現実は非核“5”原則

被爆3世─私の核保有論(1)より

 広島・長崎への原爆投下や東京大空襲など各都市への無差別攻撃を戦略爆撃という。その目的は都市インフラの破壊だと一般的に誤解されているが、実はそうではない。戦略爆撃理論の創設者、イタリア王国陸軍少将ジュリオ・ドゥーエは主著『Il dominio dell'aria』(制空論)の中で、戦略爆撃の目的を次のように論じた。

「無慈悲な空襲を受けた国では、社会構造の完全な崩壊が避けられない。国民自身が恐怖と苦しみに終止符を打つため、自衛本能に駆られて戦争の終結を求めて立ち上がる時が来るだろう」(原書イタリア語の英訳版『Tannenberg Publishing Translated by Dino Ferrari』を筆者が邦訳)

 つまり、「死の恐怖」を多くの民間人に与えることで根治不可能な心的外傷を負わせ、パニック状態にすることが戦略爆撃の目的だ。パニックになれば、選挙権を有する民衆が錯乱を起こして、その戦争が侵略であろうと防衛であろうと、政府は戦争能力を喪失するという期待が戦略爆撃理論の支柱である(ただし、民主国家でなければ民衆の錯乱は統治行為に影響しないので、戦略爆撃をしても戦争に影響しない)。戦略爆撃の目的はインフラの破壊ではなく、精神の破壊にある。

 そして、心的外傷を負った人々は次世代も同様の心理状態にすべく絶え間ない努力をした。広島平和記念資料館には、かつて原爆投下後に熱線を浴びて皮膚が剝がれ落ちて、絶命する寸前の女性と子どもの等身大の残酷な人形が展示されていた。

 また、判断能力がない児童に対して「熱戦を浴びて眼球が溶けて死ぬ描写」を含む残酷なアニメーション動画を制作して視聴させ続けた。児童に死体や殺人描写を視聴させることは欧米社会で厳しく制限されているが、日本では七歳未満の未就学児にさえ残酷映像を「平和教育」と称して見せ続けたのだ。私自身、幼稚園児のときにこれらの残酷映像を視聴させられ、以後3カ月間は悪夢や動悸が止まらなかった記憶がある。
 このように、「核兵器」となれば法の議論ができず、児童虐待を行政が平然としてしまうなどの狂気が、この戦後に繰り返されてきたのだ。

 この錯乱の中で、「非核3原則」という経典が宗教的な価値を有したのではないか。そして、非核3原則に疑義を唱えることは許されないという宗教論争と化した。つまり、核の議論を政治的論争だとして取り違えれば、正しい結論は得られない。これは、被爆した苦しみを少しでも癒すために用意された経典に対する宗教論争だととらえなければならないのだ。

 それは、非核3原則ではなく「議論させず」と「考えさせず」が加えられ、非核5原則となっている現実からも言えるだろう。
gettyimages (12031)

広島平和記念資料館

「非核」という宗教

 米ハーバード大学医学部教授で心理学の権威、ウィリアム・ジェイムズ氏は「宗教の原理」について、次のように説明している。

「すべての宗教が合流するように見える或る一様な意見がある。それは次の2つの部分からなる。1、不安感、および、2、その解決。1、不安感は、もっとも簡単な言葉で表すと、自然の状態にありながら、私たちはどこか狂ったところがあるという感じである。2、解決というのは、より高い力と正しく結びつくことによって、この狂いから私たちが救い出されているという感じである」(『宗教的経験の諸相』第20講/岩波文庫/桝田啓三郎訳)

 私たち日本人が抱く核武装についての不安は、核武装によって外国を刺激して本来ならば起き得なかった攻撃を招くだとか、(核共有は脱退の必要はないが)核兵器不拡散条約(NPT)脱退をして核軍備を選択したことに対する諸外国からの強い非難に萎縮しているというよりも、「核兵器を持っていれば、いつの日か私たちがそれを他人に使ってしまうのではないか」という恐怖が内在しているからではないだろうか。

 もしかすると、核兵器という存在を単に核実験の記録映像でしか認識したことがない人にしてみたら、憎き敵国を粉砕できる実に痛快な道具だと思うかもしれない。しかし、多かれ少なかれ幼少時から反核教育を受けた日本人にしたら、そのような想像力の欠如は生じ得ず、「核は抑止力のためにある」という本来の用途を忘却して、妊婦や児童もいる街に核を落として無辜の人々の死体に溢れた世界を止む無しに想像してしまうのではないだろうか。

 そして、その想像に伴う苦痛は自らが被る国家的な危機以上の不安を生じさせ、それが「より高い力」だと見なされた「非核3原則の国会決議」との精神的な結びつきによって緩和されたことで、反核を社会観念として受け入れる構造をつくり出したのではないだろうか。

 しかし、「非核」という宗教的観念と共に歩んだこの戦後77年の一時的な成功経験にすがりついてさえいれば、迫りくる対外的危機があっても、それに目をつぶり不安から解放されるという妄信はもう許されない。これからは米国の核使用における判断能力という合理的な「より高い力」と結びつく必要がある。
Wikipedia (12032)

ウィリアム・ジェイムズ
via Wikipedia

核を持つ権利がある

 要するに、日本人は自信がないのだ。
 だからこそ、核共有はその目的が「批判の回避」ではなく「使用責任の共有」にあるため、最適な選択と言えるだろう。何であれ初心者は手が震えるものであり、先発者の指導によりゆっくりと経験を蓄積して一人前に成長する。我が国は核兵器の使用について単独で責任を負うことには耐えられなくても、長年の同盟国と責任を共有することには耐えられるのだ。核共有こそ、私たち日本人にとって大いなる第1歩なのだ。

 今まで「合理的な結論」だとみなされていた憲法9条や非核3原則があるから、日本は大丈夫だという印象で私たちの本能は安堵していた。北朝鮮がミサイル実験をしても、「非核3原則がある相手にまさか攻撃しないだろう」という楽観と相手方の理性に期待した「印象」が非核3原則に結び付けられていた。
 しかし、今回改めてマッハ20まで加速して絶対に撃墜できない新型極超音速ミサイルを持つ国から、しかも侵略戦争を起こした国から核の脅迫を実際に受けて、今までのぼんやりとした恐怖の源が他国の核兵器にあることを日本人は再認識した。よって、殺されたくないという生存本能が刺激され、もはや非核3原則が持つ宗教の領域に合理的理由を見出せなくなったのだ。

 3月6日に放送された「日曜報道ザ・プライム」では、高市早苗議員が登壇して核共有についての議論を深めた。その際、番組終了時に「核共有」についての視聴者アンケートが採られ、有効投票総数9万1628票のうち76%が「核共有に賛成」だった。これは統計学上も有意な無作為集計だ。世論は確実に核共有を求めている。

 私の祖母は最後まで「日本が核を持っていればやられなかった」と言っていた。世界で唯一の被爆国だからこそ、核を持つ正当な権利がある。核兵器の恐ろしさを想像ではなく経験から知っているからだ。だからこそ、被爆者の記憶を継ぐ子孫は核に賛成する資格がある。「非核による被爆」という過ちを繰り返さないために、岸田首相には被爆者の声に耳を傾けるようお願い申し上げる。
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橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第5区より立候補。令和3(2021)年8月にワックより初めての著書、『暴走するジェンダーフリー』を出版。

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