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プーチン大統領の夢とは――

「偉大なロシア」を夢見て

 ロシアのウクライナ侵攻──その背景を探るためには、プーチンの歴史観を理解する必要があります。

 プーチンはウクライナ侵攻の3日前、テレビ演説でこう語りました。

「ウクライナは単なる隣国ではない。我々の歴史、文化、精神的空間の切り離しがたい一部である。現代のウクライナは共産主義のロシアによってつくられた。ロシア革命直後、レーニンや同志たちがロシアの歴史的領土を切り離すという方法によって」

 ウクライナ侵攻の2日後、ロシア国営メディアが「キエフ陥落」の予定稿を誤配信しました。記事はすぐに削除されたものの、ロシアとウクライナ、ベラルーシからなる「完全なロシア」が分裂したきっかけはソ連崩壊にあるとして、冷戦終結後の国際秩序を変えることがプーチンの目的だと論じられています。プーチンが目指しているのは、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人という3民族を結集させて、一つの「偉大なロシア」を復活させることなのです。 

 ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3カ国はいずれも、9世紀~13世紀まで存在したキエフ公国を文化的な祖としています。ロシア帝国の前身ともいえるモスクワ公国は、キエフ公国の分家として誕生した。そして、東スラブ民族の本家ウクライナは分家ロシアの台頭に押されて力関係が逆転しました。

 キエフという民族発祥の地がロシアにないどころか、ウクライナが反露・親欧米に傾きつつある――。だからプーチンは怒っているのです。

レーニンが仕掛けた「時限地雷」

 プーチンはレーニンとスターリンをどう評価しているのか。
 2人のリーダーをめぐる評価の違いは、プーチンが思い描く「ロシア像」を如実に示しています。
 
 2016年、プーチンは支持団体「全ロシア人民戦線」の大会で、出席者から「ソ連の創始者」であるレーニンについて問われました。そこで彼は、「レーニンはわが国の建物の下に時限地雷を仕掛けた」と負の評価を口にした。「時限地雷」とは何か──。ソ連創設の直前、レーニンとスターリンが「国家の形態」をめぐって対立したことに関係しています。

 当時、スターリンは民族問題担当の人民委員でした。彼が提案したのは「ロシア・ソビエト共和国」の創設。各共和国をロシアに編入したうえで自治権を持たすというものです。ロシアの地理的な拡大を意味しますが、これに反対したのがジョージアとウクライナにほかならない。
 レーニンもスターリン草案に異を唱えました。レーニンが主張したのは「ソビエト共和国連邦」の創設。ロシアを含むすべての共和国が対等な立場で新しい連邦に加盟し、各加盟国には脱退の自由を認めるというものです。レーニンはスターリンを「大ロシア排外主義」と批判しました。

 レーニンとスターリンはともに、民族主義に冷淡でした。それでも、レーニンは非ロシア民族への歩み寄りが必要だと考えていた。各地で民族主義の高まりを目の当たりにしていたからです。スターリンはそんなレーニンを「民族自由主義」と非難しています。
 最終的にレーニン案が採用され、ソ連が結成されました。レーニンの死後、スターリンは各地の民族エリートを粛清し、力ずくで「ロシア化」を進めます。スターリン的な強権支配が緩みだしたソ連末期、プーチンのいう「時限地雷」が作動。各共和国で独立運動が盛り上がり、ソ連崩壊を招いてしまったのです。

 スターリンの「大ロシア排外主義」に反発したジョージアとウクライナは約一世紀を経て、プーチン率いるロシアに軍事侵攻される。ジョージア侵攻とクリミア併合、極めつきは今回のウクライナ侵攻──プーチンとスターリンが思い描く「理想のロシア像」は重なるのです。
 プーチンはスターリンを高く評価しています。スターリン政権下で行われた数々の虐殺や粛清を積極的に肯定することはありません。しかし、プーチン政権下で採用された教科書で、スターリンの「負の歴史」の扱いは極めて小さい。その代わりに紙幅を割くのが、ソ連の急速な工業化、第2次大戦の勝利といったスターリンの功績。

 レーニンはロシア革命で「偉大な祖国」にマイナスをもたらしたが、スターリンが取り返してくれた──これがプーチンの歴史観です。
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ロシア革命の主導者、レーニン

「権力の麻痺」という病

 ロシア革命と並んでロシアが体験したもう一つの「大混乱」──ソ連崩壊について、プーチンは「20世紀最大の地政学的惨事」と表現しています。

 プーチンは1975年、レニングラード大法学部を卒業し、KGB(国家保安委員会)に入りました。レニングラードやモスクワ勤務などを経て、85年に東ドイツ・ドレスデンに赴任。秘密警察「シュタージ」と協力しながら政治家や反体制派の行動を監視して、その情報をモスクワに伝えることを業務としていました。
 そんななか、「ベルリンの壁」崩壊が大きな転機となります。壁崩壊の余波はベルリンから約百六十キロ離れたドレスデンにも及びました。群衆がシュタージの建物になだれ込み、KGBの建物も取り囲まれた。プーチンは駐留ソ連軍に電話をかけて出動を要請しましたが、「モスクワからの指示がなくては何もできない」とつれない言葉が返ってきた。

 プーチンは当時を振り返ります。

「もう国はないのだという感覚を抱いた。ソ連は病んでいることがはっきりした。権力の麻痺という致命的な不治の病だ」
「ソ連の欧州での立場が失われたことが残念だ。壁や分水嶺に基づいた立場が永遠に続くことはないと頭では理解していた。だが、何か別のものに取って代わってほしかった。ソ連は単にすべてを投げ捨て、去ったのだ」


 プーチンが東ドイツに赴任した年、ゴルバチョフが54歳で共産党書記長に就任しました。ソ連の若きリーダーが、経済の行き詰まりを打破するために掲げたのが「ペレストロイカ(再建)」。「グラスノスチ(情報公開)」や西側との関係を改める「新思考外交」など「改革」を次々と打ち出すゴルバチョフに、プーチンは危うさを感じていました。

「どのような変革が必要で、どのようになされるべきかを分かっていなかった。国に巨大な損失を与えることも多くなされた」

 ブレジネフは「プラハの春」弾圧にあたり、「制限主権論」を用いました。「社会主義国全体の利益のためには、一国の主権が制限されてもやむを得ない」という理屈です。
 ところが、ゴルバチョフ時代に「制限主権論」は放棄され、ポーランドやハンガリーで民主化の動きが盛り上がっても、軍事介入というオプションを行使することはなかった。ゴルバチョフが弱いリーダーだから、東欧民主化のうねりを押さえられず、「ベルリンの壁」崩壊を招いてしまった──プーチンはそう考えたのです。(次回に続く)
遠藤 良介(えんどう りょうすけ)
1973年、愛媛県生まれ。東京外国語大学外国語学部ロシア東欧語学科卒。同大学院地域文化研究科博士前期課程修了(国際学修士)。99年、産経新聞入社。横浜総局、盛岡支局、東京本社編集局整理部、外信部を経て2006年12月からモスクワ支局。14年10月から同支局長。18年10月から外信部編集委員兼論説委員。

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