【中国学術界のリアル】中国知識界の腐敗は想像を絶する

【中国学術界のリアル】中国知識界の腐敗は想像を絶する

※写真は清華大学
 鄧暁芒さんは中国現代哲学研究会の旗手、著名な批判的知識人として人気が高い。

 数年前から、直接的な対面はしていないものの、電話でやり取りする中、私と鄧さんは自然に意気投合することになった。聞こえてくる音声からも鄧さんは温和で教養の高い学者だとわかる。私たちは対面して対談しようと約束したが、なかなか時間を取れなかった。ところが、都合がいいことに、鄧さんの在職する武漢の華中科技大学哲学科から「中日韓比較文化論」の講演依頼が舞い込んできた。

 2017年11月21日、上海から高速鉄道を使い武漢に着いた私は、華中科技大の国際センター、そして、鄧教授の自宅と書斎で長時間、対談を重ねた。想像通り、鄧教授は心が暖かく、気品の溢れる紳士的学者であった。彼の哲学や美学、東西洋文化の比較、国内外の時評に至る他分野の研究や学識は重厚だった。

 彼が独自的に切り拓いた「新批判主義」「新実践論美学」理論は、中国学会の中で注目を浴び、ドイツ語で書いた哲学論文は西洋の哲学界でもセンセーションを起こした。ドイツの古典哲学理論研究を土台とした彼の学識・知見は博識でかつ精緻、ユニークな思想が光っていた。

 鄧さんと私は世代差があるものの、初対面であまりにも気が合い、お互いに相手を認め合うようにまでなった。しかも、鄧さんの奥さん(大学教授で日本語研究者)も優しく面倒を見てくれ、私は数日間、会話を楽しめた。

「私は儒教を批判する儒家・儒学者だ」

 有名哲学者、批判的知識人の1人として、鄧さんはいままで中国依存的儒教、儒教的文化に対して厳しい批判をしています。しかし、批判の方法と文体は魯迅文体ではなく、温和な儒家的ですね(笑)。

 よく言われます(笑)。私が儒教を批判する理由は、今日の儒教文化は必ず自己否定に挑むべきだし、この手続を通過してこそ、自ら持続的発展可能な生命力を保有できるからです。私は好んでこんな話をよくする。「伝統文化は批判を通じてこそ、継承・発展することができる」と。さもないと結局、伝統文化を死滅させますから。

 最近30年間、学界の中で儒教の伝統文化を批判する知識人のうち、論文の数が最も多く、最も長い期間をかけて激しい批判をし続けてきましたね。

 確かにそうです。学界の中では、私のことを「西洋かぶれ」「偏向的で過激だ」とレッテル貼りします。ところが、本質的に私は日常生活の中では儒教の原則を守っています。私が儒教文化を批判するときでさえも、儒教の精神に則って、中国伝統的知識人の職責を果たすだけです。

 実際お会いしてみても、鄧さんはやはり儒教的ジェントルマンですね。だから、余計に親近感を感じる(笑)。

 ありがとう。要約していえば、私の儒教に対する態度はこうです。主観的・安心・立命であり、私は自己否定・自己反省の儒家であり、儒教を批判する儒家です。儒教思想に対する態度に関して言えば、抽象的継承と具体的批判法の両立を主張します。儒教思想と現在世界との関係では、中国と西洋の二重基準で見るべきという持論です。

「新批判主義」とは何か

 たとえば、儒教の「仁義礼智信」など普遍的精神は継承するものの、具体的欠陥に対して否定・批判を加え、新しい建設を企図するという意味ですね。そして、自己反省と批判を通じて、西洋の普遍的価値観を吸収し、中国と西洋の2重基準を立てるという方法論というわけか。私も賛同します。

 ありがとうございます。

 鄧さんの学問的主張や思想の底辺には、やはり「自己反省と批判」という壮大な理念があると思います。「新批判主義」を提唱していますが、どういうものでしょうか。

 80年代、中国に一世を風靡した「新啓蒙」に続き、90年代には主に思想文化界で反省とともに復古主義・保守主義が回復しました。こんな状況下で、私は正面から対立する形で「新批判主義」概念を宣言しました。ちょうど中国文化は陣痛中にあるのですから、伝統文化に対する自己反省と自己批判は必要不可欠のものです。
 中国語文化は数千年累積しながら自己批判・自己反省なしでどうして継承・発展することが可能でしょうか? 進歩のためには必ず自己反省と批判はつきもの。私の「新批判主義」とは、「5・4精神」の中で次の3つを継承・発展せよというものです。

第1:懐疑と批判的精神。新批判主義の「新」の意味もここにある。
第2:「5・4」の批判精神以外にも、魯迅を代表とする自己的懺悔精神を突出化したが、これは実は「5・4」の批判精神の内向化と深化です。
第3:新批判主義のもう1つの思想的源泉は、魯迅が提供した、つまり、進化論に対する超越です。その具体的方法と内容については省略しますが、とにかく「自己反省・自己批判」を通して改めて伝統文化を眺望し、われわれ社会の発展を期するのが狙いです。

思想のない中国知識界

 「自己反省・自己批判」の欠如している中国を見ると、大衆をリードすべき立場にいる知識人、学界のほうがむしろ自己反省と批判を怠けていると思います。知識人として出すべき声も出さず、潤沢な物質生活に安住しながら、知識人本来の使命感を忘れたのが現代中国知識界の現状ではありませんか。

 全く同感です! 90年代以来、中国知識界は堕落したという言い方もあります。しかし、堕落したというよりも本性の露呈です。中国の土大夫、読書人も従来そうであったんですね。彼らはある状況の中では大変な正義感をもって、凛々しかったのですが、また別の厳しい状況(独裁など)に出会えば、あまりにも卑劣で野卑、女々しくなる。これは根深い「劣根性」で、個人の独立思想と人格プライドが欠如しているからです。

 鄧さんは現在の中国知識人をどう見ていますか。

 1番の欠陥は思想を持たないこと。思想しようともしないし、1つのところを停滞してぐるぐる回りながら、いかに名利を得るかばかりを考え、完全に名利のとりこになっています。

金 同感です(笑)。中国の体制は現在の知識人に対して名利を提供する、誘惑するようにしています。中国人作家の「摩羅」氏は、中国知識人の現実的縮影と考えますが?

知識人の「華麗なる転向」

 摩羅は『恥辱者手記』などで時代の自己反省と批判を旗上げした少壮派知識人でした。ところが、近年では『中国人よ、立ち上がれ』という本を書くなど、狭隘な民族主義者に変身してしまった。
 私は、中国知識人のこの「華麗なる転向」について分析してみました。最も根源的なのは、伝統的中国知識人の「劣根性」と無関係ではないのです。儒家的土大夫の理想的思考「5・4」の頃の知識人も儒教批判を行いましたが、儒教的「自我圓融」の心理から脱皮できません。

 作家の王小波さんが言ったように「知識人の最大の罪は、自分自身を拘束する思想の監獄をつくることだ」と。摩羅のようないわゆる反体制風の知識人がこんな転向をするとは……。

鄧 現在、中国知識人の中には思想解放に反対する人もいます。普遍的人性、普遍的人権思想を嫌悪し、「中国国情」という盾で、すべて西洋の覇権だと罵倒する
 呆れたものです(笑)。進歩はどうやって成し遂げるのですか。儒教をもって?違います。近代の科学精神、技術と社会の開放、思想の開放ですよ。われわれが、近代科学技術をもって伝統に復帰しなければならないのか?とんでもない。これは太平犬の卑怯な理想にすぎない。

中国に大学は存在する?

金 近頃中国へ頻繁に往来しながら、柏楊先生の「醤缸(チャンカン)理論」(漬物甕文化―ドロドロした醤のように、4000年の中国伝統文化を詰め込んだ底なしの泥のような、悪臭を放つ文化)を思い出します。学界も社会も、みなこのような臭い泥のような醤缸ばかり。鄧さんは、中国には学界が存在しないと、ある本で指摘しました。

鄧 中国とは、おっしゃる通り、1つの巨大無類の「醤缸」です。知識界も言うまでもなく、悪臭をブンブン放つ巨大な漬物甕です。
 数年前、清華大学の汪暉さんの著作窃盗事件(2010年、南京大学中文学部の教授王彬林らが清華大学中文系教授汪暉の20年前の著作『反抗絶望』が勡窃作だと指摘し、意思表示しなかったため「醤化」《泥沼化》した)がありました。言説のヘゲモニーを握っている者が沈黙し、当事者が何も言わないと他人がいくら言っても結局ムダだということですね(笑)。
「学界で論考すべきであって、マスコミが叫んでも意味がない」のです。しかし、「学界」とは誰ですか? 中国には「学界」が存在するのですか? 1930年代、ある識者が中国には学界が全然存在しないと宣言しました。ならば、それから数十年が経った今、中国には学界があるのかというと、答えはやはり全然ない!
 中国では学術は根本的に「界」など成立しません。もし「界」があるとすれば、中国にはただ1つしかない。それは「渾沌界」です!

 興味深い指摘です。

 中国の大学も学界もすべて江湖世界にすぎません。

汚れた「象牙(ぞうげ)の塔」

 鄧さんの「学界は江湖世界」という話を聞いて、私の最近の体験をお話ししたいです。私が上海の某大学は日本語系主任の招聘で、外国人専門家として3カ月ほどは日本語系で教えましたが、大学内部の知られざる真相を体験できました。

鄧 何か悪いことに遭遇したのでしょうか。

金 そうです。その日本語系主任は才能も人格も欠けた者で、最初から私を利用しようと企んでいたのです。

 「槍手」(ゴーストライター)としてでしょう?(笑)

金 その通りです。彼は私に「自分は論文も書けないし、白酒しか飲めない。現在、准教授だけど、教授に昇進するためには論文2本と著作1冊が必要だから、私のために書いてくれ」とストレートに言ってきたのです。
 私は内心仰天しました。大学にこんな卑劣な人間もいるのか、と。私が応じないと、その主任は様々な嫌がらせやイジメ、誹謗中傷を繰り返しました。まさに「悪の存在」だった(笑)。

 気の毒なことですね。そんな卑怯な人間と遭遇するなんて。まあ作品を書くための良い素材だと思えばいいですね(笑)。金さんは日本という静かな学術雰囲気の中で長い間いたから、中国の現在の大学や知識界の生態について、あまり分からないと思います。
 知性と教養のシンボルとしての大学は、その国の文明レベルを測るバロメーターですけれども中国は違う。現在国と社会全体が劣化して堕落し、汚臭を放つ中国で、大学という「象牙の塔」は依然として浄土だと思ったら大間違いです!
 中国の大学では、先の主任のような人物が、あらゆる大学に遍在しているし、勡窃(ひょうせつ)、恐喝、ワイロ、イジメ、虚言など犯罪が乱舞しています。その真相を知ったら仰天してしまいますよ!想像を絶するひどさですから……。

学術腐敗は世界一である

 まさに学界・学術腐敗そのものですね。

 中国の政界、官吏の腐敗は世界的に有名ですが、実は中国の学界、知識界、文化界の腐敗は政界の腐敗よりもひどい面があります。
 中国の大学は本当の大学だと思いますか? NOです! 中国の大学は官僚機関であり、企業であり、工場、百貨店、賭博場、そして戦場、トーチカでもある。大学であっても弁証的に見るべき。大学教授は政容で、幕僚で、チンピラ頭目のようなもの(笑)。ですから、中国の「学界」とは、汚物に満ちた「商界」であり「政界」で、「江湖」そのものです。

 なるほど(笑)。しかし、中国政界の腐敗は世界で広く知られていますが、学界の腐敗についてはほとんど知られていません。

 そうですが、中国の学術腐敗も世界1と言われています。中国で学術不正、偽造はきわめて普遍的にあり、その裏には広大な「学術偽造の産業圏」ができている。学術機構自体も「学術」意識の不在で腐敗の温床でもありますから。

 80年代には「学術腐敗」はあまり聞かなかったのですが……。

 80年代、学術腐敗はそれほどひどくはありませんでした。ところが、90年代に入ると蔓延し、今や学界の腐敗は中国学界の1種の代名詞になるほど普遍化したのです。ネットや微信の学者たち、マスコミの報道によると、一般大学生から助教授、講師、准教授、教授にいたるまで、著しく著名な教授まで腐敗から逃れられません。例えば、指導教官は院生の論文を公然と自分の名前をつけて発表することも常時です。論文や著作を専門的に代行して書くゴーストライターグループまで多数存在し、大人気です。論文1本、著作1部ではっきりした価格の相場があります。

 確かに奇妙な世界ですね。

 学術腐敗とは、学術、科学研究において科学的精神を無視し、偽造研究・偽造データ・偽造論証・偽造成果など、様々な形態を指します。また、学術に携わる学者、研究員、教授、院生、学術団体の責任者が、学術の門外漢であること。「行政が無理やり学術を指導する」中国的特徴をも指しています。

学術ワイロの猖獗

 中国では政治ワイロとともに学術ワイロもあるとか。

 学術腐敗があるところには、学術ワイロがつきものです。ワイロを使う者は、最初は通信教育や夜間大学などの卒業証書の発給で「資本儲畜」をしてから、ワイロの使い道を特定の人たちに修士・博士課程の試験、募集、講義を通じて、「本物」の学位証書を発給する「一本化のサービス」を提供します。あるいは特定的人物を大学の名誉博士、兼任教授、客員教授などとして招聹し、曲学阿世する。
 一方、ワイロを受けとる者は、顔色一つ変えずに堂々と受けとります。こんな学術ワイロは、露骨なマネートラップやハニートラップより体面が立つと思うからです。
 地位も金もある彼らにとって、金や美人よりも学術的「優雅なワイロ」のほうが、魅力的です。なぜなら一瞬にして何の苦労もなしに、修士、博士、教授、教官、学術団体のドクターになれるし、世間で自慢できる、いわゆる「儒官」「儒高」になれるからです。学術的ワイロは心理的満足を容易に満たしてくれるから、拒否できないどころか自ら求める面もあります。

 中国的学術腐敗と学術ワイロの結託ですかね。

 その通りです。両者は共謀して中国社会の奇怪で奇妙な病的光景をなしています。学術的独立自主性を犠牲にするばかりでなく、学術精神や学術事態に対する冒瀆でもある。知的浄土であるはずの大学、学術が江湖化、俗物化したことは悲しむべきことです。

反知性的な「粗鄙(チューピー)」社会

 中国では「粗鄙」という言葉が流行してます。

 学者の祝東方さんが言ったように「「粗鄙化の人間とは、汚い言葉を常に口にし、匪賊(ひぞく)、チンピラの気が漂い、粗雑鄙俗、野蛮な輩だ。チンピラ化が中国現代社会の潮流になった」と。
 80年代はそこまで粗鄙化が進んでいませんでしたが、主に90年代~2000年代を経て蔓延しています。著名な詩人、郡燕祥氏の表現を借りれば、普遍的粗鄙化は中国現在の社会病、文化病にまでなっている。
 個人の粗鄙化は権力と癒着しています。あの強力な「権力粗鄙」と対抗する方法やシステムがないため、反知性的、反理性的、反法治的な「粗鄙」的心情になりがちです。中国の一般社会だけではなく知識人にまで浸透し、大学は「粗鄙人」の大きな温床になったと言えます。

 そこまでひどい状況とは思いませんでしたが、さすがにすさまじい。

 金さんは日本に在住しているから、中国学界の腐敗や粗鄙化を実感していないからです(笑)。

 いや、最近上海の大学でしみじみ体験しました(笑)。次は『中国学術腐敗』という本を執筆するつもりですよ。

 良いテーマですね! 刊行する時を待っています。日本語よりも、まず中国語で出してほしいですね。

中国の博士と指導教官、99%は不合格

金 ありがとうございます。ネットには「中国の現在の博士と、その指導教官の99%が不合格」というショッキングな論考まであります。

 あ、中国科学院科学研究所の研究員王鴻飛さんの文章ですか。金さんも御覧になったのですね。彼はアメリカのコロンビア大学の博士ですが「99%は不合格」という表現はある程度オーバーかもしれませんが、確かに中国博士とその指導教官のレベル、素質に対しては正鵠を射た指摘だと思います。
 
 王さんはアメリカの3類大学の学術的基準で照らして見ると、中国大陸の99%の研究員や教授、卒業した博士は不合格と言っています。こうなった理由は、中国人はマジメにやればできるのにもかかわらず、やっていないからだという。
 さらに彼はこうも言っています。合格か不合格かという問題よりは、要は大部分の博士と教授・教官は、専攻研究でマジメに頑張ればレベルが向上するのにそうやっていない。努力不足である。やるべき努力が欠けているので学んでいないし、不合格はますます増えて、10人中、8~9人は不合格になる。これが問題であると。
 
 大多数のこれらの人々は、博士号を取得して就職し仕事をするとき、また厳格な指導がないため、学術的風気は汚れがちです。アメリカの博士と比較したら、学術的レッスン、学問をする方法や実践法、データの収集や実証的視点で科学的結論に至る底力が欠如している。ですから中国で博士を育てても、その教官とともにコロンビア大学などの大学と比べたら99%は不合格になるのです。
 私はこの指摘は正しいと思います。中国の学術分野は正規的学問のやり方が分からないし、求めないので、偽造や不正に向かう比率が極めて高い。

なぜ学術腐敗は根絶できないのか

 学術的腐敗を撲滅することはできませんか。

鄧 中国では偽物や偽商品、政治的腐敗に関して、政策的にも反対や撲滅キャンペーンをやっていますが、依然と逍遥しています。学術腐敗の撲滅は、中国ではいまだに成果がありません。1部の正義感の強い良心的学者たちが声高く叫んでいますが、なかなか呼応する者が少ないのです。また中国はコネ社会なので、撲滅自体に反対する勢力がとても強いのもの原因の1つです。学術腐敗者は、摘発者に対して表裏で報復をしたり、コネを使って行政権力をフルに利用するから、摘発者の訴えなどを無効化してしまう。
 中共体制の官僚の中にも、博士や修士学位取得者が多いですが、そもそも彼らの学位取得自体が偽物も多く、疑わしい。

金 香港や台湾の評論家たちの本を読むと、中共の高官の博士や修士学位を持っている者が想像以上に多いのですが、ほとんど学位偽造が氾濫していると。

 否定できないと思います。中国の大学で腹立たしいことは、学術腐敗者、不正者をその本人の所属大学や部門で自分たちの職場の名誉のために、わざわざ覆い隠すことです。不正者が摘発されたとき、最も恐れるのは当事者本人よりもその人が所属する大学です。大学のメンツを維持するために、できる限り隠蔽するのが中国の実態なのです。

 恐ろしい現実ですね。学術腐敗を根絶できないのは、中国の体制ではないでしょうか。

 その通りです! 中国の学術腐敗の産室は中国の体制にあり、こんな体制下では根絶することなど至難の業です。学術における民主がないから、不道徳的な人に隙間を与える。道徳人、正義人は、この状況下ではなかなかやりようがないです。結果的に更生に至りにくい。学術の民主が保証された状況であれば、不正の人、不道徳の人は効果的に牽制を受けるはずです。

 私は江渓で公開的学術批評こそ学術民主の最も基本的要素の1つだと考えます。こんな監督システムは間接的ではあるものの、実は最も根本的なものです。広範に公用的学術批評があれば、公正へと近づくからです。不正者がもしも公論上で地位も名誉もなくなれば、自らおとなしくなるし、学者たちの「正気」が「邪気」を圧倒することもできる。

 こうなると真の「学術界」が形成できるでしょう。不幸なことに中国では客観的、かつ健全な学術評論、監督体制がいまだに欠如しています。しかも、多くの人は主観的に学術腐敗・不正を抑制し、撲滅する共同認識ができていません。だから、学術腐敗の被害者たちは自分自身の正当な権利を保護する意識もできていません。学術腐敗の根絶は、中国でははなはだ難しく、道遠い課題です。

新啓蒙はわれわれの活路

 知識人の学術腐敗から、中国知識人の退化を見ることができます。鄧さんは良識の知識人、学者として中国人の新啓蒙について研究と言論活動を展開してきましたが、新啓蒙の角度から知識人の自らの啓蒙についてお話を聞かせてください。

 啓蒙は、今知識人に向けられなければなりません。学界、知識人の腐敗は独立性の不在、思想の欠如と名利の虜によって形成され、このような知識人は80年代のようにすでに大衆の啓蒙者、救世主として君臨することは難しくなりました。さらに、80年代以来、大衆とともに知識人も物質的享受に安住し、思考停止して名誉や利益を奪い合い、権力と結託して知識の奴隷に変容した人々も少なくない。
 金さんは先ほどの「中日韓比較文化論」講演で日本の学術、清廉、知識人の生態、そして独立自由の雰囲気の中で学問をする環境についてお話ししましたが、羨ましい限りです!

 新啓蒙はどんな特徴がありますか。

 新啓蒙とは、私の提起法でもありますが、20世紀の啓蒙方法とは異質です。一番大きい特徴は少数の知的エリートたちが海外から新しい知識体系を吸収して社会文化を改造するのではなく、中国社会自体が根本的変化によって知識人に強烈な訴えを発すること。
 知識人たちに、新しい生活方式のために新しい規範とイデオロギーの根拠を提供するよう要求します。過去20世紀、2回の啓蒙と比較して見ると、順番が変わりました。つまり、過去では一部の知識エリートが高いところから群衆を動員して社会の改造を期しましたが、現在の群衆は問題を見て、下層から知識エリートたちに呼びかけるようになっている。

 逆さまに、大衆が知識人に啓蒙の理論と方法を要求するということですか。

 そうです。大衆の訴える要求に応えないと失格になってしまう。新啓蒙のもう1つの特徴は科学から理性へと向上することです。理性精神には懐疑精神、批判的思惟を言いますが、これが中国人。中国知識に最も欠如しているもの。もう1つは民主から人権へと深入りすること。
 3番目は普遍的価値に対する総体的把握です。これを西洋の概念だと嫌う人もいますが、これは無知な考え方です。すべての普遍的価値はある種の文化を乗せるわけですが、西洋文化を乗せたといって否定してしまうと、最終的に普遍価値をすべて否定しかねません。西洋の普遍価値は中国の伝統的価値よりももっと普遍性を持っているし、中国の伝統的価値を包括しているのも事実です。

 中国の未来についてはどうお考えでしょうか。

 長期的には楽観です。しかし、近未来に対しては失望しています。寛容、自由、人権、独立思想、学術の自由、言論の自由などがあってこそ人間を幸福にしますが、中国ではこれらが欠如しているのが悲しい。魯迅はこう言っています、「最も恐ろしいことは、夢からさめて進むべき道を探せないことだ」と。今は魯迅の時代ではなく巨大な変化を遂げました。
 中国は、大衆は「伝統」に復帰するのは「活路」を失うことで、普遍的価値を貫徹して世界に進入することです。もちろん、知識人も腐敗や不正から本当に知恵価値、知識体系を建設して大衆へ提供することです。
鄧 暁芒(トン シャオマン)
華中科学技術大学哲学科教授。1948年生まれ。1979年中学技学力で武漢大学哲学系修士課程入学。1982年武漢大学教授。西洋哲学研究所長歴任。中華外国哲学史学会常務理事。2009年末、華中科技大学教授。主要著書『思弁的張力』『霊之舞』『新批判主義』『啓蒙加進化』、訳書『純粋理性批判』等多数。
金 文学(きん ぶんがく)
比較文化学者、文明批評家、日中韓国際文化研究院長。1962年、中国の瀋陽で韓国系中国人3世として生まれる。85年、東北師範大学外国語学部日本語科卒業。大学講師を務めたのち91年に来日し、同志社大学大学院、京都大学大学院を経て2001年、広島大学大学院博士課程修了。広島文化学園大学、福山大学、安田女子大学などで教鞭を執る。現在は日本に帰化し、日中韓3国で執筆、講演活動中。「東アジアの鬼才」と呼ばれるなど、その言論活動はアジア各国で高く評価されている。

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