時代に合わせた変化を
≪日本国憲法 第九十八条≫
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
この条文から明らかだが、憲法は国の国家体制・権力構造を定める最重要なものであり、憲法に反する法律は一切認められない。
だからこそ、急速に変わっていく世の中では、国家の発展を保障し国民の人権を守るために、常に国のあり方=「Constitution」(憲法)を時代の変化に合わせる必要がある。種にしても国にしても、環境に適応できないものは自然淘汰していく運命にあるものだ。
ただ中には、「日本は憲法を変えたことがないけど、滅びていないではないか」という反論もあるかもしれない。しかし、実は日本も「憲法解釈変更」という形で、改憲に等しいと思われても仕方のないようなことを繰り返し、国の存在と国民の生命、財産を保護するために必要な変化を遂げてきた。たとえば、自衛隊の創設や集団的自衛権の行使容認が良い例だろう。
すると、今度は「それなら、改憲(自体)はしなくてよいではないか」と思う方がいるかもしれない。しかし、こういう考え方こそ立憲主義の精神に反し、将来的に民主主義の脅威になり得ると言わざるを得ない。憲法の主たる役割は国家権力を抑制することだとされている中で、その権力者が主権者たる国民の審査を通さずに最高法規の解釈を変えられる手続きと、国籍保有者は公正かつ自由の国民投票を通じて民意を示せる手続きのうち、どちらがより民主的で悪用されにくいかは一目瞭然だろう。
では、なぜ「立憲民主党」を名乗る政党が国民の主権行使に反対するのだろうか。それには大きく分けて二つの理由があると思う。
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
この条文から明らかだが、憲法は国の国家体制・権力構造を定める最重要なものであり、憲法に反する法律は一切認められない。
だからこそ、急速に変わっていく世の中では、国家の発展を保障し国民の人権を守るために、常に国のあり方=「Constitution」(憲法)を時代の変化に合わせる必要がある。種にしても国にしても、環境に適応できないものは自然淘汰していく運命にあるものだ。
ただ中には、「日本は憲法を変えたことがないけど、滅びていないではないか」という反論もあるかもしれない。しかし、実は日本も「憲法解釈変更」という形で、改憲に等しいと思われても仕方のないようなことを繰り返し、国の存在と国民の生命、財産を保護するために必要な変化を遂げてきた。たとえば、自衛隊の創設や集団的自衛権の行使容認が良い例だろう。
すると、今度は「それなら、改憲(自体)はしなくてよいではないか」と思う方がいるかもしれない。しかし、こういう考え方こそ立憲主義の精神に反し、将来的に民主主義の脅威になり得ると言わざるを得ない。憲法の主たる役割は国家権力を抑制することだとされている中で、その権力者が主権者たる国民の審査を通さずに最高法規の解釈を変えられる手続きと、国籍保有者は公正かつ自由の国民投票を通じて民意を示せる手続きのうち、どちらがより民主的で悪用されにくいかは一目瞭然だろう。
では、なぜ「立憲民主党」を名乗る政党が国民の主権行使に反対するのだろうか。それには大きく分けて二つの理由があると思う。
国民の主権行使に反対する「立憲民主党」
まず一つは、支持率一桁の「永久野党」とそれに賛同する左翼勢力は、日本国民に嫌われており、民主主義的な手続きでは国政に影響を与えることはできないからだ。彼らは圧倒的なマジョリティー(大多数)と反対陣営にいて、国民投票法改正案に反対したり、「民主主義は多数決じゃない」と言い切ることで民意を軽視したり、審議拒否で国会を空転させたりと、常に国民から自分の国を治める〝当然の権利〟を奪取しようとしているのだ。一般国民の支持をまったく得られないマイナー(少数)勢力からしたら、民意をなるべく問わなくても良い制度のほうが便利だろう。
二つ目は、左翼の最も目立つ特徴であるダブルスタンダード(二重規範)の多用が考えられる。たとえば、「憲法を守れ!でも天皇制は廃止しろ!(1条の否定)」、「ヘイトスピーチを取り締まれ!でも日本人に対するヘイトは表現の自由だからほっとけ!(法の下の平等を保障する第14条、あらゆる検閲を認めない第21条の否定)」などだ。つまり彼らにとって、憲法とは自分だけの権利を保障するものであり、いろいろと誤魔化したり、一般常識に反する独自の解釈を重ねたりすることで政敵の自由を奪おうとするのは彼らの常套手段なのである。よって、条規の通常の意味を優先する「条文主義」より、言い分けでどうにでもなる「ご都合主義」のほうが彼らにとって便利だろう(ちなみに立憲民主党は、投票を妨害しようとし、96条を認めない時点で非立憲的かつ非民主的な党であることが明白である)。
二つ目は、左翼の最も目立つ特徴であるダブルスタンダード(二重規範)の多用が考えられる。たとえば、「憲法を守れ!でも天皇制は廃止しろ!(1条の否定)」、「ヘイトスピーチを取り締まれ!でも日本人に対するヘイトは表現の自由だからほっとけ!(法の下の平等を保障する第14条、あらゆる検閲を認めない第21条の否定)」などだ。つまり彼らにとって、憲法とは自分だけの権利を保障するものであり、いろいろと誤魔化したり、一般常識に反する独自の解釈を重ねたりすることで政敵の自由を奪おうとするのは彼らの常套手段なのである。よって、条規の通常の意味を優先する「条文主義」より、言い分けでどうにでもなる「ご都合主義」のほうが彼らにとって便利だろう(ちなみに立憲民主党は、投票を妨害しようとし、96条を認めない時点で非立憲的かつ非民主的な党であることが明白である)。
愛国心なき日本の左派リベラル
ところで、左派系野党は一般国民の支持こそ得られないものの、特定の分野への浸透はとても上手くできている。憲法学者、大学教授、メディア関係者などは赤色(左派的色合い)が強い。そういった社会的地位の高い仲間の権威を利用し、「プロでない民衆の認識が間違っている」「我々のほうが正しい」「憲法学者でもないくせに憲法について意見するな」と主張するのも、彼らの使用する左翼の矛盾に気づいた人を黙らせるための常套手段だ。
自衛隊に関する調査は、見事にその「憲法学者」と一般国民の認識の違いを示している。一般国民で自衛隊を違憲と考える人が約20%に過ぎないのに対し、憲法学者になるとその割合は60%を上回る。「国防」という1億人以上の命に係わる最重要課題に関するコンセンサスが得られていない現状はとても危険だ。自衛隊の解体を目指す政党が日本の国会にいることを考慮すると、国防に関する事項を憲法に明記していないまま、その時々の政権に9条の解釈権を与えることは、いざという時に悲惨な結果を招きかねない。
本来ならば、日本の軍国主義化を恐れている左派リベラルも、日本の独立を重視する保守も、同じ「日本」に住む者なら自衛隊明記に反対する理由がないはずだ(自民党草案の話ではなく、あくまで一般論である)。国軍の存在意義と義務がしっかり憲法に追加されることで、シビリアンコントロールがよりしやすくなるし、隊員の国際法上の立場がより確かなものにもなる。また国民の承認を得た新憲法が認める範囲内での任務遂行がよりやりやすくなるだろう。まさにWin-Winではないか。
自衛隊に関する調査は、見事にその「憲法学者」と一般国民の認識の違いを示している。一般国民で自衛隊を違憲と考える人が約20%に過ぎないのに対し、憲法学者になるとその割合は60%を上回る。「国防」という1億人以上の命に係わる最重要課題に関するコンセンサスが得られていない現状はとても危険だ。自衛隊の解体を目指す政党が日本の国会にいることを考慮すると、国防に関する事項を憲法に明記していないまま、その時々の政権に9条の解釈権を与えることは、いざという時に悲惨な結果を招きかねない。
本来ならば、日本の軍国主義化を恐れている左派リベラルも、日本の独立を重視する保守も、同じ「日本」に住む者なら自衛隊明記に反対する理由がないはずだ(自民党草案の話ではなく、あくまで一般論である)。国軍の存在意義と義務がしっかり憲法に追加されることで、シビリアンコントロールがよりしやすくなるし、隊員の国際法上の立場がより確かなものにもなる。また国民の承認を得た新憲法が認める範囲内での任務遂行がよりやりやすくなるだろう。まさにWin-Winではないか。
国民主権を尊重せよ
逆に、過剰な曖昧さはどういう危険性をもたらすかというと、最悪のシナリオでは、憲法に一言も書かれていないのを良いことに自衛隊を悪用する政権があらわれるかもしれないし、逆に「違憲な武装組織だ」といって国民を守る任務を妨害する政権もあらわれるかもしれない(民主党政権を思い出すと、後者は可能性が極めて高い)。
誤解しないでいただきたいが、私は憲法解釈の変更そのものを否定しているわけではない。直接民主主義は理想的ではあるが、細かいところを一々確認するために毎回国民投票を行うのは現実的ではない。だが、現憲法が定められた当時と今を比べると、国際情勢も日本人の意識も大きく変化したことを誰もが否定できないだろう。解釈変更で何とかできる限界も来たし、国民の大半が現行憲法の制定時に生まれてすらいないのに、一度も憲法を改正するチャンスを貰えなかったことも異常と言わざるを得ない。
自国の在り方を自分で決めるのはあらゆる民族が持つ当然の権利だ。憲法条文と民意が異なっているなら、変わるべきなのは憲法である。憲法学者の意見と一般国民の常識が異なっているなら、優先すべきなのは一般国民の常識。一刻も早く現行憲法の絶対化・神格化をやめて、国民投票を行うことによって最高法規の制憲権を主権者の手に取り戻そう。
誤解しないでいただきたいが、私は憲法解釈の変更そのものを否定しているわけではない。直接民主主義は理想的ではあるが、細かいところを一々確認するために毎回国民投票を行うのは現実的ではない。だが、現憲法が定められた当時と今を比べると、国際情勢も日本人の意識も大きく変化したことを誰もが否定できないだろう。解釈変更で何とかできる限界も来たし、国民の大半が現行憲法の制定時に生まれてすらいないのに、一度も憲法を改正するチャンスを貰えなかったことも異常と言わざるを得ない。
自国の在り方を自分で決めるのはあらゆる民族が持つ当然の権利だ。憲法条文と民意が異なっているなら、変わるべきなのは憲法である。憲法学者の意見と一般国民の常識が異なっているなら、優先すべきなのは一般国民の常識。一刻も早く現行憲法の絶対化・神格化をやめて、国民投票を行うことによって最高法規の制憲権を主権者の手に取り戻そう。
ナザレンコ・アンドリー
1995年、ウクライナ東部のハリコフ市生まれ。ハリコフ・ラヂオ・エンジニアリング高等専門学校の「コンピューター・システムとネットワーク・メンテナンス学部」で準学士学位取得。2013年11月~14年2月、首都キエフと出身地のハリコフ市で、「新欧米側学生集団による国民運動に参加。2014年3~7月、家族とともにウクライナ軍をサポートするためのボランティア活動に参加。同年8月に来日。日本語学校を経て、大学で経営学を学ぶ。現在は政治評論家、外交評論家として活躍中。ウクライナ語、ロシア語のほか英語と日本語にも堪能。著書に『自由を守る戦い―日本よ、ウクライナの轍を踏むな!』(明成社)がある。
1995年、ウクライナ東部のハリコフ市生まれ。ハリコフ・ラヂオ・エンジニアリング高等専門学校の「コンピューター・システムとネットワーク・メンテナンス学部」で準学士学位取得。2013年11月~14年2月、首都キエフと出身地のハリコフ市で、「新欧米側学生集団による国民運動に参加。2014年3~7月、家族とともにウクライナ軍をサポートするためのボランティア活動に参加。同年8月に来日。日本語学校を経て、大学で経営学を学ぶ。現在は政治評論家、外交評論家として活躍中。ウクライナ語、ロシア語のほか英語と日本語にも堪能。著書に『自由を守る戦い―日本よ、ウクライナの轍を踏むな!』(明成社)がある。