あちこちで「菅内閣の課題は何ですか」と聞かれる。コロナや規制改革、拉致問題、憲法改正など、菅義偉新内閣には重大案件が目白押しだ。しかし、「国民の生命・財産、領土・領海」を守るのが国家の使命であることを考えると、「尖閣問題」もまた最重要であることは論を俟たない。
私は菅総理に「尖閣諸島戦時遭難事件墓参団の組織と、慰霊祭・慰霊碑建設の許可を出していただければ……」と申し上げたい。
尖閣諸島戦時遭難事件は、昭和20年7月、米軍機による民間疎開船の銃撃遭難事件のことである、戦後のアメリカ統治の沖縄で、長く秘せられていたものだ。
犠牲者は銃撃死、溺死、餓死を合わせると80人、あるいは100人以上との説もある。今も尖閣諸島の魚釣島には、これらの犠牲者が仮埋葬のままご遺族の訪問を待っている。
尖閣は明治17年、実業家の古賀辰四郎の探検で開かれ、日本政府は現地調査の末、清国を含むいずれの国にも属していない「無主地であること」を確認し、明治28年に閣議決定によって日本領土に編入した。
アホウドリの羽毛採取などを始めた古賀はその後、鰹漁業や鰹節の製造等に事業を広げ、最盛期は同島に248人もの人々が生活していた。そのため昭和7年、同島は古賀家に私有地として払い下げられている。しかし、船の燃料が配給制となって以降、事業継続が難しくなり、昭和15年、古賀商店は同島から撤退し、尖閣は再び無人島に戻っていた。
この間の大正8年には、遭難により同島へ避難した中華民国・福建省の漁民男女31人が救助され、その後、遭難者が石垣島に移され、中国へ送り届けたことにより、大正9年に長崎駐在の中華民国領事から石垣村長へ感謝状も送られている。
感謝状には、遭難場所が「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」(注=現在の魚釣島のこと)と明記され、尖閣が、れっきとした日本領土であることが示されているのである。
同島には、事業の間に亡くなられた方のお墓だけでなく、戦争時の悲劇による墓地も存在する。
前述の通り、それが尖閣諸島戦時遭難事件がもたらしたものだ。昭和20年7月、石垣島から台湾へ民間人およそ200人を疎開させる小型船2隻が航行途中に米軍機の攻撃を受け、1隻は沈没、もう1隻は辛うじて尖閣諸島に漂着した。
飢えとその後の米軍機などの攻撃により、約50日後の救出までに多くの犠牲者が出ることになる。餓死、衰弱死した人々は同地に仮埋葬された。
戦後、アメリカの統治下にあった沖縄では、この話は秘せられ、知られることはなかった。しかし、『沖縄県民史』(第10巻)や琉球新報の報道で徐々に知られるようになった。その後、尖閣上陸を目指す民間団体の行動や政治家たちの活動が逆にご遺族との意識の乖離を生んだこともあった。
しかし、ここは人道的な観点からご遺族の意向を最重視し、政府がイニシアティブをとり、墓参団の訪問や慰霊碑建設などを是非、おこなっていただきたい。
自民党総裁選の終盤、10年前の尖閣中国漁船衝突事件のことが話題になった。海上保安庁の船にぶつかってきた中国漁船の船長が処分保留で釈放されたことに対して、当時の民主党政権の前原誠司元外相が、
「菅直人首相に呼ばれ、〝船長を釈放しろ。(しなければ)APECに胡錦濤が来なくなる〟と言われた」
と爆弾証言したのである。あの大失態は、やはり首相による事実上の指揮権発動であったことが10年の歳月を経て暴露されたのだ。
菅直人首相の行為は言うまでもなく「施政権の放棄」を表わす。犯罪行為さえ処断できないのは「日本は施政権を持っていないことを自ら認めた」ことになり、以後、中国の尖閣への増長を生む最大要因となったことを私たちは忘れてはならない。
これらを踏まえ、新政権には元住民の墓参と遭難事件犠牲者ご遺族の訪問、そして慰霊碑建設等に向けて是非、積極的に動いていただきたく思う。
実はまだアメリカ統治下の昭和44年5月10日、当時の石垣市長と遺族代表らにより初めて遭難事件の慰霊祭が現地でおこなわれ、小さな遭難者慰霊碑が建立されている。その場所もおそらく風雨によって今では発見するのに苦労するだろう。
多くの犠牲者の遺骨が仮埋葬のまま、今もご遺族の訪問を待っているのである。日本の苦難と共に歩んできた尖閣の歴史を私たちも改めて胸に刻みたい。
私は菅総理に「尖閣諸島戦時遭難事件墓参団の組織と、慰霊祭・慰霊碑建設の許可を出していただければ……」と申し上げたい。
尖閣諸島戦時遭難事件は、昭和20年7月、米軍機による民間疎開船の銃撃遭難事件のことである、戦後のアメリカ統治の沖縄で、長く秘せられていたものだ。
犠牲者は銃撃死、溺死、餓死を合わせると80人、あるいは100人以上との説もある。今も尖閣諸島の魚釣島には、これらの犠牲者が仮埋葬のままご遺族の訪問を待っている。
尖閣は明治17年、実業家の古賀辰四郎の探検で開かれ、日本政府は現地調査の末、清国を含むいずれの国にも属していない「無主地であること」を確認し、明治28年に閣議決定によって日本領土に編入した。
アホウドリの羽毛採取などを始めた古賀はその後、鰹漁業や鰹節の製造等に事業を広げ、最盛期は同島に248人もの人々が生活していた。そのため昭和7年、同島は古賀家に私有地として払い下げられている。しかし、船の燃料が配給制となって以降、事業継続が難しくなり、昭和15年、古賀商店は同島から撤退し、尖閣は再び無人島に戻っていた。
この間の大正8年には、遭難により同島へ避難した中華民国・福建省の漁民男女31人が救助され、その後、遭難者が石垣島に移され、中国へ送り届けたことにより、大正9年に長崎駐在の中華民国領事から石垣村長へ感謝状も送られている。
感謝状には、遭難場所が「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」(注=現在の魚釣島のこと)と明記され、尖閣が、れっきとした日本領土であることが示されているのである。
同島には、事業の間に亡くなられた方のお墓だけでなく、戦争時の悲劇による墓地も存在する。
前述の通り、それが尖閣諸島戦時遭難事件がもたらしたものだ。昭和20年7月、石垣島から台湾へ民間人およそ200人を疎開させる小型船2隻が航行途中に米軍機の攻撃を受け、1隻は沈没、もう1隻は辛うじて尖閣諸島に漂着した。
飢えとその後の米軍機などの攻撃により、約50日後の救出までに多くの犠牲者が出ることになる。餓死、衰弱死した人々は同地に仮埋葬された。
戦後、アメリカの統治下にあった沖縄では、この話は秘せられ、知られることはなかった。しかし、『沖縄県民史』(第10巻)や琉球新報の報道で徐々に知られるようになった。その後、尖閣上陸を目指す民間団体の行動や政治家たちの活動が逆にご遺族との意識の乖離を生んだこともあった。
しかし、ここは人道的な観点からご遺族の意向を最重視し、政府がイニシアティブをとり、墓参団の訪問や慰霊碑建設などを是非、おこなっていただきたい。
自民党総裁選の終盤、10年前の尖閣中国漁船衝突事件のことが話題になった。海上保安庁の船にぶつかってきた中国漁船の船長が処分保留で釈放されたことに対して、当時の民主党政権の前原誠司元外相が、
「菅直人首相に呼ばれ、〝船長を釈放しろ。(しなければ)APECに胡錦濤が来なくなる〟と言われた」
と爆弾証言したのである。あの大失態は、やはり首相による事実上の指揮権発動であったことが10年の歳月を経て暴露されたのだ。
菅直人首相の行為は言うまでもなく「施政権の放棄」を表わす。犯罪行為さえ処断できないのは「日本は施政権を持っていないことを自ら認めた」ことになり、以後、中国の尖閣への増長を生む最大要因となったことを私たちは忘れてはならない。
これらを踏まえ、新政権には元住民の墓参と遭難事件犠牲者ご遺族の訪問、そして慰霊碑建設等に向けて是非、積極的に動いていただきたく思う。
実はまだアメリカ統治下の昭和44年5月10日、当時の石垣市長と遺族代表らにより初めて遭難事件の慰霊祭が現地でおこなわれ、小さな遭難者慰霊碑が建立されている。その場所もおそらく風雨によって今では発見するのに苦労するだろう。
多くの犠牲者の遺骨が仮埋葬のまま、今もご遺族の訪問を待っているのである。日本の苦難と共に歩んできた尖閣の歴史を私たちも改めて胸に刻みたい。
門田隆将(かどた りゅうしょう)
1958年、高知県生まれ。作家、ジャーナリスト。著書に『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮文庫)、『死の淵を見た男』(角川文庫)など。『この命、義に捧ぐ』(角川文庫)で第十九回山本七平賞を受賞。近著に、『新聞という病』(産経セレクト)、『疾病2020』(産経新聞出版)など。
1958年、高知県生まれ。作家、ジャーナリスト。著書に『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮文庫)、『死の淵を見た男』(角川文庫)など。『この命、義に捧ぐ』(角川文庫)で第十九回山本七平賞を受賞。近著に、『新聞という病』(産経セレクト)、『疾病2020』(産経新聞出版)など。
2020/10/6 04:10
恐らくタブーであったろう「日本学術会議」へメスを入れた菅首相。意志あれど「こころ優しい安倍前首相」にはできなかったこれらのことを彼ならやってくれるかもしれませんね。