【橋本琴絵】中国「海警法」――いまこそ海保の武器使用基...

【橋本琴絵】中国「海警法」――いまこそ海保の武器使用基準の改正を

敵は武装してこない?

 今年2月1日、中国海警局の軍用船舶によって日本領における日本人射殺を事実上認めた「海警法」が施行された。

 日本の海上保安庁は武器使用につき国際慣習から逸脱した著しい法的制限が加えられているが、中国の海警局船舶は今回施行された海警法によって「外国の組織、個人に武器の使用を含むあらゆる必要な措置を取る権限」を得た。このため、日本の領海防衛について深刻な状況が発生した。

 本論は、この問題を二つの視点から論じたく思う。第一の視点は、海上保安庁の武器使用基準を現状のまま放置して良いのかといった問題提起を諸外国の武器使用基準との比較から論じるものであり、第二の視点は我が国の歴史的背景から今後予想され得る事態について論考を述べることを以て時局の重大性を主張したい。

 中国海警局は共産党中央軍事委員会の管轄である人民武装警察部隊に所属する事実上の軍隊であるが、名称は沿岸警備隊であるかのような外観を作出している。その目的は、中国沿岸警備に対して海上自衛隊が出動する事態をつくることができれば、日本国が好戦性をもって軍隊を最初に動員してきたとするプロパガンダを世界に向けて発信できる狙いがあると本論は指摘する。

 しかし、本邦の海上保安庁は前述の通り武器使用について国際的に常軌を逸した制限を設けている。その根拠法となる海上保安庁法第20条は、武器使用基準を警察官職務執行法第7条の規定を準用すると定める。つまり、死刑または無期などの犯罪に該当する場合や、正当防衛や緊急避難に該当する場合での武器使用を認めている。明らかに、警職法が言う「犯人」とは、重機関銃や対艦ミサイルなどで武装していることを想定していない。

 そうすると、正当防衛とは急迫不正の侵害を要件とすることから、まず相手方の攻撃を受けなければ反撃できないとする法律論がそのまま適用される。

 しかも、正当防衛が成立するか否かの諸判例に照らせば、犯人の基本的人権と守るべき個人法益との比較衡量論であるから、「防衛は最小限度」に留めなければならない。そうでなければ、過剰防衛として違法性を阻却せず罪に問われる。拳銃であれば足や手などを狙うことが場合によってはできるかもしれないが、船舶搭載の20ミリ機関砲でそれができると思っているような荒唐無稽なルールである。

 結局のところ、現行法とは「まず海上保安官が一人以上敵に射殺されてから」の非人道的な話であると評価できる。そもそも正当防衛という「個人の法益」を海上保安庁の武器使用基準に採用していることは、海上警備が我が国の領海を守るという国家法益の保護を目的にしていることをまったく理解していないものである。

国防後進国「日本」

youtube (4659)

海上保安庁の巡視船
via youtube
 そこで、諸外国の海上保安(沿岸警備)は、どのような武器使用基準を設けているのだろうか。国際的な視点で論じるため、アメリカ合衆国の基準を次に引用したい。

アメリカ合衆国権利章典第14編第637条第A項第1号ないし第2号では、次のように武器使用基準が定められている。

authorized may, subject to paragraph (2), fire at or into the vessel which does not stop.
(指揮官は次号に定められた通り、船舶または停止しなかった船舶に発砲できる)

the authorized shall fire a gun as a warning signal, except that the prior firing of a gun as a warning signal is not required if that person determines that the firing of a warning signal would unreasonably endanger persons or property in the vicinity of the vessel to be stopped.
(指揮官は警告信号として発砲しなければならない。ただし、停止させる船舶に近接した人または財産に対して警告信号の発砲が不当な危険を生じさせると判断した場合、警告信号としての事前射撃は必要無い)

 つまり、警告射撃をして停戦しなければ攻撃でき、警告射撃が更なる危険を生じさせる場合はそのまま攻撃できるというものである。本論は、この武器使用基準を直ちに我が国でも採用すべきであると強く主張する。海上自衛官や海上保安官のみならず、我が国の領海で操業中の漁師であっても射殺が認められた事態の深刻性を理解しなければならない。

日本人の同胞意識

 次に、歴史的背景から今後予想され得る事態について論考を述べたく思う。

 私たち日本人は、国を守る武官が理不尽に殺害されたとき、豹変する性質を持つ。これは、次の三例の歴史的事件から言える。

 第一は、1875年の江華島事件である。それまで日本は朝鮮に対して融和的姿勢を保っていたが、砲艦の雲揚号が対馬周辺海域で測量をしていたところ、突如として朝鮮軍の沿岸砲台から砲撃を受けた。日章旗を掲げていたにもかかわらず攻撃されたことを受けて、同沿岸砲台を一時的に占領して制圧した。この過程で、わが将兵1名が殺害された事件である。

 この事件以後、それまで地理的に近しかった朝鮮に対する融和的世論は瓦解し、一気に国民感情は悪化した。どれほど悪化したのかというと、この事件から24年後に刊行された福沢諭吉自叙伝の「福翁自伝」では、文脈に朝鮮は一切関係ない「もののたとえ」として、サラリと「その卑劣朝鮮人の如し」(前掲同書原文ママ)という表現を小見出しに使っているほどである。

 第二に、1931年6月の中村震太郎大尉・井杉延太郎曹長殺害事件である。両名は中国黒竜江省の地理などを調査していた時、敵に捕らえられ殺害された。このとき、現代ほど国境は明確ではなく、また朝鮮人と地元民の地域紛争によって多くの死傷者が出るなどし、加えて南満州鉄道株式会社に勤務する日本人への人種差別が現地で横行していたため、非武装で調査していた際、猟奇的な手法で殺害され、その遺体が凌辱された事件である。これを受けて日本世論は激怒し、この約三カ月後から始まる所謂満州事変を強く支持する世論が醸成された。

 第三に、1937年8月の大山勇夫海軍大尉・斎藤與蔵三等兵曹の殺害事件である。上海市を自動車で通行していた両名に対して、敵が突如として銃撃をはじめて両名を射殺した事件である。この事件を受けて日本世論は大きく傾き、第二次上海事変による治安の回復を強く支持する世論が形成された。

 このように、日本人とは同胞の死に対して極めて敏感である。いまも海外で事件事故が起きると先ず邦人安否情報が報道されるといった諸外国ではあまり見られない強い同胞意識を有していることから見ても、現在のような国際状況の中で、海上保安官が理不尽に殺害される事件が起きた場合、世論の激昂は極めて強いものであると予想される。

 主権者が激昂した場合、政治はそれを鎮める手段を持たない。だからこそ、でき得る限りの手段を用いて、我が国の安全を守らなければならないものであると本論は主張する。

 特に、海上警備を行うにあたって、包丁程度でしか武装していない犯人に対する武器使用基準を準用していることは、国際的にも正気であるとは言い難い。

 武器そのものが対等であることはもはや意味が無い。武器使用基準の対等がいまこそ必要なのである。国を守るための手段の構築に、「早すぎる」ことはない。本論の法改正にまい進できる硬骨の議員の登場を期待する。
 (4657)

橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。日本会議会員。

関連する記事

関連するキーワード

投稿者

この記事へのコメント

コメントはまだありません

コメントを書く