい燈になってしまった。魯迅はこうして見えない手によって現代作家と思想家の中で選び出され、大地の泥を離脱し誰も及ばない最高の天空へ持ち上げられた。そして人々に仰見、育従、崇拝させられたものだ……」(『21世紀に向かう魯迅』)

 死後の魯迅は数十年間、中国では魯迅を徹底的に偶像化してしまった。全集の度重なる再販、教科書への採用、記念館、博物館の設立。そして文化大革命時期には文学作品では魯迅1人の作品のみを読ませた。

 1人の最高指導者の数十年来の過大な賛美と学界知識界の神格化。魯迅の神格化は、断然政治的利用にあると指摘せざるを得ない。言い換えれば、魯迅は利用されるはめにあったのだ。魯迅を武器に政治のライバルを打倒するのが真の目的であったはずなのは、文化大革命がそれを立派に実証していた。

 魯迅の幸は、その偶像化さにあるように見えるが実は偶像と傀儡は、コインの両面ではなかろうか。魯迅の不幸こそそこにある。かつて魯迅はこう言った。

「偉大な人物が化石化してしまったら、人々は彼を偉人と呼ぶときには彼はすでに傀儡となってしまった」(魯迅「無花のバラ」)

 皮肉なことは、魯迅が死後「化石化」する前に、人々の傀儡となってしまったことだ。

魯迅は「思想家」ではない

「アンチ魯迅」の中でも、とりわけ毛沢東「3つの偉大な魯迅」(偉大な文学家、偉大な思想家、偉大な革命家)に対する否定が目立つ。

 人気作家の王朔は、「私が見た魯迅」の中で、魯迅の思想は新鮮味が欠けていて思想家としては物足りないとする。

 張閎は「近付けない魯迅」という論考の中で、魯迅の思想は雑文を通して「平庸たる真理にすぎない」だけでなく、「寛容性の欠けた偏執、偏見に満ちており、粗末で劣悪な美学趣味」を発散すると評価する。

 葛紅兵は、「20世紀の中国文学は文学性より思想性が多いが、中国作家の思想もだめだ」とし、「魯迅は深刻な思想を持つ文学者ではあるが、しかし具体的に体系性をもつ思想家ではない。しかも、思想家的な角度から見て20世紀西洋の巨人デュウイ、サルトル等と比較しても不合格だ」とズバリ非難する。

 魯迅の思想は深いではあるが、「偉大な思想家」の基準には達していない。なぜなら、葛氏の基準からすれば「1人の思想家は必ず、世界に対する自信の独特な哲学的本体論、認識論、方法論体系を築かなければならない」。

 最も魯迅の「偉大な思想家」を容赦なく否定した論客は孫乃修という文学評論家である。彼はこう指摘する。

「60余年間、人々に偉大な思想家として祀られた魯迅は、いったい何の思想があり、その偉大さはどこにあるのかと大疑問をつけなければならない。彼は人類の文明原則を反対し、人道的原則を悪視し、心の中には道理と理念を持たないまま、怨恨と惨殺を固執し、強烈な異色文化の性格をあらわしている。彼の言論と行為は極左にも見えるが、極右、極暗黒だ。彼等がペンネームの背後に身をかくして発する少しも責任感のない言行は、現代中国に文明と尊厳をもたらさない。そしてそれは、彼をして自私、偏狭、卑怯、内闘に導き、野蛮、暗黒の深い淵に導くだろう。結果、永久に歴史の死角と悪循環的恨みの殺害から脱皮できないだろう。最も、悪の深い淵から脱出して民主、公正と自由の境地に達することはできないだろう」

 孫氏の酷評は度を過ぎた批判ではあるが、「祀られた思想のない思想家魯迅」と、その思想の危険性についての指摘は的を射ている。

「偉大な文学家」の内実

 魯迅は近代中国文学(白話)を切り拓いた文学者ではあるが、その小説の芸術性などから見て最高の作家或いは「偉大な文学家」とはいえない、というのが「アンチ魯迅」たちの主張である。

 正直言って、中国で80年代の後半筆者は魯迅の小説はじめ『魯迅全集』を通読してみたが、その出世作「狂人日記」と「阿Q正伝」にあまり感心しなかった。魯迅の国民性批判観念をそのまま解釈した観念化の作為性に、沈従文や銭鐘書の小説よりは劣っていると感じたのが事実である。

 当時、那孔榮(某高校の国語教師であった)の「魯迅創作生涯論」(『青海湖』1985年8月号)という論考を読んで同感する部分が多かった。
 もちろん、当時としては衝撃的文章だった。那氏は魯迅の創作生涯を3つにわけて論じたのが新鮮だった。

(1)魯迅創作の準備期(1881~1918)。魯迅が文学を単なる道具とみなしたゆえに、その結果「初創期文学活動の失敗的運命」を招いた。

(2)魯迅創作時期(1918~1925)。旺盛的な文学創作期であり『吶喊』『彷徨』2冊の小説集を発表するが、中には「一般的な作品」と「頭数を揃える駄作」が多い。中にはわずかに『故郷』や『阿Q正伝』など45篇の秀作によって、中国文学史における魯迅の地位を固めた。

(3)魯迅創作の衰退期(1925~1936)。この間魯迅は三法作品の『故事新編』のみを書き上げ、創作力がすでに衰退した為、長編小説を書こうとしたが何も書けなかった。那氏は、その秀作たる作品の中でも「『狂人日記』、その致命的弱点は模倣作であり、独自的新しい境地をつくれなかった。つまりロシア作家コーゴリの同名小説をまねしたのみである。まねした作品は当時傑作になるはずがない」と指摘する。

 そして彼の名作「阿Q正伝」の漫画式傾向は、中国現代文学史上一種の危ない前例を切り開いた。すなわち、いわゆる本質(観念)で形象(イメージ)をきりかえてしまった。また『野草』も「二流作品」であり、『朝花夕捨』は芸術的価値に欠けた「真の文芸作品」ではない。また、おびただしいその雑文は微塵も値打ちのないただ「飯を食うために書いた」ものだ。

 王朔、葛紅兵、張閎など文人学者たちは魯迅の小説に対して否定的論陣を張り、結果、魯迅偏愛派や、魯迅研究者たちの反発を買ったのは、いかにも魯迅崇拝が中国ではいまだに強いかを実証するのではないか。

 王朔は「狂人日記」は怒れる青年のロックみたいとし、張閎はそれは小説よりむしろ「思想随筆としては良い作品だが、小説としては実に水準未達だ」と風刺する。

「阿Q正伝」に対して、王朔は駄作だとし、張閎は「『阿Q正伝』は芸術上あまりにも浅薄で、粗雑で、私はとても遺憾だ――これほど素晴らしい素材をだめにした! しかも敗筆(欠点)が多く、あまりにも直截的な観念化の痕跡があり、風格上でも似合わないところが多すぎる」。また、魯迅小説の「芸術空間が狭すぎて、テーマと表現手法面でも常に単調で型にはまっている」とする。

 彼らの指摘に筆者は大体同感である。確かに魯迅は在留学期から文学の功利性に開眼し、この文学の道具論にはまって生涯この実用観から抜け出せなかったと判断する。

 小説は彼自身も自白したように、国民性の病を治療・批判するためであったので、その観念を直接的に小説作品の中に濃厚に配布したのは疑う余地もない。

 葛紅兵は芸術面で、魯迅の作品は言語的に「渋い」と指摘する。つまり、文章が難解で滑らかではない。魯迅の文章は、文言と白話が混ざっていて、「半陰不陽」的文章は、実に不自然でぎこちないから読者たちとわざとつかみ合いのけんかを売るような気がする。

 葛氏はさらにこう指摘する。魯迅の「狂人日記」「阿Q正伝」などの小説は、単独的に見て偉大で独創性があると思うが、しかし、それらはニーチェ、ゴーゴリなどの作品の血縁連系があるので、一段と見劣りする。その文体もワンランク降りて見なければならない。結局のところ、魯迅は西洋のマルクス、ワグナーなど文学巨匠と比べにならない存在ということである。

 観念的随筆に近い、難渋で読みにくい魯迅の短篇小説は、一流でもなければその生涯の短篇を合わせても1冊の長篇小説の分量にも満たない魯迅。そして文学巨匠たる長篇小説も書ける能力に欠けたその魯迅に「偉大な文学家」は釣り合わない。

 これが「アンチ魯迅派」たちの基本的意見である。

魯迅の「雑文」はなぜ危ういのか?

 文学者として魯迅が最も力を入れたのは、小説ではなく「雑感文」と呼ばれた雑文であった。毛沢東も彼の闘争性、攻撃性に富んだ雑文に傾倒し、幾度も「魯迅の雑文に学べ」と国民に指示したこともある。

 魯迅研究者も口をそろえて、魯迅の世界文学への独自的貢献は「雑文」という新しいジャンルの戦闘的文体を創立したと力説する(陳漱渝)。

 確かに魯迅の攻撃性、罵倒性を特徴とする雑文は中国の3世代に大きな影響を及ぼした。筆者も中・高校生の頃、頻繁に登場する国文教科書の魯迅の雑文の文風を真似て批判文章を書いたのだ。国語の先生は魯迅風の文体で作文宿題を配置したのは常だったので、すべての学生は魯迅風文体に染まっていったのは当たり前のことであった。

 魯迅の創作物の中で、900数篇にものぼる雑文は、数的にも最も多かったように、「アンチ魯迅派」に最も集中的に批判を受けたのもその雑文だったのは事実だ。在米中国人文学研究者の夏志清教授は、その著『中国現代小説史』の中で魯迅の小説を、張愛玲などの新進作家の小説よりも低く評価し、同時に魯迅の雑文に対しても低い点数をやった。

 彼によれば、魯迅は北京を離れた後、ことに魯迅の後期上海時期にはすでに創作的能力を失われ、かわりに雑文に専念してその創作的不足を補おうとしていた。
 
 思想において、魯迅は「思想基礎が比較的薄弱」で、人々に与える印象は「こまかくて煩雑で、喧嘩しがち」であった。諷刺芸術上では魯迅の雑文はささいなる感情的になり、これらの感情と自己欺瞞は、魯迅をして偉大な作家の行列とかけ離させた。結局魯迅は、時代に操られ当時代の導師と諷刺家ではないし、しかも中共に祀られ、逓増(ていぞう)された神話にしかならなかった。

 張閎氏の論考では、魯迅の雑文の中でよい文章もあるにはあるのだが、ほとんどはせいぜい時事文、あるいは論敵とのいざこざの喧嘩に過ぎない。やはり結果的に魯迅の雑文にはよいのが少なく、悪文が多数でこれらの作品の美学的趣味は劣悪で、内容上も平庸たる「真理」に過ぎず、あるいは自己矛盾や無理やり理屈をつけた「大論」にしかなり得なかった。

「それに加えても、なおも恐ろしいことは、魯迅の雑文は『国家的美学』の見本としていまだにも、このような雑文は依然として現代青年の小学生から大学までの必読書になっていることだ。これで、代々と重なる現代中国人の劣悪な文化態度と粗悪な美学的趣味を育成した」

 孫乃修は、魯迅の雑文をさらに「人身攻撃、用心卑劣、文学野蛮、謾罵醜詆(下品な言葉で怒鳴り散らす)」としてとらえるのが興味深い。

「魯迅の雑文に簡単な定義を下すなら、それはまとまりがない文である。恨をもってこだわり、人と筆戦をする文章は、すべて論点、論拠、論証の欠けた論理的ではなくでたらめ罵詈ばかりである」

 さらに、「魯迅は18年も雑文を書いてきたが、思想品位、優雅高尚、文体運営、芸術的個性において皆無である」。

 魯迅もおのずから、自身の雑文の甚大な欠陥を自覚したようで、1926年2月17日に李乗中という友人に出した手紙の中で、「文章はまた書くべきだが、『文章』というよりは『罵倒』と言ったほうが正しいだろう」とし、1927年10月の「意表之外」という文の中で、「私の雑感文は、常に罵ることがある」と自白していた。

 30年後、魯迅のこのような雑文文体は文化大革命の紅衛兵や反乱派乃至、全中国人の文体として闘争の武器と化して行くのだ。

度量の狭い小さな老人

 神格化された偉大な魯迅は、一体いかなる性格の人物であったのか?

 1920~30年代の同時代の魯迅に対する人物評価を漁ってみると、その性格的欠陥はほとんどと言っていいほど、「偏狭」「偏激」「暗うつ」「陰暗」「復仇心」「疑心強い」「器が小さい」「喜怒無常」「病態」など否定的言葉で点綴(てんてつ)していたことが分かる。

 そのおびただしい実例から少し出してみよう。郭沫若は、魯迅は「資本主義以前の封建残余の悪」とし、人道主義からかけ離れた「失意のFascist(ファシスト)!」だと断言した。

 学者の成仿吾も、魯迅は「中国のドン・キホーテであり、神経錯乱病と誇大妄想の病人である」とし、さらに「思想は陳腐で人格も卑劣だ」と、中国の文化建設のためにも魯迅的思想を転覆しなければならないと主張した。

 作家の葉霊風は魯迅を諷刺する漫画を描いて、「魯迅先生は陰陽面の老人だ」と批判していた。女類学者の蘇雪林は、魯迅の人格は「渺少、凶悪、卑少」の言葉で示したのは有名であった。

 確かに、同時代の有名人100人以上と筆戦を接し、罵った魯迅は、彼らの証人からすると「度量が狭くて」異見を許さない老人であったことは否定し難いようである。

 現在、魯迅の神格化に反旗を上げた知識人の中にも魯迅の人柄、性格などに批判をする者が多くはないけれどあらわれている。

 気鋭の批評家で上海同済大学教授の張閎は、前出の「近付けない魯迅」の中でこう述べる。

「われわれは、いわゆる『瑕不掩瑜』(長所が多く欠点は少ない)という類のことばで魯迅の欠点をさけるとしても、しかし『魯学家者』たちは魯迅性格の中の偏狭と陰暗たる病態的要素をも神格化し、わが民族の暗黒社会に反抗するため必需の心理素質として夸張する。私はこれらの『卓論』の本当の用意はどこにあるかさっぱり分からない。むしろ魯迅本人は内心誰よりもはっきりわかっていた。自分の心の中に『毒気』と『鬼気』が充満していたことを……。間断なく膨張してきた晩年魯迅の権力欲は、魯迅晩年の特殊な心理症状であった…1部の人はこれを利用して、彼を左翼文抾の盟主とおだてた。1930年、50歳の魯迅は上海の『老大』(第一人者)として、毎日のように『左翼連盟』の小さな責任者たちと権利の争奪戦を展開し互いに派閥の争いをして、政治的に近視眼的で、見解上で浅薄、芸術上では粗雑な時評文章ばかりを書いた。しかし『魯学家者』たちはひたすらこれらの雑文の価値を夸大して魯迅が〝弁証法〟をマスターしたとホラを吹いた」

 著名作家韓石山の論考によれば、魯迅は身長155センチにも満たない小さな人である。その小さな身体と同じく心が小さく陰険で、「陰暗、狠毒(悪辣)、偏執」であり、極めて悪(窮凶極悪)な人格者であると韓氏は指摘する。

 したがって、「魯迅はこの世界を絶望的、悪辣と見ている」。だから、「魯迅の文章の中にはある種の陰冷な気、殺伐な気が漂うのだ」。

 その魯迅の様々な人格的欠点をもっとも容赦なく批判を浴びせたのは、元中国社会科学院文学研究所研究員で、現在カナダに住む魯迅研究科、孫乃修氏である。

 孫氏はその著『思想の毀滅―魯迅伝』(2014)の中で魯迅の幼年期の家庭の遭遇から、その生涯の性格、人格を鋭く分析・考察している。

反文明・反人道の文化人

 さらに孫氏は忌憚なく指摘する。辛亥革命に対して魯迅はしばしば満人に種族絶滅的大虐殺と揚州10日、嘉三屠殺式の残酷な報復をしなかったとし、辛亥革命の「寛容」「文明」に対して非難を加えた。

「魯迅は社会進歩の中の文明と寛容を反対し、人に対して無慈悲な暴力と肉体的消滅を主張した」

「晩年の魯迅の反文明、反人道的傾向及び、筆を刀にして不同意見者に対して人身攻撃と罵倒を加え、次第には最晩年に心霊が崩壊する境地にまで発展してしまった。これらの行為にあらわれた偏執真態、野蛮的性格と狂った情緒は、辛亥革命への不満によって報復的殺人欲望がずっとあったということを示す」

 魯迅は死亡直前まで、依然と人に対して『一人も容赦できない』と叫んだのは、このような反人道的心性をあらわにしている。孫氏は魯迅のプレーフェアを反対し、『水に落ちた犬を最後まで叩く(痛打落水狗)』論理は、『人類社会を犬とみなし、動物の目線で人類文明を見ることと、自身を人間と見て、他人を犬と軽蔑し、他人の人格を侮辱する』魯迅の心性を看破している。

 したがって、魯迅は「従来、人道的概念、道徳、文化本質を持たず、ライバルを犬と見て叩き続け、プレーフェアを無視する。加えて文明及び人道的ルールを蔑視し、紳士的態度と寛容心を罵倒しながら人を迫害する行列に入った」

 孫氏はさらに、今までの定論を覆して「独立人格」の偶像としての「魯迅は人格的独立が現代人の最も重要な意義と知らない」と喝破する。

「彼は知識人における思想の独立は生命的意義を持つことも知らず、作家や文学の発展に文学の独立が持つ根本的意義も知らない。」

 だから「魯迅の文学館は文学を道具として利用する道具文学観であり、この道具をもってライバルを打撃する武器とする」。

 孫氏によれば「個人の文化的性格から見ても、魯迅の缼陥は顕著である。

 つまり、魯迅は「高貴な気質と広大な心が欠けており、低俗な文化習気が多すぎる。性格が偏執で、人に対しねたみと悪意に満ちている。そして陰険で心性は虚栄を張りたがり、浮ついている。その言葉は無根で虚偽に満ちている。また労苦をいとわず読書するのではなく、真の知性を追求することも沈着遠大なる態度にも欠けている。むしろいい加減にあしらったり、うまくたちまわることを性向があり、気ままに本を読んだり、軽く発言する……」。

 たとえば魯迅の人生では、長遠の志がなく、これと言った専攻も深い学識もなければ、つまみ食いで思考も行為も偏執と激烈であった。

 日本で1902年から1908年まで留学していながらも、医学も途中下車し、近代知識、学科専攻、思想理論、文明素養と文化視野の面で大きい進歩と発展を追求しなかった。実際魯迅はなんと専門知識も学ばなかったし、広く浅い知識を持っていたばかりだ。

 西洋の知識も系統的に読まず翻訳をしてみたり、視界の偏狭、知識の浅薄、功利を争う態度はその後の人生となった。

 孫氏の指摘は、おそらくいままでの魯迅批判で最も鋭く、最も強く、最も果敢であると言えるだろう。

なぜ魯迅は「文化大革命」に直結するのか?

 1966年から1976年までの中国の文化大革命は、中国史上「空前の大災害」と称し、晩年毛沢東の最大の失策であり、中国歴史を50年も停止させたとする。筆者も小学校から中学校まで文革を目の当たりにしたものだ。

 そのころ、中国現代著名作家の作品はほとんど出版不可で、ただ『魯迅全集』や雑文集が『毛沢東語録』が中国の読書界を支配したといっても過言ではない。

 前述のように毛沢東と魯迅は精神的に通じ合う者同士だったのは言うまでもない。文化大革命の時、ライバルを打倒する毛沢東の方法論的武器として、魯迅の人を罵倒する闘争性の戦士、剣と刀たる雑文はよく似合っていた。

 作家の韓石山は前出の書作の中でずばりと指摘する。

「予想通り1966年になると、毛沢東と魯迅は一緒に『文化大革命』を仕掛けた。冗談ではない。私は自ら『文化大革命』を経歴したので分かる。その頃、2冊の『語録』のみが喧嘩した。『毛沢東語録』ともう1冊は『魯迅語録』であった」

 張閎は前出の文章で、「文化大革命」における魯迅の役割を次のように喝破する。

「最も堪え難いことは、魯迅は『文革』時期の思想偶像の1人であったことだ。彼の思想と『文革』の『造反有利の哲学』の間にはあいまいな関係がある。ことに『文革』の高潮期、魯迅の著作は唯一おおやけに閲読を許可した文学書物であった。魯迅の言論(とくに晩年の雑文)とマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東の語録とともに紅衛兵と造反派の『大字報』(壁新聞)に大量的に引用されていた。『文革』後期の孔子を批判する運動中魯迅のアンチ伝統思想は空前の発揮を得た。ところが、考えてみよう。なぜ魯迅の言論はそれらの『大字報』に入れると、それほど分相応であるのか?なぜ造反派は、内容、文体ないしことばの表現様式ですべてが約束したかのように、ほかの現代作家ではなく魯迅の真似をするのだろうか? まさかこれは単なる一種の偶然の一致であろうか? まさか魯迅はただ造反派に「利用」されただけの思想家であろうか? これらはすべて深思熟慮すべき問題である。しかし『魯学者』たちは、これらの問題に対していままで何の心服できる答えを出していないままである。見たところ『欺瞞と詐欺』は、依然として『魯学者』たちの一大宝物であるようだ」

 孫乃修氏は、魯迅の「痛打落水狗」の闘争精神は、その後の中国大陸で蔓延した文化大革命などのすべての政治的迫害と思想的迫害に直結すると指摘する。

 魯迅式の方法と表現で、犬と動物の概念で類推して、ライバルを反革命、魔鬼、牛鬼蛇神、魑魅魍魎(ちみもうりょう)……として罵倒し、粛清した。

 もちろん、亡き魯迅と毛沢東の文革には直接責任はないが、魯迅を偶像化して、魯迅が結局、傀儡として操られたことは魯迅の悲劇であり、同時に中国人の悲劇でもあった。

 考えてみれば、夏目漱石や森鷗外、永井荷風など日本の文豪は、ことに偶像化もされなかったし、またイデオロギー政治の傀儡にされたこともない。文学は単なる芸術としての文学で見る日本であるから可能であったのだろう。

 魯迅は、政治に操られた文学者の「不幸」として最も研究すべき人物であるが、彼を1人偶像化し、それを独占する愚挙はもはや来ないだろう。

魯迅より胡適

 魯迅神格化の破壊と同時に爽快と姿をあらわしたのが胡適である。

 中国大陸で共産党は魯迅を、人民を教育する「正面教材」として偶像化したとすれば、胡適は「反面教材」として「国賊」(売国奴)、「資本階級の反動学術権威」として徹底的に「埋葬」された人物である。

 しかし胡適は、罵倒、歪曲されて「埋葬」される人物ではない。近代以来、中国の文学、思想史、文化史の中で、彼は魯迅とともに最も影響の大きい文化巨人である。ただ大陸中国では政治的に魯迅を神格化し、反対に胡適を敵化したため、知名度では魯迅より低いだけである。

 実は胡適こそ、魯迅を凌駕する近代中国思想界と学術界のリーダーであることは自明なことだ。魯迅より10歳も年下だが、早くも20代で文名を知れ渡る。

 米国プリンストン大学の中国人教授周質平によれば、近代中国の学術史で、胡適は多方面において新しい局面を創立した人物である。魯迅は学術的貢献は小説史的研究をのぞいて、その他すべてにおいては胡適に匹敵できない。

「政治では2人は2つの異質的思想の代表者であった。つまり、胡適は右寄りで魯迅は左寄りであったし、胡適は西欧式の民主自由に傾倒し魯迅はロシア式の共産主義・社会主義を信奉した」

「大体で言えば、胡適は学者的要素が多いが魯迅は文人的習気が多かった。胡適は“儒林”の人で魯迅は偶像と傀儡の間で〝文苑〟の人であった」

 さらに、著名な歴史学者の沈剛伯は中国に対する胡適の貢献について次のように述べた。

(1) 白話文を思想発表の道具とし、教育を普及した。
(2) 科学精神を提唱し、中国における西洋文化の受容を深入化した。
(3) 科学的方法で中国の4,000年の史料と学術を整理し、人々に正しい引導者となった。
(4) 中国、ギリシアと近代欧米の自由主義を集大成しそれを宣掲し、その人生の尊厳説は現代にも通用する。
(5) 実際の行為で愛国精神を表現し、人々に多大な影響を及ぼした(『私の知っている胡適之先生』)。

 これについては筆者も認めたい。胡適は近代史の巨匠であり、政治立場やいかなる陣営でも認め合える巨大な文化人の指導者であることは賛言するまでもない。人生の中で、胡適はどちらにも片寄らず、寛容的に時代の文化を導く統率者であり、アメリカでは彼を中国ルネサンスの攵としてたたえる。中国の「自由主義の攵」「自由主義巨人」としても西洋で有名である。

 北京大学学長、国民政府のアメリカ駐在大使、中央研究院院長など文化人としての要職にいながら、常に体制に対する改良と温和な批判をやめなかった。

 中国進化の道途において、魯迅研究家孫郁教授が指摘するように「魯迅は戦士の道を選び、胡適は独立人格を保有する上で政府に忠告する友人となった。」

 この意味で高遠東教授の「魯迅は薬で、胡適は飯だ」という言葉は興味深い比喩であろう。たしかに「戦士」魯迅と比べ、「紳士」の胡適は温和で礼儀正しく寛容的で、微笑みの紳士だったことは誰も否定できない。

 1929年に至って新文化運動の友人だった2人は意見的食い違いが生じ、魯迅はいく度も文章の中で胡適を諷刺非難したが、胡適は終始1回も応戦しなかったし自己弁護もなかった。「君子」の風格を持つ胡適は寛容的ジェントルマンであった。

 魯迅は知れば知るほど厳冬の冷たい風のようで、胡適は知れば知るほど春の温かい微風のように感じる。

 胡適、魯迅の盟友だった文豪の林語堂は「追悼胡適之先生」(1962)という文章で、「魯迅は政治的気味がきわめて濃厚で、袖領教から脱皮できない。しかし胡適之は青年の崇拝を気にしなかった」と喝破しながら、結論的に言って胡適の「視野、氣魄、道徳的人柄」においてすべて魯迅の上にあると率直に評価した。

 韓石山はその著『少不読魯迅・老不読胡適』(2011)の中で、魯迅と胡適を比較しながら軍配は胡適の方にあげる。

「魯迅と胡適を比較して見ればすぐさま一目瞭然である。魯迅は旧文人で、彼の用語と文風はすべて旧式だ。しかし胡適は新時代の先駆者で、用語と文風は新しいものだ。文章も斬新で、人物も斬新である。もっとも、胡適の中国改造の理念は向上的で建設的だ。偏狭も恨みもないし、誠意ある忠告と切実なプランがある。しかし魯迅は違う。憤慨、恨み、咀呪、嘲笑が極端的多い。たまに“光明”などのことばを用いるが、すべてもの足りないし、ことばあそびにすぎない。彼のところには、建設的、社会改造的建議は見当たらない。中国が本当に現代化に向かうとすれば、文化上では旧時代から新時代への伝承的人物を選ぶとすれば、それは必ず胡適であって魯迅ではないにきまっている」

 現在、中国知識界では魯迅の対立面として胡適を看板としてあげ、魯迅より胡適を新しい文化の旗手としてあげる気運が高まっている。そして一般人にも、その熱気が生きわたっているのは、自由主義や民主主義の普遍価値への熱望を物語っているといえよう。

 しかし残念ながら、中国大陸では魯迅は依然として文化界で、その不動の位置を譲ろうとしないのが現実である。
金 文学(きん ぶんがく)
比較文化学者、文明批評家、日中韓国際文化研究院長。1962年、中国の瀋陽で韓国系中国人3世として生まれる。85年、東北師範大学外国語学部日本語科卒業。大学講師を務めたのち91年に来日し、同志社大学大学院、京都大学大学院を経て2001年、広島大学大学院博士課程修了。広島文化学園大学、福山大学、安田女子大学などで教鞭を執る。現在は日本に帰化し、日中韓3国で執筆、講演活動中。「東アジアの鬼才」と呼ばれるなど、その言論活動はアジア各国で高く評価されている。

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