国民はなぜ怒りの声を上げないのだろうか。私は官僚裁判官の〝暴走〟を見て、そう思う。
あれだけの苦悩や労力と引き換えに国民が裁判員として下した判決を、高等裁判所の裁判官がいとも簡単に「ひっくり返す」ことである。もともと裁判員制度の導入に大反対だった官僚裁判官たちが制度をなきものにしようと卑劣な手段を行使しているのだ。
2019年12月5日、熊谷6人強盗殺害事件の犯人、ペルー人のナカダ・ジョナタン(34)の一審での死刑判決が破棄され、東京高裁で無期懲役判決が下されたことに国民は目を疑ったに違いない。
無惨なあの事件については、今も記憶が鮮明だ。2015年9月13日、ナカダが任意同行先の埼玉県警熊谷署から走り去ったところから悲劇が始まる。
翌14日に熊谷市の住宅で50代の夫婦が刺されて死亡、2日後には84歳の老女、別の住宅では母親と10歳と7歳の娘計3人が殺害された。犯人のナカダはその家の2階から転落し、頭のけがで入院。そのまま6人に対する殺人などの容疑で逮捕された。
精神鑑定のための鑑定留置がすぐに始まり、翌年5月まで続く。起訴されたのは鑑定留置が終了した一週間後だ。だが、精神鑑定はその後も続く。2017年4月に公判前整理手続きが始まると弁護側が再鑑定を請求し、それが認められたのだ。結局、再鑑定が終わったのは9月のことである。
やっと初公判が開かれたのは2018年1月26日。この事件に向き合った裁判員たちは衝撃を受けただろう。遺体の状況や犯行の手口はどれも凄惨で、目を背けたくなるようなものばかりだったのである。
犯人に責任能力があるのかどうか、裁判員たちは真剣に審理をおこなった。地裁の精神鑑定で統合失調症と診断されたことで弁護側は心神喪失を理由に無罪を主張。責任能力の有無と程度が争点となった。
しかし、一審の裁判員裁判では死刑。被害妄想や追跡妄想があったことは認めつつも、現金のほかにも車を奪って逃走し、現場の血痕を丁寧に拭き取って証拠隠滅も図るなど、とても責任能力のない人間の行動ではなかったからだ。特に裁判員たちが注目したのは十歳の少女の性的被害だ。ナカダは両手をヒモで縛り、口に粘着テープを貼って下着を脱がし、下着に精液を付着させた。その後、代わりの短パンや7分丈のズボンを着用させて行為の隠蔽を図ったことも明らかにされた。これら「欲望を満たすための行為」が果たして「責任能力のない」人間のすることだろうか。
裁判員たちは徹底的に議論を尽くし、責任能力は十分にある、と死刑判決を下したのである。国民の社会常識が反映された妥当な判断だったと言える。
だが、高裁は違った。なんと、この10歳少女の性的被害に触れず、これを考慮に入れないまま「統合失調症の影響で心神耗弱状態だった」として無期懲役としたのだ。遺族の驚愕はいかばかりか。「高裁はなぜ娘の性的被害に触れなかったのか。到底、納得はできない」と、マスコミを前に父親が怒りを表わしたことがすべてである。
「襲われる」という妄想が仮にナカダにあったとしても、少女の手を縛った段階でその恐れはなくなったはずだ。それからの性行為と殺害行為、そして隠蔽行為を高裁判事は何とも思わないのか。常識さえあれば「心神耗弱」などと考える人間などいないだろう。
神戸市長田区の小学一年女児猥褻(わいせつ)殺害事件、大阪・心斎橋で通行人2人が殺害された心斎橋通り魔事件など、裁判員が苦悩の末に出した死刑判決が減刑されるのはこれで6例目だ。個別の事案に踏み込まず、被害者の数だけで判決を下す〝相場主義〟に慣れ切った官僚裁判官たちの恐るべき裁判員制度への逆襲である。
日産自動車のゴーン元会長が保釈中に逃亡した事件でも、日本の裁判官は非常識を露呈した。人質司法に対する検察への批判は当然あったとしても、もし保釈をするならば「絶対に逃亡できない方法」を採らなければならなかったはずだ。しかし、パスポートも持ち、GPSを足に装着もさせず、ほぼ〝自由に動きまわれる〟という裁判所の保釈条件は、プライベートジェット機を駆使して世界を股にかけてきたゴーンに対してあまりに〝非常識〟ではなかったか。
せっかくの裁判員制度が常識の欠如した官僚裁判官たちによって風前の灯となっている。国民を中心に政治もジャーナリズムも真剣に議論しなければならない。彼ら官僚裁判官の暴走を許すことは、犠牲者の無念を放置し、ひいては司法への信頼を根本から消し去ることにつながるからだ。
門田 隆将
1958年、高知県生まれ。作家、ジャーナリスト。著書に『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮文庫)、『死の淵を見た男』(角川文庫)など。『この命、義に捧ぐ』(角川文庫)で第19回山本七平賞を受賞。最新刊は、『新聞という病』(産経セレクト)。
あれだけの苦悩や労力と引き換えに国民が裁判員として下した判決を、高等裁判所の裁判官がいとも簡単に「ひっくり返す」ことである。もともと裁判員制度の導入に大反対だった官僚裁判官たちが制度をなきものにしようと卑劣な手段を行使しているのだ。
2019年12月5日、熊谷6人強盗殺害事件の犯人、ペルー人のナカダ・ジョナタン(34)の一審での死刑判決が破棄され、東京高裁で無期懲役判決が下されたことに国民は目を疑ったに違いない。
無惨なあの事件については、今も記憶が鮮明だ。2015年9月13日、ナカダが任意同行先の埼玉県警熊谷署から走り去ったところから悲劇が始まる。
翌14日に熊谷市の住宅で50代の夫婦が刺されて死亡、2日後には84歳の老女、別の住宅では母親と10歳と7歳の娘計3人が殺害された。犯人のナカダはその家の2階から転落し、頭のけがで入院。そのまま6人に対する殺人などの容疑で逮捕された。
精神鑑定のための鑑定留置がすぐに始まり、翌年5月まで続く。起訴されたのは鑑定留置が終了した一週間後だ。だが、精神鑑定はその後も続く。2017年4月に公判前整理手続きが始まると弁護側が再鑑定を請求し、それが認められたのだ。結局、再鑑定が終わったのは9月のことである。
やっと初公判が開かれたのは2018年1月26日。この事件に向き合った裁判員たちは衝撃を受けただろう。遺体の状況や犯行の手口はどれも凄惨で、目を背けたくなるようなものばかりだったのである。
犯人に責任能力があるのかどうか、裁判員たちは真剣に審理をおこなった。地裁の精神鑑定で統合失調症と診断されたことで弁護側は心神喪失を理由に無罪を主張。責任能力の有無と程度が争点となった。
しかし、一審の裁判員裁判では死刑。被害妄想や追跡妄想があったことは認めつつも、現金のほかにも車を奪って逃走し、現場の血痕を丁寧に拭き取って証拠隠滅も図るなど、とても責任能力のない人間の行動ではなかったからだ。特に裁判員たちが注目したのは十歳の少女の性的被害だ。ナカダは両手をヒモで縛り、口に粘着テープを貼って下着を脱がし、下着に精液を付着させた。その後、代わりの短パンや7分丈のズボンを着用させて行為の隠蔽を図ったことも明らかにされた。これら「欲望を満たすための行為」が果たして「責任能力のない」人間のすることだろうか。
裁判員たちは徹底的に議論を尽くし、責任能力は十分にある、と死刑判決を下したのである。国民の社会常識が反映された妥当な判断だったと言える。
だが、高裁は違った。なんと、この10歳少女の性的被害に触れず、これを考慮に入れないまま「統合失調症の影響で心神耗弱状態だった」として無期懲役としたのだ。遺族の驚愕はいかばかりか。「高裁はなぜ娘の性的被害に触れなかったのか。到底、納得はできない」と、マスコミを前に父親が怒りを表わしたことがすべてである。
「襲われる」という妄想が仮にナカダにあったとしても、少女の手を縛った段階でその恐れはなくなったはずだ。それからの性行為と殺害行為、そして隠蔽行為を高裁判事は何とも思わないのか。常識さえあれば「心神耗弱」などと考える人間などいないだろう。
神戸市長田区の小学一年女児猥褻(わいせつ)殺害事件、大阪・心斎橋で通行人2人が殺害された心斎橋通り魔事件など、裁判員が苦悩の末に出した死刑判決が減刑されるのはこれで6例目だ。個別の事案に踏み込まず、被害者の数だけで判決を下す〝相場主義〟に慣れ切った官僚裁判官たちの恐るべき裁判員制度への逆襲である。
日産自動車のゴーン元会長が保釈中に逃亡した事件でも、日本の裁判官は非常識を露呈した。人質司法に対する検察への批判は当然あったとしても、もし保釈をするならば「絶対に逃亡できない方法」を採らなければならなかったはずだ。しかし、パスポートも持ち、GPSを足に装着もさせず、ほぼ〝自由に動きまわれる〟という裁判所の保釈条件は、プライベートジェット機を駆使して世界を股にかけてきたゴーンに対してあまりに〝非常識〟ではなかったか。
せっかくの裁判員制度が常識の欠如した官僚裁判官たちによって風前の灯となっている。国民を中心に政治もジャーナリズムも真剣に議論しなければならない。彼ら官僚裁判官の暴走を許すことは、犠牲者の無念を放置し、ひいては司法への信頼を根本から消し去ることにつながるからだ。
門田 隆将
1958年、高知県生まれ。作家、ジャーナリスト。著書に『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮文庫)、『死の淵を見た男』(角川文庫)など。『この命、義に捧ぐ』(角川文庫)で第19回山本七平賞を受賞。最新刊は、『新聞という病』(産経セレクト)。
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